傷口にハチミツ
真朝 一
本編
第1話 Counting Stars
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爆弾のスイッチを前にした気分でその選択肢を見つめていたが、五分近くたって僕はスマホの電源ボタンを押した。
暗くなった画面に、紙をぐしゃりと丸めたような情けない顔がうつる。
何度目かのため息をついてベッドにあおむけになり、天井をぼんやりと見つめた。無機的でまぶしい電灯が、僕のことを叱っている気がする。
何やってんだ、お前が自分で決めたことだろ、と。
ここ数年、夏香のデータを消すかどうかの瀬戸際で必死に命綱にしがみつく夜をくりかえしているような気がする。
消さない理由を手放さずに、消す理由を探している。
スマホをふたたびひらき、パスコードつきフォルダに移動させてうっかり見ないようにしている夏香の写真を、数ヶ月ぶりにひらいてみた。
ずいぶん前に撮ったプリクラ画像のデータが、見せつけるようにしあわせな空気を画面いっぱいにふりまいていた。
白いワンピースにデニムジャケットを羽織った満面の笑顔の夏香が、とまどう僕の腕を強引にとってピースをしている。ピンクのハートがちりばめられた背景。
真下には日付スタンプと「ずっとずっと一緒だよ」という手書き文字があった。
今よりまだ幼さが残る、中学生の頃の夏香。贔屓目なしに見ても可愛く、無邪気で、笑顔がまぶしい彼女が自分と並んでいる画像を見て、今更ながら疑問に思う。
どうしてこんな美女が僕なんかと一緒にいてくれたのか、と。
極端なマイナス思考ではないが、自分の顔を彼女の隣に並べると気後れする。当時はそんなこと、気にしたことなどなかったのに。隣にいられることが何よりしあわせだったのに。
つないだ手のぬくもりも、撫でた髪のやわらかさも、僕だけに向けられた無垢な笑顔も、すべてをはっきりと思い出せるのに。
夏香、と声に出してつぶやいてみる。
あの体温を失ってから二年間、繰り返された愚行。
ただいとしい人の名前を呼びたい。口にしたい。呼ぶことをやめたくない。その一心で。
階下から「
僕はカーテンを閉めてスマホをズボンの尻ポケットに突っこんだ。ずっと使っていたそれはうっすら温かく、何かの生き物のようだった。
・ ・ ・
無視されたのはこれが初めてじゃない。
少し暗めの茶色に染めた髪を自慢げにゆらし、ステップまじりに意気揚々と下駄箱に入ってきた夏香を見て、僕は一瞬、猫ににらまれたハムスターのように身をこわばらせた。
同じように一瞬だけ、ほんのコンマ数秒だけ動きを止めた彼女は、自然に、だけど僕がわかるくらいには不自然に、さっと目をそらして下駄箱に手を入れた。
彼女が床に上履きを落とす音が、わざとなのかと思うほど大きかった。反射的にそう感じるくらいには、僕はずいぶんと卑屈なのだと気づいた。
夏香は手早く上靴に履きかえると、僕の存在に気づかなかったようなそぶりで、反対方向の出口に向かって去ってゆく。
ブレザーの下に着たニットの襟元で、ピンクのリボンが揺れた。彼女の華奢なうしろ姿と、オーロラのように揺れる髪と、引き締まった足を見せびらかすように短く折られたスカートを見ながら、僕は呆然と立ちつくすしかできなかった。
夏香の耳にはワイヤレスイヤホンのちいさな粒が入っていた。きっとまた、昔のように、何かの映画のサントラを聴いているのだろう。
僕たちは最後まで何も言わず、言われず、僕の目線は空中を空振りし、彼女の目線は僕の苦手な何かをずっと見ている。
「夏香!」
野太い声が響いて、昇降口の反対側にある廊下からひとりの男子生徒が走ってきた。彼を見つけた夏香の表情が、ぱっと華やいだ。
背の高い、やたら端正な顔立ちの男子生徒が、優しい笑みを浮かべて夏香を迎えた。
「おはよ、ユキ」
イヤホンをケースに入れて挨拶をする夏香とその男子は、やわらかな笑顔をあたりまえのようにかわしながら、同じ速度で階段をのぼっていく。
僕には一瞥もくれない。
「昨日夏香に教えてもらった『トップガン』見たよ。めっちゃ面白かったし、若い頃のトム・クルーズがかっこよすぎる。バトルに全振りしてるのかと思ったら、熱いバディもので泣けたわ」
「ねー。ストーリーも戦闘機の空中戦も、昭和男子の好きなやつ! って感じでエモいよね。よかったら今度一緒に続編見ない? 制作スタッフはかなり入れ替わってるけど、CG技術が進化してもっと迫力あるよ。マーヴェリックが教官になってるし」
「うっそ、あいつが教官? 大丈夫か? めっちゃ気になる」
昔の僕と夏香が交わしていたような会話をしている。僕じゃない人と、夏香が。
ふたりの会話が、僕の目の前でカラフルなスーパーボールのように楽しそうに跳ね回る。
