傷口にハチミツ
真朝 一
第1話 Counting stars
片岡夏香 の連絡先を削除しますか?
削除する
キャンセル
爆弾のスイッチを前にした気分で、その選択肢を焦げつくほど見つめていたが、五分近くたって僕はスマホの電源ボタンを押した。何度目かのため息をついてベッドにあおむけになると、真っ白で病院じみた天井をぼんやりと見つめた。無機的でまぶしい電灯が、僕のことを叱っている気がする。何やってんだ、自分で決めたことだろ、と。
ここ数年、夏香のデータを消す消さないの瀬戸際で必死に命綱にしがみつく夜をくりかえしているような気がする。スマホをふたたびひらき、パスワードつきフォルダに移動させてうっかり見ないようにしている夏香の写真を、おおよそ数ヶ月ぶりかにひらいてみた。ずいぶん前にとったプリクラ画像のデータが、見せつけるようにしあわせな空気を画面いっぱいにふりまいていた。白いワンピースにデニムジャケットを羽織った満面の笑みの夏香が、ぎこちない笑みを浮かべる僕の腕を強引にとって、顎の下でピースをしている。ピンクのハートがちりばめられた背景。真下には日付スタンプと「ずっとずっと一緒だよ」という文字があった。
夏香、と声に出してつぶやいてみる。
ただいとしい人の名前を呼びたい。口にしたい。その一心で。
階下から「彰、ごはんよ」という母の声が聞こえた。時期尚早な粉雪が、音もたてずに窓の外で風とたわむれている。このていどじゃ積もらないだろう、と思った僕は、カーテンを閉めてスマホをズボンの尻ポケットに突っこんだ。ずっと使っていたそれはうっすら温かく、何かの生き物のようだった。
目をそらされたのはこれが初めてではない。
少し暗めの茶色に染めた髪を自慢げにゆらし、ステップまじりに意気揚々と下駄箱に入ってきた夏香を見て、僕は一瞬、猫ににらまれたハムスターのように身をこわばらせた。同じように一瞬だけ、ほんのコンマ数秒だけ動きを止めた彼女は、自然に、だけど僕がわかるくらいには不自然に、さっと目をそらして下駄箱に手を入れた。彼女が床に上履きを落とす音が、わざとなのかと思うほど大きかった。反射的にそう感じるくらいには、僕はずいぶんと卑屈なのだと気づいた。彼女にそんなつもりがあったのかどうか、確認するために尋ねる勇気もない。
夏香は手早く上靴にはきかえると、僕と反対方向の出口に向かって早々に去ってゆく。そんな彼女の華奢なうしろ姿とつややかな髪と、冬将軍がまさにクラウチングスタートをきりかけているというのに限界まで折られたスカートを見ながら、僕は呆然と立ちつくすしかできなかった。夏香の耳にはワイヤレスイヤホンのちいさな粒が入っていた。最後まで何も言わず、言われず、僕の目線は空中を空振りし、彼女の目線は僕の知らないものをずっと見ている。
「夏香!」
野太い声が聞こえて、昇降口の反対側にある廊下からひとりの男子生徒が走ってきた。イヤホン越しでもその声は聞こえたのか、彼を見つけた夏香の表情がぱっと華やいだ。背の高い、僕が見てもかっこいいと思う端正な顔立ちの男子生徒が、優しい笑顔を浮かべて夏香を迎えた。手をつないで階段をのぼっていくふたり。美男美女。これほど正確に四字熟語を体現されたことはない。頭の奥で、井戸の底に桶を落としたような音がした。僕は教室にむかうべく、反対側の階段から階上へあがる。
まだ二十人ほどしか登校していない二年四組の教室で、最初に僕をおちょくったのは賢一だった。
「またはちあったのか、夏香と」
前のめりにころびそうになるのを必死でこらえて、なんでお前がそれを、と問うた。
「まだ何も言ってないんだけど」
「見りゃ分かるだろうが、夏香と村山のやりとり」
