第2話 Scarborough fair
別れを切りだしたのは、夏香からだった。
夏香が初めての彼女だったから、手さぐり半分、分岐路のくりかえしの恋愛だった。失敗を積みかさねて人生の伴侶を探しあてるのだ、とえらい人がどこかで言っていたかも知れないが、そんなことを考える余裕すらないほど、がむしゃらだった。がむしゃらでも、僕は夏香を心から愛していたと今でも思う。高校に進学し、卒業し、結婚するのだと露ほども疑わず、僕たちは約一年、ふたりにしか見えないきらきら輝く星のために笑っていた。
いつも、夏香は僕の手をとってくれた。僕も夏香の手をとった。学校の帰り道、誰もいない静かな住宅街の隅で、次の土日の約束を話しながら笑いあっていた。ちいさい子供たちが遊ぶ公園で、タブレットにダウンロードした新作映画を、イヤホンをシェアして見ていた。膝を並べて、僕の左足と彼女の右足にタブレットを半分ずつ乗せて。彼女の隣で、夕日を浴びながら映画に集中するその横顔を、しあわせで心が溶けてしまいそうな気分で見ていた。
別れた原因は間違いなく、僕だ。断言する。
運命だとかたづけるには無責任だが、少なくとも、甘い夢を見るには現実の恋愛はとてつもなく、現実的だった。そして、運命のせいではなく、人の手で作られたノイズが原因だった。
僕らは中学二年の秋のはじめにつきあいはじめ、決定的な事件を引き金に、中学三年の夏に別れた。夏香からメールで「もう別れよう」と言われ、僕は返信しないことで承諾した。数日間、誤解を解こうと必死になって僕自身も疲れていたし、落ちついたほうがいいと思ったからだ。だけど、一分もしないうちに、涙が止まらなくなった。
恋愛に慣れている大人たちからは鼻で笑われるような、些末な事件。どうしてそんな理由で別れるんだと詰問されても答えはでない。
幼い恋の崩壊劇が、僕のここ二年ほどの生活を平和たらしめることを妨害しつづけてきた。ただひたすらに彼女は僕を避けた。別に何か嫌がらせをされるわけじゃない。暴言を吐かれるわけでも、誰かに悪口をひろげてまわられるわけでもない。見ず、話さず、関わらない。そこに僕がいないものとして扱われる。このクラスに立浪彰などいないのだと、そう彼女が僕の思い出を片づけた。そういうことなのだろう。
僕はそんな彼女の結論に甘んじた。彼女がそれでいいのなら、と僕も非難しなかった。同じように彼女と関わることを避け、男友達とつるむことが多くなった。お互いにお互いを透明なマグマとして見ることになり、火傷することを恐れて近よらなくなった。そして、それが意外にうまくいった。二年間、ずっと。
半年前に村山とつきあいはじめたという話を聞いて以来、そのやり方にもっと大きな、そしてもっともらしい理由ができた。新しい彼氏のいる女に元彼が近づくなんて絶対ダメだろ、という、誰にも否定させない倫理の味方ができた。だからずっと、ただの一言も彼女と言葉をかわしていない。プリントを拾ってあげたときの会話は、本当に、本当に久しぶりすぎた。
夏香は今も笑っている。二年前の痛みを忘れてしまったように。
忘れてしまったならむしろそれはしあわせなんじゃないかと、僕はまたもっともらしい理由を命がけで作っている。
病院に運ばれた夏香は、命に別状はなく、奇跡的に数か所の打撲ですんだ。だが、夏香は階段から落ちたときに頭部を強く打ったらしく、意識不明の状態が翌日も続いている。命にかかわる怪我ではないと担任の先生に言われ、クラスメイトたちは一様に安堵のため息をついていたが、僕は授業中も机に突っ伏してずっと夏香のことを考えていた。
意識不明って、それは危ないことじゃないのか? 最悪の結果を想定していまにも病院へ走りださんとしていた。彼女が入院している病院は知っていたが、意識が戻るまで親族以外の面会は謝絶となっていた。