ああ、「トップガン」か。確か中三にあがる前の春休み、夏香と一緒に見たな。彼女は覚えてるかな。僕はあの続編、一人でIMAXのやつを見に行ったな……そんなことを考えながら、生徒が行き交う廊下に立ち尽くす。
美男美女。正確にこの四字熟語を体現しているふたりが、並んで楽しそうに映画の話をしている。手をつないでいる。頭の奥で、井戸の底に桶を落としたような音がした。
僕は教室にむかうべく、反対側の階段から階上へあがる。
まだ二十人ほどしか登校していない二年四組の教室で、最初に僕をおちょくったのは
「またはちあったのか、夏香と村山に」
前のめりにころびそうになるのを必死でこらえて、なんでお前がそれを、と問うた。
「まだ何も言ってないんだけど」
「見りゃ分かるだろうが、ふたりのやりとり」
朝からまた元彼に会ったんだけどお、と棒読みで夏香のまねをする賢一の机に鞄をどすんと落として、世紀末級のため息をついた。
どうせ誇張が加わっているに決まっているが、賢一に知られるのはいささか癪だ。ただからかわれているだけなのはわかっているが、それを怒るほどの気力も勇気も、資格もない。
賢一の前にある自分の席に腰を落とし、「なるべく近づかないようにしてるんだけど」と言いわけする。
「どこの性格悪い暇人神様のいたずらなんだろうな」
「別に意図して近づかないでいる必要ないと思うけど。どうせたまたまバッティングしただけなんだろ?」
「そのたまたまが相手に伝わってなさそうだから面倒なんだよ」
椅子に逆むきに座り、かたむけて賢一の机に組んだ両腕を乗せる。が、まだ暖房がついていない教室では、机や椅子は氷の板のように冷えきっていて、僕は数秒で手を離した。
賢一はその冷たさをものともせず、僕の前に雑に頬杖をつく。
彼は夏休みにツーブロックにした髪が少し伸びて、頬杖をついた手の指先がそこに埋もれる。伸ばした方がいいと思うのに、と考えていると、彼は僕の耳をいたぶるように、あーあ、とわざとらしく言った。
「懲りろよ、彰。一時、一瞬の感情とか自己顕示欲に流されて靴片方とられちゃ駄目だぞ。こんなカビだらけの世の中、フィクション以上に真実の愛が信用なさすぎる。愛ってのは現実と地続きなんだ。女は男が思うほどロマンを重視してない。別れたってことは新しい出会いの始まりなんだ、そこに夢と希望を見出せ」
「人を勝手に夢見る男子にしないでくれませんかね」賢一の机に置いた鞄を一旦、床に落としてどかす。「俺だってできれば夏香に会わずにすませたいよ。誤解されたくないし。でも、同じ学校だろ? 同じクラスだろ? ここで最良の解決策があれば五千円やる」
「俺が最良の解決策を思いつく方法があれば二千円やる」
それって結局僕がマイナスなんじゃないか。僕は肩を落とし、教室の隅で魅力的な男子生徒、村山と楽しげに歓談する夏香を見つめた。
ふたりはまだ「トップガン」の話をしていた。窓際に背中をあずける夏香の髪や肌が、冬の冷たい日差しにさらされてわずかに透ける。クリアネイルが施された爪が、重ねられた手の上できらりと輝いた。
教室に入ってきた誰かに名前を呼ばれ、笑顔で振り返った村山の胸元で、チェーンだけのネックレスが同じように光った。
村山が夏香の新しい彼氏になって、気づけば半年がたった。
今までのように一緒にいられないのを承知で、地元の同じ高校に入った。夏香と村山の睦言が聞こえる距離にいることを自分で選んでおきながら、その声や姿に少しずつ心臓を削られることに耐える日々を繰り返している。
入学してから一度も言葉を交わさないまま二年生になり、同じクラスになってもなお、遠くから彼女の姿を見つめることしかできない。
新しい彼女を作る気にもなれず、男友達とばかりつるんでいる。
何より夏香の、僕に未練がなさそうな態度にいちばん、傷ついた。
そうであって欲しくないと願ったのは、賢一が言うように、僕がロマンを求めすぎていたのだろうか。君はもう僕がいなくてもしあわせなのか、と思うと無心で死にたくなった。
別れたことに傷ついていて欲しい、とまでは言わないが、少しでいいから寂しいと思っていて欲しいのは、情けないながら事実だ。
──あんな出来事があって、そんなふうに思われているはずがないのに。
二年前、泣きながら僕を怒りの形相で睨みつけていた夏香のことだけは、僕が意識するしないに関わらず、脳裏にこびりついて離れないままだ。
嫌われて当然なのに、どうしてまだ彼女の煌びやかな足跡を未練がましく追いかけつづけているのだろう。
付き合っていた時の色んなことを忘れようとしても、どうしても忘れられない思い出の方が多い。彼女と一緒に見たたくさんの映画は、ブルーレイのジャケットや配信のサムネイルを見るたびに思い出すから、さらに忘れられない。