元カレがまた私につきまとってきてんの超うざあい、と棒読みで夏香のまねをする賢一の机に鞄をどすんと落として、世紀末級のため息をついた。からかわれているのはわかっているが、それを怒るほどの気力も勇気も、資格もない。
賢一の前にある自分の席に腰を落とし、「なるべく近づかないようにしてるんだけど」と言いわけする。
「どこの性格悪い暇人神様のいたずらなんだろうな」
「別に近づかないでいる必要ないだろ」
「無理だし。あんだけ避けられてたら」
椅子に逆むきに座り、かたむけて賢一の机に頬杖をつく。まだ暖房がついていない教室では、机や椅子は氷の板のように冷えきっていて、僕は数秒で頬杖をやめた。賢一は僕の耳をいたぶるように、あーあ、とわざとらしく言った。
「懲りろよ、彰。一時、一瞬の感情とか自己顕示欲に流されて靴片方とられちゃ駄目だぞ。こんなカビだらけの世の中、フィクション以上に真実の愛が信用なさすぎる。現実を思い知れ。女は男が思うほどロマンチストじゃない」
「人を勝手に夢見る男子にしないでくれませんかね」賢一の机に置いた鞄を一旦、床に落としてどかす。「俺だってできれば夏香に会わずにすませたいよ。でも、同じ学校だろ? 同じクラスだろ? ここで最良の解決策があれば五千円やる」
「俺が最良の解決策を思いつく方法があれば二千円やる」
それって結局僕がマイナスなんじゃないか。僕は肩を落とし、教室の隅で魅力的な男子生徒、村山と楽しげに歓談する夏香を見つめた。
村山が夏香の新しい彼氏になってからもう半年ほどたつ。
今までのように一緒にいられず、見ていて苦しくなるのを承知で同じ高校に入った。夏香と村山が交わす睦言をどうにか聴くまいと、僕は過去のてろんとした甘味で耳をふさいでいる。呼吸すら億劫になってしまう。いっそ僕はマゾなんじゃないかと思った。一度も言葉を交わすことなく二年生になり、同じクラスになってもなお、気持ちを切り替えて前に進むことができずにいる。
何より夏香の、僕に未練がなさそうな態度がいちばん、傷ついた。
君はもう僕がいなくてもしあわせなのか、と思うと無心で死にたくなった。僕は達観した大人でもなく、無知な子供でもない。
色んなことを忘れようとして、実際に忘れた思い出がたくさんある。だけど、どうしても忘れられない思い出の方が多い。一緒に見た映画は、特によく覚えている。初めてリバイバル上映で一緒に見に行った映画は「タイタニック」だった。
村山と夏香が人目をはばかることなくデートの予定を話している姿は、顔にレモン果汁か生のタマネギの汁を飛ばされている気分だった。僕の視線に気づいた彼女があからさまに顔をしかめるのを見て、僕は慌てて顔をそらす。「朝も会ったんだよ、待ちぶせじゃないといいけど」「気にしすぎだって、もう高校生なんだしそんな幼稚なことしないだろ」そんなふたりの会話が耳に入ってきた。もしかしたら、実際に聞こえたのではなく、僕がそう思いこんでいるだけか幻聴なのかも知れない。その真偽を確かめないまま、僕は机の木目をじっと見つめていた。
頬を冷たい空気が撫でてゆく。それでも僕は目をそむけつづけた。考えすぎて泣きたくなるのをこらえた。息を止めた。同じ空気を吸ってしまったら最後、彼女がそれを嫌って、僕の理想の世界からいなくなってしまいそうな気がした。聴き飽きたチャイムの音が、そんな僕を邪魔するように鳴り響く。
二年生に進級したのがいっそ奇跡かと思うほど、高校に入ってからずっとうわの空で授業を受けていた。僕の成績は中の中の下、といったところだ。英語が得意で、数学が苦手。いつか洋画を字幕なしで見れたらいいな、というありがちな夢はDVDの字幕をオフにした瞬間に打ち崩されたが、洋画好きというモチベーションはまだ残っている。ななめ前の席にいる冬服の夏香の背中は、真剣にノートをとっているのか少し丸くなっていた。一度も話したことがないのに、夏香と友達の会話が偶然聞こえて、彼女が現在完了形でつまづいていることを僕は知っている。