事故当時、夏香の身体を抱いて放心状態の僕は先生にひきはがされ、「どうしてこんなことになったの、立浪くん」と問いつめられたが、ショックで何も答えられなかった。先生の声がはるか遠くの選挙カーからの演説のように、言葉になる前に僕の耳を通過していった。誰もいなければ泣いていたかも知れない。
救急車が到着し、夏香は近くの病院へ搬送された。そのあとになって、夏香はプリントを拾おうとして階段から落下したのだと先生に報告したが、二時間近く、僕が彼女を突き飛ばしたという疑惑が晴れずに苦労した。普段から険悪な関係でいるならともかく、ほぼ接点がない僕がそう疑われるくらいだから、僕と夏香の関係はただの他人ではないということに大人たちはうっすら気づいていたのかも知れない。
夏香の両親からの吉報を待って、自宅の電話をずっと気にしていた。子機を枕元に持ちこんで寝た。落ちついていられるわけがない。別れたとはいえ、彼女は僕がかつて愛した女の子なのだ。
どうしてあの子がこんな目に。僕がもっと早くに手をのばしていれば、掴めたかも知れないのに。そんな粘りけのある感情が僕自身をからめとって離さない。うっかり気をゆるめると泣いてしまいそうになる。夏香のことになると、僕はいつもこうだ。女々しくて、情けなくて、ダサい。
炊きたてのごはんの上で放置された海苔のようになってしまった僕の背中を、ノートで元気よく叩く瞳。
「しっかりしなよ、お医者さんが大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫だって」
痛む背中をのばして起きあがると、瞳と、なぜか賢一もいた。
「まあ、そりゃ、私だって心配はしてるけどね」
「俺も」賢一がため息まじりに言った。「最低限、お前のせいじゃないんだから。あんまり思いつめすぎるなって」
ふと周囲を見わたしてみれば時間はすっかり昼休みで、賢一は購買のパンとジュース、瞳はいつもの弁当箱を持っていた。今日に限って僕の机で食べるなんて言いだす二人に、僕はしぶしぶコンビニで買ってきたパンとリプトンのパックを鞄から出す。
「なんでそんなに夏香に固執すんだよ。他にもいい女子、いっぱいいるのに」
パンの袋をちぎる賢一の不満げな目に威圧され、僕は言葉を失った。固執なんていう泥のような言葉ではないような気が、する。するだけ。
「心配なだけだよ。それに、夏香以外の女子がとかじゃなくて、単に同じ地元の市立の高校に入ったってだけなんだから。別に会いたくて会ってるわけじゃない」
僕はパックにストローを差しながら言う。言いながら、自分の言葉が大きな岩になって腹の底にどすん、どすんと積みかさなっているような感覚におびえた。
「本気で、本っ気で夏香に会いたくないならさ」瞳がほうれん草のごまあえをはさんだ箸を僕の目の前につきつけた。「みんなの進路がわかってきた時点で、他の高校に行くことだってできたでしょ。なのにしないってことは、無意識に夏香のそばにいたいと思ってるからだよ。人間は偉大なる無意識に翻弄されて生きてるんだから」
「なんでそうやっていつも知ったような口調で哲学っぽいこと話すんだよ」
「とりあえず全宇宙の哲学者に謝れ」
瞳の言うように、僕がもし今でも夏香と一緒にいたいとうっすら考えているのだとしたら、それはそれでさらに情けない。話しかけもせず、極力目を合わさず、それでいて同じ空間を共有したいだなんて。
「女の恋は上書き保存式、男の恋は名前をつけて保存式」
瞳がペットボトルのキャップをまわしながら言った。「でも男子ってさ、別れた女子は全員今でも俺のことを思ってくれているはず! みたいに思うところあるでしょ?」