初めてリバイバル上映で一緒に見に行った映画は「タイタニック」だった。ローズはジャックと死に別れても、ずっと彼との約束を忘れないまま素晴らしい人生を送った。
が、夏香はどうだろう、というところまで考えて、冷たい机にごちんと額をつけて、やめた。
村山と夏香はスマホを見せ合いながら、週末の映画デートの予定を話している。顔にレモン汁を飛ばされている気分だった。
僕の視線に気づいた彼女があからさまに顔をしかめるのを見て、僕は慌てて顔をそらす。それからは、彼女と再び目を合わせてしまうリスクを恐れて、ふたりの方を見られなくなってしまった。居心地が悪くて、机の木目をじっと見つめる。
「誤解されないようにするには、両目をつぶすしかないのか……」
僕がぽつりと冗談をこぼすと、賢一が「よっしゃ任せろ」と言ってシャーペンを僕の顔に向けた。笑いが起きて、少しだけ気分が緩む。
寒い登校中はがちがちに止めていたブレザーのボタンを、いくつかはずした。
シャツの隙間に冷たい空気が入りこむ。
それでも僕は、賢一と一緒に談笑しながら、夏香から目をそむけつづけた。息を止めた。同じ空気を吸ってしまったら最後、彼女がそれを嫌って、僕の隣の世界からいなくなってしまいそうな気がした。
聴き飽きたチャイムの音が、そんな僕を叱咤するように鳴り響く。
・ ・ ・
別れを切りだしたのは、夏香からだった。
夏香が初めての彼女だったから、手さぐりながら、悩みながら、迷子のくりかえしの恋愛だった。失敗を顧みる余裕すらないほど、がむしゃらだった。
がむしゃらでも、僕は夏香が世界一大好きだった、と今でも思う。高校に進学し、卒業し、結婚するのだと露ほども疑わず、僕たちは約一年、ふたりにしか見えないきらきら輝く星のために笑っていた。
いつも、夏香は僕の手をとってくれた。僕も夏香の手をとっていた。
学校の帰り道、誰もいない静かな住宅街の隅で、次の土日の約束を話しながら笑いあっていた。
ちいさい子供たちが遊ぶ公園で、タブレットにダウンロードした新作映画を、イヤホンをシェアして見ていた。ベンチに膝を並べて座り、僕の左足と彼女の右足にタブレットを半分ずつ乗せて。
彼女の隣で、夕日を浴びながら映画に集中するその横顔を、しあわせで心が溶けてしまいそうな気分で見ていた。
別れた原因は間違いなく、僕だ。
運命だと片づけるには無責任だが、そうなるべくしてなったのだと思う。少なくとも、甘い夢を見るには現実の恋愛はとてつもなく、現実的だった。
夏香が僕を睨む記憶は、妄想ではなく、現実だ。
僕らは中学二年の秋のはじめにつきあいはじめ、決定的な事件を引き金に、中学三年の夏に別れた。夏香からメールで「もう別れよう」と言われ、僕は返信しないことで承諾した。
数日間、誤解を解こうと必死になって僕自身も疲れていたし、きっと彼女も疲れただろうから、落ちついたほうがいいと思った。
だけど、一分もしないうちに、涙が止まらなくなった。
幼い恋の崩壊劇が、僕のここ二年ほどの生活のあちこちに、尖ったガラス片のようになって散らばっていた。
ただひたすらに彼女は僕を避けた。別に何か嫌がらせをされるわけじゃない。暴言を吐かれるわけでも、誰かに悪口をひろげてまわられるわけでもない。見ず、話さず、関わらない。そこに僕がいないものとして扱われる。
このクラスに立浪彰などいないのだと、そう彼女が僕の存在を片づけた。そういうことなのだろう。
僕はそんな彼女の結論に甘んじた。彼女がそれでいいのなら、と僕も非難しなかった。同じように彼女と関わることを避けた。
お互いにお互いを透明なマグマとして見ることになり、火傷することを恐れて近寄らなくなった。
そして、それが意外にうまくいった。二年間、ずっと。
高校に入り、半年前に村山とつきあいはじめたという話を聞いて以来、そのやり方にもっと大きな、そしてもっともらしい理由ができた。
新しい彼氏のいる元カノに元彼が近づくなんて絶対ダメだろ、という、誰にも否定させない倫理の味方ができた。
だからずっと、ただの一言も、彼女と言葉をかわしていない。
夏香は今、笑っている。二年前の痛みを忘れてしまったように。
忘れてしまったならむしろそれは彼女にとってしあわせなんじゃないかと、僕はまたもっともらしい理由を命がけで作っている。
・ ・ ・
昼休みになるやいなや、教室に村山が入ってきた。「食堂行こうぜ」と背後を親指でさす村山に満面の笑みをむけ、席から立ち上がって駆け寄る夏香。
他クラスの村山に対し、男子生徒たちが次々に声をかけている。