昼休みになるやいなや、教室に村山が突撃してきた。「食堂行こうぜ」と背後を親指でさす村山に満面の笑みをむけ、颯爽と退室する夏香。見せつけやがって、という気はしたが、つきあっている高校生だったら当たり前の光景なのだろう。僕がそれに慣れていないだけだ。
村山と話しているときの夏香はひまわりのような笑顔で、とても、とても楽しそうだった。かつて僕にそうしてくれたように。
「ああもう見るな見るな。嫌なもんをあえて見ようとするお前の姿、見てらんねえよ」
賢一が僕のブレザーの裾をひっぱって偉大なる現実にひき戻す。机に置かれた購買のパンをあけようとしたところで、今度は横から井端瞳がえらそうに言った。
「一万円くれるんだったら、打開策も教えなくはないけど」
彼女は椅子を持ってきて僕と賢一が向かいあっている机のとなりに遠慮会釈なく座り、弁当をひろげはじめた。彼女はピアスが誇らしげに輝く耳に髪をかけて、「どうすんの」と言った。
「方法によっては一万円でも二万円でも払うよ」
「今からあたしが彰をぶん殴って記憶を飛ばす」
「辞退します。命の方が先に飛んでもおかしくない。そこまで自分に自信ない」
ため息をついてパンの袋をあける。ソースが薄い焼きそばパンを食べながらカフェオレというのも悪くない。女の子らしいカラフルな弁当に箸をつっこみながら、瞳は「とりあえず聞け、ほとんど童貞みたいな民よ」と言った。童貞は余計だ。
「友達でいたいと思える元カレはまだしも、自分に未練があるのがだだ漏れのまままわりをウロウロされるのって超絶迷惑なんだよ、女にとって」
「意図的にはウロウロしてない。今日はたまたまはちあっただけだし」
「同じことだよ、初めてじゃないくせに。女のほうに多少心残りがあっても、相手がそう何度も視界に入ると嫌いになっちゃうし。夏香に嫌われたからもう俺はダメだーとか、誰の心も動かさない自虐しちゃってさ。さっさと新しい彼女、作りなよ」
「そう思ってるんだけど、夏香を気にしてるうちに彼女を作ったら、それはそれで失礼だろ。まだ二年しか経ってないし」
「じゃあ早く過去と清算しな」
「方法を知ってたら二年前にやってる。ほっとけば忘れるだろ」
「そうやって先延ばしにしながらウジウジしてるくせに、女々しいやつ」と行儀悪く口に箸をくわえぼやく賢一。
二人に否定されて返す言葉が見つからず、僕は黙ってパックのカフェオレをすすった。ほろ苦い甘さが逆に優しい。
夏香を忘れたいわけじゃない。むしろこのまま永遠に彼女を愛したまま死ぬのだと、今でも勘違いしている。甘くて優しい手軽な幻を追いかけてさえいれば傷つかない、なんていう屁理屈をかかえて心地よくおぼれているのと同じだ。
きれいな言葉でうまくコーティングする。それをよしとしているのに迷っているのは、過ぎたことに「こうであったらよかった」と文句をぶつけるタブーを犯し、相応の制裁を受けたからかも知れない。きりかえてしまったほうが建設的だとわかっているのに。
入り口で立ち話をしていた夏香と村山が、そろって教室を出てゆく。夏香の肩に添えられた村山の手が露骨で、よくやるよ、と思うと同時にカフェオレが苦みを増した。中身が少なくなっているパックからは、水を注ぎすぎたシンクが空気を吐くような音がした。
昼休みも終わりかけのころ、賢一もさそって他のクラスの友達と一緒にグラウンドで野球もどきをやって遊んでいた。各チームに五人ずつしかいない、ショートと外野不在の適当な野球。僕はそんなに交遊がひろいほうじゃないが、彼らは賢一を通じて知りあった友達だ。二番をまかされた僕は最初の打席でサードにあっさり処理されるゴロを打って、一塁で未練なくUターンする。