夏香しか彼女がいたことがない僕は、いや、うーん、とあいまいな返事をしたが、賢一が一瞬肩をふるわせた。もしかしたら周りでうっかり聞いてしまった男子も、同じようにぎくりとしたかもしれない。
「そんなことないからね、多くは。上書き保存式だからなのかな、元彼氏の存在ってかすんじゃうんだよ。男の子って、ほら、新カノできても元カノと会うのに抵抗ないでしょ。彰みたいに、新彼できた元カノに執着する男子もいるし」
「やめてほんとガチで」僕は頭をかかえそうになった。「今の俺にそんなこと言って、ナルホドソーデスネって切りかえられると思ってるのか?」
「もちろん思ってないよ、でも、今の彰の態度は夏香を追いつめるだけだと思う。今はただ、固執とか元彼の立場とか、そんなのは忘れて、ひとりの女の子の無事を祈ろうよ」
生きたままのゴキブリを丸のみしたような気分だった。胃袋の中でカサカサと動きまわられてもおおいに困る。
僕はパンを食べながらスマホをひらいた。以前、あれだけ画面とにらめっこして結局消せなかった夏香のアドレス。彼女はすでにアドレスを変えてしまっているから、残しておいてもしかたないのに。
アドレスを消したって過去が消えるわけじゃない。それはわかっている。だから、むしろ利用しているだけだ。消えないんだから残してたって別にいいじゃないか、と。僕はいつだって、自分にいちばん都合のいい言葉を探している。
その日の授業が全て終わって家に帰ると、ちょうど電話の受話器をおいた母が慌てたようすで言った。
「夏香ちゃん、意識が戻ったそうよ」
その瞬間、自分の鞄が三キロぐらい、急に重くなったような気がした。母は夕食の準備がまだ途中だから出られないと言い、父が高そうなみかんゼリーのはいった紙袋を僕に手わたした。誰もお見舞いに行くなんて言ってないのに。僕たちがとっくに別れたことは、両親も知っているはずなのに。安心と、重圧と、混乱とで、何も言いかえせずにいた。
手に食いこむゼリーの紙袋の感触を端に寄せ、僕は最後に見た夏香の表情を思い出していた。眼球をえぐるような、ありったけのマイナスの感情がこもった眼差し。同時に、病室で会った瞬間に平手打ちをくらうことが容易に想像できる自分にため息をついた。
紙袋をさげ、近所の総合病院の受付で夏香の部屋番号をたずねた。担当医に確認するので座ってお待ちください、と言われ受付周りのソファの空きを探していると、あんまり見たくなかった顔と偶然でくわす。
村山禎雪。夏香の彼氏。僕は以前、誰かを通じてサダユキというレトロな名前を初めて聞いた時、侍みたいで豪華な名前だな、と思った。
彼は五人がけソファの一番端に座っていたが、僕の視線に気づいた彼は、いじっていたスマホから顔をあげて「あっ」と声をあげた。
広い大病院のロビーは混雑していて、面会時間終了が迫っているのに大勢の人でにぎわっている。彼らを背景に、紙袋を持っている僕と花束をかかえた村山が正面から対峙する姿は、黒澤明の「椿三十郎」の決闘シーンのようだった。
自分の彼女の元彼氏が、見舞いにきている。そんな状況に村山はたいして動揺したようすも見せず、「立浪だよな」と言った。
「直で話をするのはこれが初めてかな」
「特に記憶にないね」僕はブレザーの裾をにぎりしめてうつむいた。
シンプルで優しい花をいくつもかかえている村山は、どう話せばいいのか迷っている僕に優しく笑いかけた。女子が夢中になるのもわかる、すべてのパーツが整った顔立ちで、嫌味がない。イケメンの定義は男女で違うだろうが、彼は間違いなく、双方から好かれるタイプだ。無表情でいるとクールで大人っぽいのに、笑うと少年らしさが垣間見える。
「夏香のお見舞いなのか」