「村山ぁー日曜うちでスマブラ会やるけど来る?」「お前部活休みの日いつだよ」「ごめん日曜は映画見に行くんだわ」「え、夏香ちゃんセレクト? 聞きたい聞きたい」「名探偵ポアロの新作だよー、『ベネチアの亡霊』っていうやつ」「うっわ難しそう」「村山どっからそんな金出てくんだ」「いやいや学割学割」「片岡さんに全力おすすめされた映画をオールで全部見るのやりてえ」「いいけど死ぬほど並べるよ? ジャンル別にリスト作るよ? 私は付き合うけど」
夏香と村山は大勢の生徒に囲まれ、教室中に響くぐらい大きな声で笑っている。夏香に絡む下心丸出しの男子に、村山が「なんで夏香までオールする話になってんだ」と笑いながら止める。
けらけら笑う夏香に「あんたはそのオタクムーブをやめなさいな」と別の女子が言って肩を叩く。かなりの映画好きの夏香だが、たくさんの生徒と談笑する姿が目立つ彼女は、癖が強めの趣味も魅力のひとつになっている。
教室に響き渡る笑い声から、僕はどうにか意識をそらそうとして、失敗した。
見せつけられてる、という気はしたが、つきあっている高校生だったら当たり前の光景なのだろう。ただ僕がそれに慣れていなくて、なおかつ性格が卑屈すぎるだけだ。
夏香はひまわりのような笑顔をふりまいて、とても、とても楽しそうだった。かつて僕にそうしてくれたように。
今、それは僕じゃない、別の男子に向けられている。
教室を出ていくふたりの後ろ姿を、気がついたらしつこいほど目で追ってしまう。
「ああもう見るな見るな。嫌なもんをあえて見ようとするお前の姿、共感性羞恥でこっちまで死ぬからやめろ」
賢一が僕のブレザーの裾をひっぱって偉大なる現実にひき戻す。
机に置かれた購買のパンをあけようとしたところで、今度は横から
「一万円くれるんだったら、打開策も教えなくはないけど」
彼女は誰かの椅子を勝手に持ってきて、僕と賢一が向かいあっている机の隣に遠慮会釈なく座り、弁当をひろげはじめた。
彼女はピアスが誇らしげに輝く耳に、綺麗に巻いた髪をかけて、「どうすんの」と言った。強めの美人の彼女は、制服の上からでもわかる大きな胸の前で腕を組んで、僕を逃がそうとしない。ネコ科の動物ににらまれた気分だ。
「方法によっては一万円でも二万円でも払うよ」
「今からあたしが彰をぶん殴って記憶を飛ばす」
「辞退します。命の方が先に飛んでもおかしくない。そこまで自分に自信ない」
ため息をついてパンの袋をあける。ソースが薄い焼きそばパンを食べながらカフェオレというのも悪くない。
女の子らしいカラフルな弁当に箸をつっこみながら、瞳は「とりあえず聞け童貞」と言った。童貞は余計だ。
「友達でいたいと思える元カレはまだしも、自分に未練があるのがだだ漏れのまままわりをウロウロされるのって超絶迷惑なんだよ、女にとって」
「意図的にはウロウロしてない。今日はたまたまはちあっただけだし」
「同じことだよ、初めてじゃないくせに。女のほうに多少心残りがあっても、相手がそう何度も視界にチラチラしてくると嫌いになっちゃうし。夏香に嫌われたからもう俺はダメだーとか、誰の心も動かさない自虐と慰められ待ちの病みアピは余計ウザい。さっさと新しい彼女作りなよ、めんどくさい」
なんで友達からこんなボロカスに言われてるんだ、僕は。
「そう思ってるんだけど、夏香を気にしてるうちに彼女を作ったら、それはそれで失礼だろ。まだ二年しか経ってないし」
「いや、二年は充分すぎるわ。元カノ清算するのに三年も四年もかかる?」
「その方法を知ってたら二年前にやってる。ほっとけば忘れるだろ」
「そうやって先延ばしにしながらウジウジしてるくせに、女々しいやつ」行儀悪く口に箸をくわえ、賢一が横から会話に割りこむ。
二人に否定されて返す言葉が見つからず、「女々しいのは自覚あるから傷に塩塗るな」と言って僕はパックのカフェオレをすすった。ほろ苦い甘さが逆に優しい。
夏香をすぐにでも忘れたい、わけじゃない。だけど、忘れなければいけない正当な理由だって、もちろんある。
第一には、彼女に新しい彼氏ができたこと、だ。そのために、何やってんだ僕は、と昨夜の天井のように自分を叱咤したことだって、太陽が沈む回数ほどあった。
それでも捨てられず、前に進めず、かといって後退もできない。むしろこのまま永遠に彼女との美しい思い出を抱きしめたまま死ぬのかと、優しく手軽な恐怖さえ覚える。
それなのに、やめなければという焦燥感に追われていても建設的な方法を選ばず、砂糖水の中で心地よく溺れている。
僕はこんなにも君のことが好きなのに君はもう僕じゃない人を愛してしまった、なんていうポエムにして、大切にガラスケースに入れて飾っている。
ダサい。ダサすぎる。僕は自分への失望と救いようのなさに、頭を抱えそうになった。