中学時代、女子にモテたくて一瞬だけ野球部に在籍していたことがあったが、すぐにやめてしまったし、感覚は何も残っていない。セカンドもどきのセンターに痛烈な長打をかました賢一のほうが、どう考えても上手だ。自分がヒットを打つところなんて到底イメージできない。
野球部をやめたあとはどこにも所属しなかった。子供のころから映画を見たり、音楽を聴いたりするほうが楽しかったからだ。それらを夏香と一緒にやるようになると、彼女からの視点で僕の趣味を観察されるようになった。たとえば「彰は映画を見るとき、音楽をしっかり聞いてるよね」とか。確かに音楽は好きだし、映画のBGM演出を観察するのも好きだった。だけど、夏香に言われるまで気づかなかった。妙に照れくさくなり、そうなのかな、と口に出して自分の薄い自信にしようと思ったこともあるが、それだけだ。音楽を学ぼうとか、演奏しようとか、劇伴作曲家になりたいとか、そこに至る進路を検索しようと思ったことはない。
中途半端だ、僕は。勉強もスポーツも芸事も。映画だけじゃなく音楽だって、ポップスや洋楽なら夏香の方が詳しい。何かひとつの目標に向けて一心不乱に打ちこんだことがない。その情熱を持ち合わせていない。
二巡目、地面に雑に丸を描いただけのネクストバッターズサークルで素振りをしながら、僕は今朝の夏香のことを思い出した。僕がいることに気づいていたはずなのに、眼中にないどころかいないことにして、新しい彼氏と腕を組んでいた。眼中にある僕のほうがおかしいのだろう。
前のバッターがピッチャー強襲ライナーで出塁。僕はバットを引きずってバッターボックスへ移動し、地面をつま先で整えた。たいして打てないのに。だがかつて夏香が「スポーツをしてるときの彰が好き」と体育で声をかけてくれたことを、しつこく覚えている。その記憶がもうなんの役にも立たないとわかっているのに。
中学時代、背が小さくて無垢で、幼い子供のようなはしゃぎかたをしていた夏香。僕の心を太陽のように照らして包みこむ、小さな女神だった。そんな甘ったるい、古すぎる表現でも間違っていないと言えるほど、夏香とつきあっているときはしあわせで、満たされていた。
僕が初めて手を差し出したとき、手のひらをそっと握りかえしてくれた。誰もいない美術室で初めてのキスをした。彼女にとって初彼氏で、僕にとっても初彼女だった。何もわからないなりにどうにか築いた関係で、僕らは何を作りだしてきたのだろうか。それは今でも彼女の中のどこかにあって、フルーツのように甘い香りをただよわせているのだろうか。
けれど、結果的には彼女にふられて、理由が分かっているからこそ僕たちの視線は二度と交わらなくなった。その結果がすべてなのだと考えたら、つきあっていた一年弱の日々は今、どこから僕を引き止め、どうして脅しているのだろう。
目の前で点滅する夢幻のように、楽しかった日々の思い出が僕を逃げさせてくれない。
初球、ピッチャーが投げる。甘い。素人の投球はすべて変化球まがいだということを僕は知っている。ボールはふんわりと落下し、低めに来る。まるでフォークボール。タイミングをみはからい、すくいあげるように三塁方向へ打ちかえした。つもりだった。ボールの頭をかすめたバット。やばい。地面にたたきつけられ、ぎりぎりフェアゾーンをころがる打球。僕はバットをほうり投げて走った。サードゴロ。二塁はアウト、必死に走ったが一塁もアウト。絵に描いたような華麗なゲッツー。過去がどうあれ、今はこのざまだ。友達がみんな爆笑していた。