棘のない、やわらかい声をかけられて僕は顔をあげることができず、ちいさくうなずいた。「まあ座ろうや」と言われ、僕はゆっくりと、少しだけ距離を置いて村山の隣に座った。僕の存在を煙たがっているようには見えず、話しかけられても僕ひとりが気まずくてうまく返事ができなかった。
「俺も待たされてるんだけど、面会に来た人間のために、なんでいちいち確認が必要なんだろうな」
「さあ」僕は平静をよそおってこたえた。「なんか、例えば今は人に会っちゃだめな病状だとか、そういうタイミングみたいなのがあるんじゃ」
「目が覚めたっていうのに、結構ややこしいんだな」
病院って、と言いながら村山は派手なため息をついた。僕はそこからうまく会話をつなぐことができなかった。僕が下手くそなのもあるが、村山も僕と話すのに少し戸惑っていることが伝わって、余計に緊張したからかも知れない。
ややあって、村山が静かな声で話しはじめた。
「立浪が夏香の元彼だっていうのは知ってる」
世界の存続について語り合うような声だった。「で、夏香と同じクラスだろ。それなのに、俺に遠慮してるのか知らないけど、夏香ってぜんぜん立浪のことを話さなくてさ。こっちから聞くのも変だし。そういう扱いされると、逆に気になってて、他の人たちにお前のことを聞いた」
「あ、だから俺の名前を知ってたんだ」
ちょっと驚いた。僕は他のクラスにいる、共通の友人もいない男子生徒なんて、名前も顔も覚えていないやつらばかりだ。
村山は背もたれに体重をあずけながら、僕のほうを見て笑った。
「びびったけど、話してみたら普通だったな。よかった」
「あの、なんかごめん、もう別れたっていうのに、面識あるうちの親がいろいろ持って行けっていうから」僕は手元の紙袋をゆすって言った。
「いいよそんな、本当に気にしてないから。それでもちゃんと来るあたり、夏香のことを本気で心配してるのがわかるからさ。男女のどうこう抜きで、そういう優しさはいいなって思うよ」
どうしてそんな、ドラマのセリフのような言葉がすらすら出てくるのだろう。顔がきれいなせいで余計に似合う。僕は肩をすくめた。
「先に言うけど、俺、夏香に対してやましい気持ちは持っていないから」
「わかってるって。そういう奴に見えないし。ゲスい連中が、お前が夏香を階段から突き飛ばしたんじゃないかって噂してるけど、会ってみたらそんなこと全然できなさそうだもんな、立浪って。たまたまあそこに居合わせただけだろ?」
一瞬、牽制されているのかと思った。ひやりとした僕を安心させるように、村上は笑った。
「そういうくだらないこと言うの、お前と会ったことも話したこともないやつらばっかりだし。こうして会って話した俺が止めとくから、安心しろよ」
笑顔。すべての女子を陥落させてきた、幼い男の子みたいな笑いかた。その口ぶりに一瞬、僕も心を奪われた。大勢の人を惹きつける人間って、こういう人のことをいうのかもしれない。ぼんやりとそう思いながら彼の横顔を見つめていたが、唇を噛んで無理やり頭を現実に引きもどした。
「なんか、なおさら俺が夏香のお見舞いに来たの、おかしい気がする。俺、どこかバグってんのかな」
「気にしすぎだろ」村山が肩をふるわせて笑う。「俺、ひどい別れかたをした元カノなんて、視界に入れるのも怖くてできない腰抜けだからさ。もし俺の元カノが怪我したってなっても、あっちの親と顔を合わせるのが怖いから、お見舞いに行く勇気なんて絶対出ない。お前ってすごいな」
やめてくれ、僕の汚さが浮き彫りになる。これがひとりの女子の元彼氏と現彼氏の会話だとは思えない。なんでこんなにほのぼのとしてるんだ、僕たちは。
村山と夏香の仲のよさは有名だし、美男美女ということで羨望の的にもなっていた。頭もよく女子に相当な人気だが、恋人が夏香だということで大半の女子たちが諦めている。友達も多く、僕もちょっとかっこいいなと思っていた。彼は夏香を大切にしているし、夏香も彼を愛している。そして夏香の元彼氏である僕にこの態度。おおらかで、気配りができて、優しい。