ひとりで悶々としていたのが伝わったのか、賢一と瞳が「ずっと悩んでるのおもろすぎ」「いや悩む内容が絶対キモい」と言った。反論できない。
「……普通、元カノに新しい彼氏ができたら、みんな前に進むもんなんだろうなあ」
「少なくとも私はそうだと思うけど」瞳が最後の肉巻きアスパラを食べながら言った。「私は別れた時点で即他人だから、あんま参考にならないかも」
「俺もどっちかっていうと引きずるタイプだけど、向こうに新しい人ができたってのはひとつの区切りにするけどな」
何も言えなかった。ひとつ残らずそのとおりだと思った。
過去の恋愛を額縁に飾って、いつまでも眺めて感傷に浸るなんて、目も当てられない。
わかっているのだ、最初から。誰に言われなくても。
入り口で立ち話をしていた夏香と村山が、そろって教室を出てゆく。夏香の肩に添えられた村山の手が露骨で、同時にカフェオレが苦みを増した。中身が少なくなっているパックからは、水を注ぎすぎたシンクが空気を吐くような音がした。
・ ・ ・
昼休みも終わりかけのころ、賢一もさそって他のクラスの友達と一緒にグラウンドで野球もどきをやって遊んでいた。各チームに五人ずつしかいない、ショートと外野不在の適当な野球。
僕はそんなに交遊関係がひろいほうじゃないが、彼らは賢一を通じて知りあった友達だ。
僕の目の前で、五番バッターがサードにあっさり処理されるゴロを打って、一塁で未練なくUターンする。
中学時代、運動部に憧れて一瞬だけ野球部に在籍していたことがあったが、すぐにやめてしまったし、感覚は何も残っていない。
セカンドもどきのセンターに痛烈な長打をかました賢一のほうが、どう考えても上手だ。自分がヒットを打つところなんて到底イメージできない。
野球部をやめたあとはどこにも所属しなかった。何かを学ぼうとか、役者になろうとか、映画を作ろうとか、そんなことはほとんど思わない。そこに至る進路を検索しようと思ったこともない。
だから僕は今もどこにも行けないままでいる。
空中にぶらさがって、分かれ道に立ってすらいない。
中途半端だ、僕は。勉強もスポーツも芸事も。何かひとつの目標に向けて一心不乱に打ちこんだことがない。その情熱を持ち合わせていない。
真面目に取り組んだのは恋愛くらいだ。それだって玉砕してしまった。
僕の前のバッターがピッチャー強襲ライナーで出塁。僕はバットを引きずって右バッターボックスへ移動し、地面をつま先で整えた。たいして打てないのに、格好をつけることだけは得意だ。
僕は今朝の夏香のことを思い出した。僕がいることに気づいていたはずなのに、眼中にないどころかいないことにして、新しい彼氏と腕を組み、映画の話をしていた。多分、眼中にある僕のほうがおかしいのだろう。
中学時代、背が小さくて無垢で、幼い子供のようなはしゃぎかたをしていた夏香。僕の心を太陽のように照らして包みこむ、小さな女神だった。
そんな甘ったるい、古すぎる表現でも肌になじむほど、夏香とつきあっているときはしあわせで、満たされていた。
僕が初めて手を差し出したとき、手のひらをそっと握りかえしてくれた。誰もいない美術室で初めてのキスをした。
彼女にとって初彼氏で、僕にとっても初彼女だった。何もわからないなりにどうにか築いた関係で、僕らは何を作りだしてきたのだろうか。
それは今でも彼女の中のどこかにあって、時折甘い香りをただよわせているのだろうか。そうであってほしいと願った。
けれど、結果的には彼女にふられて、僕たちは二度と言葉を交わさなくなった。
その結果がすべてなのだと考えたら、その香りは今、どこから僕を引き止め、どうして脅しているのだろうか。
目の前で点滅する夢幻のように、過去の思い出が僕を逃げさせてくれない。
初球、ピッチャーが投げる。甘い。素人の投球はすべて変化球まがいだということを僕は知っている。ボールはふんわりと落下し、低めに来る。まるでフォークボール。タイミングをみはからい、すくいあげるように三塁方向へ打ちかえした。つもりだった。芯をはずし、ボールの上部をかすめたバット。
やばい。地面にたたきつけられ、ぎりぎりフェアゾーンをころがる打球。僕はバットをほうり投げて走った。サードゴロ。二塁はアウト、必死に走ったが一塁もアウト。過去がどうあれ、今はこのざまだ。
「
僕は捨てたバットを拾いながら「うるせー次はフェンスの外にぶちこむからな!」と笑いながらこたえた。
予鈴が鳴り、友達が「戻ろうぜ」と呼びながら走って校舎へ戻るなか、僕は水道の水を飲もうとグラウンドの隅にあるプールまで走っていった。
九つ並びのさびついた水道の蛇口をひねり、出口を上下ひっくりかえして、そろそろ冷たく感じるようになった水を唇で受けとめ嚥下する。