予鈴が鳴り、友達が「彰、戻ろうぜ」と呼びながら走って校舎へ戻るなか、僕は水道の水を飲もうとグラウンドの隅にあるプールまで走っていった。さびついた五つ並びの水道の蛇口をひねり、出口を上下ひっくりかえして、そろそろ冷たく感じるようになった水を唇で受けとめ嚥下する。
制服の袖で口元をぬぐい顔をあげると、プールと旧校舎の間、じめっとしていて雑草が生え放題のそこに、
――夏香を見た。夏香の隣に、村山も見た。
彼女は村山にぴったり寄り添い、耳元で言葉をまじえていた。何を話しているのかはわからない。しかしふたりは静かに笑い、眉を下げ、額をあわせた。やがて彼らはさぐるように手を取りあい、唇を重ねた。うっとりと紅潮した夏香の頬が魅惑的だった。僕は思わずプールの陰に身を隠した。
立ち聞きなんて趣味の悪い。そうは思っていても理性が追いつかず、僕はそっと壁から顔だけをのぞかせてみた。夏香と村山の大人びたキスを目のあたりにし、僕は自分から覗き見をしたくせに吐き気をもよおし、おぞましさを感じた。不本意ながら同時に、悔しさもこみあげてきた。
後生だから叫び声なんてあげないでくれと自分の喉に懇願する。僕よりはるかに背が高くて魅力的な村山が、かつて僕が愛した女の子をまるごと包みこんでいるのだと思うと、飛びだして彼の背中に蹴りをいれてしまいそうで。けれど僕は何もできず、何も言えず、その場を走って逃げだした。
違う、そうじゃないんだ。僕は何もできなかったし、できる状況じゃなかった。ふたりが隣り合った花びらのように寄り添うのを見て、なけなしの勇気や、しょっちゅう顔を出しては僕を叱咤する声が一気に収縮してゆくのを感じた。
情けない。女々しすぎて目もあてられない。新しい彼氏がなんだっていうんだ、関係ないじゃないか、どうでもいいじゃないか。こんな無様でみっともない青春を、生まれた瞬間の僕ははたして予想していただろうか。だとしたらとっくにへその緒で首をしめて自殺していた。
夏香。僕はもう一度心の中で呼んだ。
ひたすらに走った。足の筋肉が悲鳴をあげたけれど、走らなかったら僕が悲鳴をあげそうな気がして、走った。痛みを隠すための痛みを、僕らはきっと別の名前で呼ぶ。
村山と夏香がキスをするのを目撃して以来、こちらも彼女を直視することができなくなり、意図的に避け、避けられる日々がやはりつづいていた。目線を合わせず、言葉も交わさず、まるでガラスの壁を隔てていて、お互いにこのクラスにはいないものとして生活するように。
嫌われているんだろうけど完全に他人になるよりはずっとマシだ、と思ったのは、僕のエゴ。そんなところに夏香を思いやる気持ちなんてない、と自覚している。自分で自分をなぐさめるための身勝手な感情だ。彼女の近くにいて、声を聴き、笑顔を見ていたいと願う。声をかければその立場すらも終わるとわかっているから、自分が傷つきたくないだけだ。終焉から目をそらして、錯覚して、そのくせ少しだけ得をして、いつまでもガラスの向こうがわに行けないままでいることを選んでいる。
それでも僕が数年ぶりに彼女に声をかけたのは、村山とのキスを目撃したあの日から二週間後の四時間目の直前、日直の夏香が職員室からプリントやノートの類を山盛りかかえて廊下を歩いているときだった。それを僕は後ろから見ていた。彼女の華奢な身体には少しつらいんじゃないかと思うほどの量。日直の片われが三時間目の途中で体調を崩し保健室送りになってしまったのを思い出し、それで彼女がひとりで仕事をうけもっているのだと気づいた。
律義だ、と元恋人の背中を見て呆れる。誰かに助けを求めたっていいのに、変なところできちんとしている。だから彼女はずるさを持ちあわせていないし、悪いことをするのがかっこいいという価値観を持たない。それが危なっかしく感じるときもあるが、彼女は真面目じゃない彼女の姿をきっと嫌うだろう。