いいやつなんだろうな、と思いながら僕は彼を横目で見た。
やがて看護師から呼ばれ、夏香のいる病室の番号を伝えられた。僕と村山はそろってエレベーターに乗り、案内された階へ向かった。
三〇五号室は一人部屋で、真っ白なドアをスライドさせるとすぐに彼女の両親が気づき、立ちあがって会釈をした。村山につられて僕もぎこちなく頭をさげる。第一だけはずしているシャツのボタンを無意識にしめた。
「夏香はどうですか」花束を差しだしながら村山がベッドを見やる。
夏香は頭部に包帯を巻いて眠っていた。いくつか強打した箇所があるらしく、腕や肩にもガーゼが貼られてある。花嫁のドレスのように真っ白なベッドの上で寝息をたてる彼女の姿を見て、僕は心底安心した。膝の力がぬけて、その場でへたりこんでしまいそうだった。同時に、ここ数日のだらけっぷりを反省する。無事っぽそうだ、よかった、という言葉ばかりが頭の中でくりかえされる。馬鹿みたいに。
ほっとしてしまうと気がゆるんで、つい「夏香」と言いそうになる。真っ白な部屋とベッドをあたえられた彼女は、けがれを知らない天使のようだった。実際、村山がどうかは知らないが、僕は彼女の身体に手を出したことがないから、あながち間違っていない。
夏香の両親は、娘の元彼氏と新しい彼氏の夢の共演に少しとまどっているようだったが、すぐに状況を説明してくれた。
「今は眠っているけれど、意識をとりもどしたのはお昼すぎらしいの。はっきり話せるし、自分の名前も言えるけれど、自分が階段から落ちたことはあまり覚えていないらしくて。お医者さまは、頭部の外傷で一時的に記憶が混乱しているだけだから、心配はないとおっしゃったのだけど」
あまり眠れなかったのだろう、うまく化粧がのっていない夏香の母親の言葉は震えていた。喜んでいるのか、まだ息を殺してひそんでいるのかも知れない新たな悪魔を恐れているのか。
僕は「たいしたものじゃないですけど」と言って、夏香の両親にゼリーを手わたした。中学時代に何度も顔を合わせたふたりは、「来てくれてありがとう」と言って僕に昔と変わらない笑顔を見せてくれた。それが少し、ホッとした。
今後の経過観察のことについて話を聴いていると、夏香が身をよじった。衣擦れの音にその場にいた誰もが驚き、ベッドに手をついた。
「夏香」最初に叫んだのは村山だった。次いで夏香の父親が彼の後ろにかけつける。
かけ布団をにぎりしめて、目元を指でこすりながらうめく夏香。半分ほどひらかれた目は少し充血していたが、焦点がしっかりしている。彼女の瞳は横を向き、眠たそうに瞼を半分伏せたまま村山をとらえた。
「よかった、元気そうだな」
嬉しそうに叫んで夏香の上半身を起こし、抱きしめる村山。実際は心底心配していたのだろう、かすかに涙声になっていた。肌が乾燥して荒れている夏香は、寝ぼけて何事かをうめきながら村山に抱かれるがままになっていた。
無事な夏香を見て安心した僕は、しかし、目の前の光景をガラス越しに見ているような心地でいた。あるいは、スクリーンのこちら側と向こう側。村山の後ろ姿に自分を重ねて、ゆるみかけた口元に力が入り、呼吸が浅くなる。
先刻仲良くなった村山が喜んでいるのも、夏香が目を覚ましたのも、変わらずうれしいことのはずなのに。いとおしそうに夏香の髪を撫でる村山の手を見て、しびれるような感触が背骨を伝った。
最後に彼女の髪に触れたのはいつだろうか。映画を見終わって、歩きながら感想を話しているとき、主人公の真似をして彼女の長い髪の端を触ると、夏香が照れたように笑って身をよじって――
「本当に、よかった」
村山の声が鼓膜をかすめる。実感がない。機械を通した吹き替えの日本語音声のように。