制服の袖で口元をぬぐい顔をあげると、プールと旧校舎の間、じめっとしていて誰も寄りつかないそこに、
──夏香を見た。夏香の隣に、村山も見た。
彼女は村山にぴったり寄り添い、耳元で言葉をまじえていた。何を話しているのかはわからない。しかしふたりは静かに笑い、眉を下げ、額をあわせた。
やがて彼らはさぐるように手を取りあい、唇を重ねた。うっとりと紅潮した夏香の頬が魅惑的だった。
全身の筋肉からいっせいに血液が抜かれた気がした。僕は思わずプールの陰に身を隠した。
「……大学の卒業旅行だったら、ローマがいいなあ。イタリア。ごはん美味しそうだし」
夏香の静かな声が聞こえた。立ち聞きなんて趣味の悪い。そうは思っていても理性が追いつかず、僕はそっと壁から顔だけをのぞかせてみた。
夏香と村山の大人びたキスを目のあたりにし、僕は自分から覗き見をしたくせに吐き気をもよおし、おぞましさを感じた。
ふたりのキスを見たのは、これが初めてだった。不本意ながら同時に、悔しさもこみあげてきた。
「いいな、ローマなら観光地だし、なんでもあるだろ。なにか目的があるのか?」
「見たいのがたくさんあるけど、色んな映画のロケ地巡りとかしたいな。『ローマの休日』とか、『アマルフィ』とか。コロッセオに入って『グラディエーター』ごっこもしたい」
「さすが詳しいな。俺、『天使と悪魔』ぐらいしか思いつかねえよ……」
僕は何もできなかったし、できる状況じゃなかった。
ふたりが隣り合った花びらのように寄り添うのを見て、いつか直接伝えたいと四六時中考えていた言葉や、しょっちゅう顔を出しては僕を叱咤する声が一気に収縮してゆくのを感じた。
後生だから叫び声なんてあげないでくれと、僕は震えながら自分の喉に懇願する。
荒くなった呼吸音が聞こえやしないかと、口をあえて大きく開けて息を吐く。
僕よりはるかに背が高くて、外国人の歌手のようにかっこいい村山が、かつて僕が愛した女の子を優しく包みこんでいるのだと思うと、飛びだして彼の背中に蹴りをいれてしまいそうで。けれどそんな勇気はもちろんなくて。
僕は何もできず、何も言えず、何も決意できず、何も打開できず、その場を走って逃げだした。
ざくざくとグラウンドの砂を踏みつぶしながら、何かを蹴り飛ばしたい衝動をこらえた。
走りながら、頭を激しく左右に振ったり、空を見上げたり、唇を噛んだりした。
新しい彼氏がなんだっていうんだ、関係ないじゃないか、どうでもいいじゃないか。
こんな無様でみっともない高校生活を、生まれた瞬間の僕は予想していたのだろうか。だとしたらとっくにへその緒で首をしめて自殺していた。
夏香。僕はもう一度心の中で呼んだ。
校舎に向かってひたすらに走った。
足の筋肉が悲鳴をあげたけれど、走らなかったら僕が悲鳴をあげそうな気がして、走った。
痛みを隠すための痛みを、僕らはきっと別の名前で呼ぶ。
・ ・ ・
村山と夏香がキスをするのを目撃して以来、こちらも彼女を直視することができず、意図的に避け、避けられる日々がやはりつづいていた。
目線を合わせず、言葉も交わさず、まるですりガラスの壁を隔てていて、お互いにこのクラスに存在していることだけを認識したまま、関わりあうことなく生活する。
いや、避けたり避けられたりしていることをいちいち気にしているのは僕だけで、夏香はきっと、僕がいないときは僕のことなど露ほども考えないのだろう。
新しい彼氏や、たくさんの友達のこと、公開したばかりの新作映画のことで頭がいっぱいに違いない。
そんな想像をつづけて、僕の足は彼女からさらに遠ざかる。
だけど、同じクラスにいて、彼女が絶対に僕の名前を見かける位置にいる、という事実は、少しだけ僕の胸を優しく撫でてゆく。
嫌われているだろうけれど、完全な他人になるよりは甘く優しい。そこに夏香を思いやる気持ちなどないのだと、とっくに理解できている。
彼女に嫌がられないくらいに近くにいて、自分にかけられていない声を聴き、自分に向けられていない笑顔を見たいと願う。
声をかければその立場すらも終わるとわかっているから、積極的に関わろうとしないのは自分が傷つきたくないだけだ。
終焉から目をそらして、錯覚して、そのくせ少しだけ得をして、いつまでもガラスの向こうがわに行けないままでいることを選んでいる。
そんな僕の自己中な気持ちは、賢一にとっくにばれていて、
「個人的に推しと話したいとか付き合いたいとかはないけど、いつも最前列にいるし投げ銭多いし顔とハンネは推しに認知されてることにひっそり喜ぶ炎上寸前オタク、っぽくてかなりキモい」
と言われてヘッドロックしてやろうかと思った。
でも否定できないことが悔しい。僕の場合は既に炎上してしまった側だ。