決してまっすぐではない夏香のふらふら歩きを見ていられず、そろそろ手を貸そうかと思ったとき。あ、あー、と思ったが早いか彼女の腕からプリントがこぼれおち、それを取ろうとして反射的に手を伸ばしたせいですべての荷物が床にばらけた。ばさばさっ、と乾いた音がひびく。すぐ近くを歩いていた上級生の女子たちがさっと避け、「うっわかわいそ」と笑いながら去ってゆく。
僕は慌ててプリントをかき集める彼女を見て、誰か助けに入らないかと思った。だが、たまたま廊下にはほとんど生徒がおらず、数人はいるが遠すぎて気づいていない。僕は数秒悩んだあと、ごくりと唾を飲み、もう一度悩んで、震える足で歩き出した。彼女の前にまわりこんでしゃがみ、一緒になってノート類を拾った。夏香の視線があがり、僕の姿をとらえて顔をしかめた。いやだ、とか、キモい、というよりは、おかしい、という顔で。
「……何してんの、立浪」
「そこまで言わなくても」僕はノートを拾う手を止めない。「手伝ってるだけだよ」
声が震えそうだった。彼女は何も言わず、手も動かさなかった。彼女の表情を見るのが怖くて、僕は顔をあげず、集めたノートを床でそろえていた。
もう長いこと夏香と言葉を交わしていないから、手のひらにびっしょり汗をかくほど緊張していた。彼女と会話ができている。僕の話を聞いて、返事をしてくれている。それが嬉しかったと同時に、細い糸をぴんとひっぱるようにはりつめていた。話しかけるだけで体力を半分以上消費している。
これだけ。拾うだけだ。終わったらすぐに消えよう。手を動かしながら、それだけを必死に考えていた。自分に言い聞かせていた。
少しして、夏香がプリント集めを再開した。幸い、束になったまま一気に落ちたおかげで、ばらばらにならずにすんだらしい。
「いいよ別に、たいした量じゃないから」
「目の前でこれ見てスルーするほど性格悪くないよ、夏香ひとりでやらなくても」
「片岡」夏香は僕が言い終えるより早く、ことさら強調して呼び名を訂正した。僕はため息をつきながら「片岡ひとりで」と言いなおした。彼女は周囲の友達に探られないようにか、一年ほど前から僕を「彰」と呼ばなくなった。
集めたノートを渡そうとすると、彼女は極力僕の方を見ないようにとばかりに下を向いたまま、それでも丁寧にノートの束を受け取ってくれた。ありがとうとも、ごめんとも言われなかった。そうだろうと思っていたから、別によかった。彼女はすぐ隣にある階段の、階下へ続く方まで数歩さがると、何かを言おうとしてはやめ、二度目には僕の方を見た。
久しぶりに、僕と彼女は面と向かってお互いを見た。以前よりずっと綺麗になった、とは、思っても絶対に言えなかった。それは間違いなく、村山のおかげだから。それに、僕を見る彼女の目線は、理想よりもずっと鋭い。
すぐにこの場を去らないと、と決めていたのに、その目に射抜かれて動けなかった。甘い瞳で見つめられていた時よりも、ずっと僕を惹きつける。
「立浪が勝手にやりはじめたことだから、私は何も言わなくていいよね」
僕が思っていたより、彼女も僕に対して何を言えばいいのか迷っているようだった。「これで私が何かするわけじゃないから」
「人が期待してるみたいに言わなくても」
「私にはもう新しい彼氏がいるんだからね」
それとプリントを拾うことって関係あるのだろうか。彼女は僕を下からにらみつけた。背が小さいのであまり迫力がない。リップを塗った唇が光って、村山とのキスを想起させた。
「ゲーテのありがたい言葉を贈るね」手に抱えたノートをそろえなおしながら話す夏香。「優越感を他人に向けて露骨に誇示しないような、教養を積んだ人がどこにいようか」
「なんだそれ」