だが突然、夏香が驚いたようすで目を見ひらき「離して!」と金切り声をあげて、村山を突き飛ばした。後ろ向きによろけた村山は、驚いて彼女を見つめる。僕ははっと息をのんで、おびえた表情の夏香を見た。身を守るようにかけ布団をひきよせて震える彼女に、彼女の両親が「どうしたの」と声をかける。
「誰この人? なんで急にそんな抱きついてくんの?」
慌てふためいて舌がからまっている夏香は、呆然としている村山を見てまくしたてる。僕は何か言わなくてはと思い、しかし身体が動かず、ふたりの元へ駆け寄ろうとした姿勢のまま硬直してしまった。
村山は真っ青になってちぢこまっている夏香に再度手をのばし、「何言ってるんだよ」と苦しまぎれに笑った。
「記憶喪失のドラマじゃあるまいし。悪かったよ、お前が階段から落ちたとき、まっさきに駆けつけてやれなくて」
「階段? それじゃあお母さんが言ってた、階段から落ちたっていうのは本当だったの」夏香は警戒している子猫のように枕もとににじりよった。「ていうか、わけ分かんない、何言ってんの。ほんとに誰なの。その制服、うちの中学じゃないでしょ。親戚にこんな人いたっけ?」
そのとき、僕は村山が言った冗談が冗談じゃないような気がして凍りついた。全身の血がざあっと音をたててひいていく。まさかそんなはずは、と自分に言い聞かせながら一歩近づくと、靴音に気づいた夏香が僕を見た。
夏香の表情は一気にゆるみ、笑顔になりかけた。しかし、すぐにそれは元のおびえた形相に変わって、彼女の乾いた唇は僕の下の名前をずいぶん久しぶりに呼んだ。
夜の街のどまんなかで、泥酔して倒れる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
「彰、そこにいるの、彰でしょ? ああよかった、知ってる人がいた。ねえ教えて、この人は誰なの。どうして私が男の人に抱きつかれてて何もしないの。ねえ、彰ってば」
かけつけた医師によって僕ら二人は一時、夏香の病室から出るよう指示された。両親がつきそって問診を行うらしい。僕と村山は廊下のソファにならんで座って黙っていた。村山は夏香に拒絶されたことがショックだったらしく、うなだれて顔を両手でおおっている。どれだけ気分が悪いか、想像に難くない。まして、事故を起こして、意識不明で、ようやく目が覚めて喜んでいる矢先なのだから。ヘッドロックをされて、餌をもらって、直後に右ストレートをくらったようなものだ。
僕はというと、何年かぶりに夏香に名前を呼ばれたことで少しのあいだ、授業中にするよりさらにぼんやりしてしまった。耳の穴にてろりとハチミツを垂らされた甘さ。この感触を、僕はまだ覚えていた。彼女から「彰」と呼ばれていたころのこの気持ちを、僕はまだ、覚えていた。いつまでも消せない彼女の連絡先のように。
突然僕をかつてのように名前で呼んだ夏香の、まっすぐで必死な視線にひるんだ。あんな眼で見つめられるのも久しぶりだ。
そして、なぜだろう、と思った。彼女の言ったこともよくわからなかった。いや、わかりつつも、納得しなかっただけだ。僕は隣に座る村山の顔が見れなかった。彼もきっと、同じことを頭の隅で考えているだろうと思ったからだ。
三十分間、僕と村山はソファに座って何も話さず、動かず、目の前のドアがひらくのを待っていた。が、窓の外が暗くなるころ、ドアのむこうから出てきたのは夏香の担当医だった。
「すみません、面会時間が過ぎましたので、親族以外のかたはおひきとりください。まだ本人は状況を把握していないようですし、我々も検査が必要です。後日、改めて」
問診って、そんなに長い時間がかかるのか。ふたたび病室に突撃したい思いにかられつつも、軽い会釈をして、僕と村山は医者に背を向けた。廊下を、エレベーターを、ロビーを、無言で通りすぎてゆく。正面玄関をくぐりぬけてようやく村山が口をひらいた。