それでも僕が数年ぶりに彼女に声をかけたのは、村山とのキスを目撃したあの日から二週間後の終礼前だった。
日直の夏香が、職員室からプリントやノートの類を山盛りかかえて、廊下を歩いているときだった。それを僕は後ろから見ていた。
生徒会選挙が近いからだろうか、両手を伸ばしてがっちりと抱えるほどの紙の量は、華奢な彼女には少しつらいんじゃないかと思った。
日直の片われが五、六時間目の体育で怪我をして保健室に直行してしまったのを思い出し、それで彼女がひとりで仕事をうけもっているのだと気づいた。
真面目だ、と元恋人の背中を見て呆れる。
誰かに助けを求めたっていいのに、いつもきちんとしている。
きっと、「大丈夫です、これぐらいならひとりでいけるので」と笑顔で引き受けたに違いない。
だから彼女はずるさを持ちあわせていないし、悪いことをするのがかっこいいという価値観を持たない。それが危なっかしく感じるときもあるが、彼女は真面目じゃない自分の姿をきっと嫌うだろう。
夏香のふらふら歩きを内心緊張ながら見ていたが、だめだった。
あ、あー、と思ったが早いか彼女の腕からプリントがこぼれおち、それを取ろうとして反射的に手を伸ばしたせいですべての荷物が床にばらけた。
ばさばさっ、と乾いた音がひびく。すぐ近くを歩いていた上級生の女子たちがさっと避け、「うっわかわいそ」と笑いながら去ってゆく。
僕は慌ててプリントをかき集める彼女を見て、誰か助けに入らないかと思った。だが、たまたま近くにはほとんど生徒がおらず、数人はいるが遠すぎて誰も気づいていない。
僕は数秒悩んだあと、ごくりと唾を飲み、もう一度悩んで、震える足で歩き出した。
彼女の前にまわりこんでしゃがみ、一緒になってノート類を拾った。
夏香の視線があがり、僕の姿をとらえて顔をしかめた。いやだ、とか、キモい、というよりは、おかしい、という顔で。
「……何してんの、立浪」
「別に」僕はノートを拾う手を止めない。「手伝ってるだけだよ」
声が震えそうだった。彼女はそれ以上何も言わず、手も動かさなかった。
彼女の表情を見るのが怖くて、僕は顔をあげず、集めたノートを床でそろえていた。
冗談のような時間だった。
僕たちが別れてから、二年が経っているのだ。
もう長いこと夏香と言葉を交わしていないから、手のひらにびっしょり汗をかくほど緊張していた。
彼女と会話ができている。僕の話を聞いて、返事をしてくれている。
それが嬉しかったと同時に、細い糸をぴんとひっぱるように空気がはりつめていた。話しかけるだけで体力を半分以上消費している。
声をかければ、ガラス越しに存在することが許されるこの関係が終わってしまう。
そう思っていたのに、プリントを拾ってあげない選択肢はなかった。見捨てることはできなかった。
だけど、今になって、床にぴたりと張りついた印刷したてのプリントを指先ではがしながら、罪悪感と後悔が混ざって複雑な色になった感情が足元で水たまりを作る。
これだけ。拾うだけだ。終わったらすぐに消えよう。
手を動かしながら、それだけを必死に考えていた。
本当にそのつもりだった。そうでなければ、いろんなものに押し潰されてしまう。
少しして、夏香がプリントの束を手のひらでざっくりと集めた。幸い、束になったまま一気に落ちたおかげで、ばらばらにならずにすんだらしい。
「いいよ別に、たいした量じゃないから」
「目の前でこれ見てスルーするほど性格悪くないよ、夏香ひとりでやらなく……」
「片岡」夏香は僕が言い終えるより早く、ことさら強調して呼び名を訂正した。
僕はため息をつきながら「片岡ひとりで」と言いなおした。
彼女は周囲の友達に探られないようにか、一年ほど前から僕を「彰」と呼ばなくなった。
集めたプリントを渡そうとすると、彼女は極力僕の方を見ないようにとばかりに下を向いたまま、それでも丁寧に紙束を受け取ってくれた。
ありがとうとも、ごめんとも言われなかった。そうだろうと思っていたから、別によかった。
彼女はすぐ隣にある階段の、階下へ続く方まで数歩さがると、何かを言おうとしてはやめ、二度目には僕の方を見た。
久しぶりに、僕と彼女は面と向かってお互いを見た。元々意志が強い目元に薄い化粧が施され、纏う雰囲気は少女というより女子大生に近づいていた。
以前よりずっと綺麗になった、とは、思っても絶対に言えなかった。それは間違いなく、村山のおかげだから。それに、僕を見る彼女の目線は、理想よりもずっと鋭い。
最後に彼女ににらまれたときも、こんな目を向けられていた気がする。
もっと、うっすらと涙が浮かんでいたはずだけど。
すぐにこの場を去らないと、と決めていたのに、その目に射抜かれて動けなかった。