「優しいアピール的な真似をするなってこと」
肩を落とす夏香に、僕は何も言いかえせなかった。何を言っても野暮になってしまうような気がして、何より目の前のガラス細工にひびをいれてしまいそうな気がして、僕は言葉を閉ざす以外にうまいやりかたを知らない。たとえその結果が拒絶しかないとしても。
僕はしばらく黙りこみ、やがて「嫌なら何もしないよ」と言った。
だが、夏香はあからさまに気を悪くしたようで、眉を限界までひそめた。
「何それ、人に決定権あるみたいに言わないで」
その言葉は強かった。
僕の内臓に刺さって、枯れるまで出血させようとした。
そうだ、僕は自分を守りたくて、ずっと、夏香が僕を避けることにさえ甘えていた。でもそれは、僕が傷つく理由を彼女に見つけたからだ。余計な関わりを避け、互いの苦しみを最小限にすることに殉じた僕が、血を流しながらも前に進む方法を選ばずにいたからだ。
だって、君が村山といてしあわせなら、僕が君から逃げるだけでいいと思っていたんだ。
さわらなければ壊れない、という単純な話なら、いっそ嬉しい。
つい、僕は本音をもらした。
「だって、片岡のこと、嫌いなわけじゃないから」
そのとき、僕がどんな表情をしていたのか、考えたくもない。
何かを言わんとして振りかえる夏香。だが、その勢いでふたたび束の一番上のプリントがひらりとこぼれおち、彼女はそれに手を伸ばそうとしてバランスを崩した。立てなおすべく一歩後ろにさがった彼女の右足は、床ではなく一段下の階段をとらえ――そのまま後ろに倒れていった。
「夏香!」
宙で踊るプリント。夏香の口から小さな悲鳴が聞こえた。慌てて伸ばした僕の手は、一瞬彼女の指先をかすめただけで、むなしく空を掻く。重力に従う彼女の最後の表情は、怯えと、恐怖でいっぱいだった。そんな彼女の表情を、僕は世界の誰よりも見たくなかったのに。
……そこから先は、動画を倍速で見ているようだった。
体と階段とがぶつかりあう音が何度も響いた。落下しながら十回転以上はしたかと思われる彼女の華奢な身は、最後に踊り場に叩きつけられた。階段に散る大量のプリントやノート。僕は三段飛ばしで階段を降りて、動かない彼女の身体を抱きあげた。わずかにひらいていた彼女の瞳はすぐに閉じられ、僕の腕の中でぐったりと力をなくす。額から血が筋になって流れた。
「夏香! 返事をしろ!」
僕は半狂乱になって彼女の上半身をゆさぶったが、ぴくりとも動かない。頭を打ったようだけど、血が出ているからきっと大丈夫。こんなことで死ぬような子じゃない。そう思いながら僕は、それでも目の前が真っ暗になった。僕の愛した女の子の真っ赤な血を見るにつけ、奥歯が岩をかみくだいたような音を鳴らす。
嘘だろ、まさか――やっと君と本音で話せそうだったのに。
夏香が階段から落ちた音と僕の声を聴きつけた他の生徒が、階段の上に大勢むらがっている。女子たちが悲鳴をあげ、男子は「あれ片岡じゃね?」「立浪がなんかしたのか」「先生呼んでこよう」と口々に叫んでいる。僕はただひたすらに彼女の名前を呼んだ。名字で呼べという彼女の望みも忘れて。
「夏香、どうしたの!」
瞳が階段をかけおりてきた。僕の横から夏香の肩をつかみ、半泣きになって彼女の名前を呼んでいる。美しい夏香の肌は血の気を失い、それでも閉じられたまぶたにいろどられたまつ毛が長くて、綺麗だった。まるで眠り姫のようだ。
瞳と動かない夏香の隣で、僕は何もできず、何も言えず、ただ床にぺたりと座りこんで呆然としていた。「まじかよ」とつぶやくのが精いっぱいだった。地球の自転が逆回転をはじめたのかと思った。
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