「立浪と夏香がつきあってたのって、中学のときだよな」
悪意のない語調。真っ白な闇。僕がうなずくと、彼はたよりなさげにため息をついた。
「つきあってたとき、夏香、お前のことを彰って呼んでたのか」
数秒逡巡して、ゆっくりと「そうだった気がする」と答えた。気がする、というのは、僕の下手くそな配慮だった。
暗い病院の駐輪場で、僕は自転車を、村山はスクーターをひっぱりだした。ふたたびため息をついた村山は、キーをさしながらつぶやいた。
「冗談でも、口にするもんじゃねえな。言霊っていうやつ」
彼の長めの前髪が端正な表情を隠す。僕は自転車の鍵をあけてサドルにまたがった。
「大丈夫だろ、一時的な記憶の混乱って医者も言ってたし。今は夏香の無事を祈ろう」
村山はヘルメットをかぶりながら笑う。それでも、ベルトをしめる手がかすかに震えていた。夜風はそろそろ冬本番といったところだが、それだけじゃないだろう。僕はぐっとハンドルを両手でにぎった。
村山はスマホを取り出して、何かあったら連絡しろよ、と言った。画面にはLINEのQRコードが表示されていた。
「助けが必要になるかも知れない」
お互いに、と村山がちいさな声で言った。苦しげに眉をぎゅっとひそめていた。今の自分がかかえもつ痛みを自覚しているはずなのに、同じ痛みを持つ僕を気にかける余裕のある人間の、優しい言葉だった。
LINEを交換して、まさに今だろ、と僕は笑った。笑いかけて、彼の心痛を少しでもやわらげられたらと思ったけれど、だめだった。スマホをポケットに入れた村山は笑みを浮かべていたけれど、目がまだ切なげに細められていた。恐れを口にすることを恐れているようだった。
僕と村山は、存外、似た者同士なのかもしれない。
エンジン音をふりまきながら去ってゆくスクーターを見送り、僕はふと夏香のいるあたりの病室を見あげた。どこが彼女の部屋の窓なのかは分からない。けれど、今、彼女は何をしているのだろうと考えたら、胸の中をフォークでかきまわされるような痛みが走った。彰ってば、という彼女の言葉を思い出して、窓のあかりたちから目が離せなくなった。どうせ何もできないのに。
ライトをつけて、自転車をこぎだす。
つきあった一ヶ月記念、ということで夏香が僕にDVDをくれたことがあった。中学二年の冬前だった。
女は何かと記念日を作りたがるしやたらと覚えている、とはよく聞いていたのであるていど覚悟はしていたが、まさかの「つきあって一ヶ月たったからその記念」に僕は驚いてしまった。思わず「え、何それ」と返答してしまったのを覚えている。もちろん夏香にぶすくれられてしまったが。
DVDをくれた、というより交換を強要された。DVDを交換し、それを思い出にしようということらしい。昨今、サブスクの配信サービスでどの映画も気軽に見れてしまうから、あえてディスクで持っておくことがいいのだと、彼女に熱弁された。
「『15時17分、パリ行き』はね、実際にあった事件をもとにした映画なの。たまたま旅行先でテロ事件が起きて、その犯人を主人公三人が捕まえるんだけど、彼らの人生のどんな挫折も困難もテロ事件解決の糸口になっていて、複線回収がすごいの。何より、主人公三人を演じてるのが本人っていうところが、いちばんの見どころだね」
そう言って彼女は学校で「15時17分、パリ行き」のDVDをくれた。映画好きの彼女とつきあうまであまり映画に触れてこなかった僕は、ありがとう、と言って素直に受けとった。ストーリーが面白そうだったし、実はDVDを所持するのはこれが初めてで、高揚していた。その日の夜のうちに見て、翌日学校でずっと感想を話していたのを覚えている。