目玉から頭に両手を突っ込まれて、嫌な記憶を引きずり出されているようだった。
「立浪が勝手にやりはじめたことだから、私は何も言わなくていいよね」
僕が思っていたより、彼女も僕に対して何を言えばいいのか迷っているようだった。
普段の彼女の性格なら、ここで間違いなく「ありがとう、ごめんね」と笑顔で言うだろうから、それを言うことができない相手というのはよほどむず痒いに違いない。
「俺が何か期待してるみたいに言わなくても」
「私にはもう新しい彼氏がいるんだからね」
それとプリントを拾うことって関係あるのだろうか。同じことを彼女も思ったのか、少しだけ細い眉がひそめられた。リップを塗った唇が光って、村山とのキスを想起させた。
「なんだそれ」
「点数稼ぎするなってこと」
肩を落とす夏香に、僕は何も言いかえせなかった。
何を言っても野暮になってしまうような気がして、僕は言葉を閉ざす以外にうまいやりかたを知らない。たとえその結果が拒絶しかないとしても。
僕はしばらく黙りこみ、やがて「嫌なら何もしないよ」と言った。
だが、夏香はあからさまに気を悪くしたようで、眉根を限界まで寄せた。
そして、階段のほうへ向き直って言った。
「何それ、自分の行動の決定権が他人にあるみたいに言わないで」
その言葉は、強かった。
僕の内臓に刺さって、枯れるまで出血させようとした。
そうだ、僕は自分を守りたくて、ずっと、夏香が僕を避けることにさえ甘えていた。
でもそれは、僕が逃げられる理由を彼女に見つけたからだ。余計な関わりを避け、互いの苦しみを最小限にすることに殉じた僕が──血を流しながらも前に進む方法から逃げたからだ。
だって、君が村山といてしあわせなら、僕が君に背を向けるだけでいいと思っていたんだ。
それ以上何もせずに、時間が流れるのを待っていれば、いつか優しく甘いまま消えてゆく過去だと思ったんだ。
さわらなければ壊れない、という単純な話なら、いっそ嬉しいくらいだ。
つい、僕は本音をもらした。
「だって、片岡のこと、嫌いになったわけじゃないから」
そのとき、僕がどんな表情をしていたのか、考えたくもない。
何かを言わんとして振りかえる夏香。
だが、その勢いでふたたび束の一番上のプリントがひらりとこぼれおち、彼女は慌ててそれに手を伸ばした。
そのために一歩後ろにさがった彼女の右足は、床ではなく一段下の階段をとらえ──そのままバランスを崩して、後ろに倒れていった。
「夏香!」
宙で踊るプリント。夏香の口から小さな悲鳴が聞こえた。
慌てて伸ばした僕の手は、一瞬彼女の指先をかすめただけで、むなしく空を掻く。
重力に従う彼女の最後の表情は、怯えと、恐怖でいっぱいだった。
そんな彼女の表情を、僕は世界の誰よりも見たくなかったのに。
……そこから先は、動画を倍速で見ているようだった。
体と階段とがぶつかりあう音が何度も響いた。落下しながら十回転以上はしたかと思われる彼女の華奢な身は、最後に踊り場に叩きつけられた。
階段に散る大量のプリントやノート。僕は三段飛ばしで階段を降りて、動かない彼女の身体を抱きあげた。
わずかにひらいていた彼女の瞳はすぐに閉じられ、僕の腕の中でぐったりと力をなくす。額から血が筋になって流れた。
「夏香! 返事をしろ!」
僕は半狂乱になって彼女の上半身をゆさぶったが、ぴくりとも動かない。
頭を打ったようだけど、血が出ているからきっと大丈夫。こんなことで死ぬような子じゃない。そう思いながら僕は、それでも目の前が真っ暗になった。
僕の愛した女の子の真っ赤な血を見るにつけ、奥歯が岩をかみくだいたような音を鳴らす。
嘘だろ、まさか──やっと君と本音で話せそうだったのに。
夏香が階段から落ちた音と僕の声を聴きつけた他の生徒が、階段の上に大勢むらがっている。
女子たちが悲鳴をあげ、男子は「あれ片岡じゃね?」「立浪がなんかしたのか」「先生呼んでこよう」と口々に叫んでいる。
僕はただひたすらに彼女の名前を呼んだ。名字で呼べという彼女の望みも忘れて。
「夏香、どうしたの!」
瞳が階段をかけおりてきた。僕の横から夏香の肩をつかみ、半泣きになって彼女の名前を呼んでいる。
美しい夏香の肌は血の気を失い、それでも閉じられたまぶたにいろどられたまつ毛が長くて、綺麗だった。まるで眠り姫のようだ。
無数のプリントが空から降ってくる。何かの映画で、寝室で羽毛布団の中身が飛び出し、羽根が部屋中を舞うシーンがあったのを思い出した。
瞳と動かない夏香の隣で、僕は何もできず、何も言えず、ただ床にぺたりと座りこんで呆然としていた。「嘘だろ」とつぶやくのが精いっぱいだった。
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