対する僕は夏香に、ロバート・ゼメキス監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のDVDをあげた。映画に詳しくない僕でも地上波で見たことがある、当時唯一好きだと言える映画だった。生まれるずっと前に公開された作品だけど、有名すぎて夏香なら飽きるほど見ているんじゃないかと思った。でも、配信でいつでも見れるから逆にDVDを持っていなかったらしい。彼女はDVDをいとおしそうに見つめ、大事にするね、と言って笑った。
そして、どっちもテーマが似ている映画を選んだことに、夏香が最初に気がついた。自分を偽らず、腐らず、どんな局面でも前を向いて生きていれば、人生のどこかで大きな決断をするときに役に立つ、という夏香の選んだ映画。タイムマシンで過去に戻って、今の人生を作り直したりしなくても、自分たちの行動で未来を素晴らしいものにすることができる、という僕の選んだ映画。
そのことに気づいたとき、僕らはたがいに顔を見あわせてくすくす笑っていた。まるでこの先のふたりの未来が、どうかしあわせで、希望に満ちたものであってほしいと、一緒に願っているようだった。
くだらなくて、ばかばかしくて、誰かに話したらきっと笑われる。でも、それがすべてだった。目に見えない、小さな魔法。
夏香は僕の左腕にしがみつき、くっついて歩くのが癖だった。そのくせ、蝶を見つけたらほいほいと追いかけに行く。それを止めるのは僕の役目だった。ルイス・マイルストン監督の「西部戦線異状なし」では、蝶に手を伸ばせば撃たれて死んでしまう。彼女の腕をとってそのことを話すと、ぷうっと頬をふくらませていた。
本当は、蝶を求めていたのは、僕なのかもしれない。
数日後、夏香の両親が電話で彼女の容体を教えてくれた。
一時的な記憶の混乱どころか、夏香は逆行性健忘症、つまり記憶喪失だった。数日、数か月に及ぶ記憶がすっぽりと抜け落ちていて、両親と一緒に医師と話したときには、高校に入った記憶すらもないと話していたらしい。落下時の頭部への衝撃が原因だという。じゅうぶんな治療法は確立されておらず、怪我が回復したあとは退院する予定になっている。現在も彼女は、自分がおかれている状況を把握できずにいるにもかかわらず。
――そんな、馬鹿な。
僕は耳にあてた子機をにぎりしめて、自室のベッドに座ってうなだれた。貧血をおこすかと思った。村山の冗談は冗談ではなかった。記憶喪失は恋愛ドラマで用いられる小道具だと思っていたので、現実でそんな深刻な場面に己が遭遇するとは思わなかった。
両親に確認をとると、はっきり境目があるわけではないが、夏香が覚えているのは三年前、十四歳、中学二年生の冬ごろまでだという。中三の新学期をむかえた記憶はないらしい。だから夏香は村山を突き飛ばしたのだ。彼女の中では、世界はまだ三年前のままで、自分は中二なのだから。村山とつきあっているなんていう事実は彼女の記憶にはないのだから、突然見知らぬ高校生の男に抱きつかれたことになる。
中二の冬といえば、僕と夏香がつきあってまもないころだ。互いに映画のDVDを交換した、一番しあわせだった時期。あのときの僕らはまだ恋の甘味におぼれていて、信じられないほど世界が輝いていて、永遠に寄り添っていたいと願っていた時期だ。
何が起こったというのだろう。
この世界はそんなにリアリティを失ったのか。
僕は言葉を失い、子機を持っていないほうの手で顔を覆った。呆然とし、何をすればいいのか分からず、「夏香が君に会いたがってるんだ」と電話口で泣きそうな声で言う彼女の父親にも、かえす言葉が見つからなかった。
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