第056回「決戦のゆくえ」

 ――さすがは虎の子。劉封たちでは荷が重かったか。


 諸葛亮は伝令の報告を聞くとため息を吐いた。蜀軍において、劉封や孟達、陳式や呉蘭といった将は一級線といえよう。決して戦下手でもなく、武勇も優れており魏軍の有能な将校と比べても見劣りはしない。


 それが手もなくひねられたのだ。曹彰の勇猛さは侮りがたい。諸葛亮は羽扇を右手で軽く揉んでわずかに眉をゆがめた。


 ――曹彰ひとりのためにここまでやられるとは。手を打たねばなるまい。


 諸葛亮は劉備の様子を窺った。呉蘭討ち死にの報告を聞いた劉備は泰然としていた。甲冑を着けたまま微動だにしない。表情にも別段変化は見受けられなかった。


 劉璋から降った呉蘭の武勇はなかなかのものである。これが討たれたと聞いても平然としているのは、彼の特質であろう。


 だが、諸葛亮としては、魏に比べれば層の薄い蜀将がひとりでも減るのは非常に痛かった。


 呉蘭の指揮能力はともかく武勇の確かさは、この先年月と共に減衰する蜀軍の軍事を支えるに足るものであった。


「我が主よ。曹彰はこの場で討ち取っておかねばのちのち禍根になるでしょう。我にまかせていただきたい」


 劉備から曹彰に関して全権を委任されると諸葛亮は直ちに軍を編成した。


「封君。貴公はいま一度曹彰に挑んでいただきたい」

「おう、今度こそ軍師や父の期待に応え、必ずやかの者の首をあげてみせます」

「いや、違うのです。曹彰に挑み、ころあいを見計らって逃げていただきたい」


 諸葛亮の言葉を聞いた劉封はカッと両眼を見開くと、頬を真っ赤に染めて詰め寄った。


「それは一体、どういったことでしょうか。いかに軍師であろうと、我の武勇を軽んじられては、この劉封、男の一分が立ちませぬぞ」


「勘違いしてもらっては困る。これは曹彰を釣り出す策なのです。かの者は、若き日に曹操から志を問われたときに、自ら衛青や霍去病と同じような将になることを望んだほど軍事に偏っております。実際、曹彰の武芸や軍の指揮能力は非常に高い。歴戦の勇士である曹洪や夏侯惇、張郃や徐晃に劣らないものを持っています。事実、先の戦いで蜀将の呉蘭を討って曹彰の意気は天を衝く勢いです。ここで、もう一度封君が挑戦すれば侮って受けるのは目に見えています。驕り高ぶった将は、その才が優れていればいるほど他者の言うことに耳を傾けないでしょう。釣り出して引き込み、討つのは難しくありません」


「だが……」


 劉封は諸葛亮の言葉に耳を傾けていたが、納得はしていない様子であった。劉封も二十そこそこで若く勇猛である。力は十人力で武芸も達者だ。劉備に請われて養子になったことから自らの存在に自信があった。


 だが、それらは曹彰との一戦で粉々に砕けた感がある。劉備は不思議と敗北した将を責めたことがほとんどない。劉備自身、負け慣れていたこともあっただろうが、常に敵対する魏軍は勢力も軍備も練度もすべてがおのれのより優っているのだ。勝つことが事態が奇跡で負けたとしても、それらは当然であるという気持ちが常にあったのだ。


 劉備は個々の戦闘に負けても、戦略目的を達成すればすべては枝葉であると考えていた。劉封が黙りこくっていた時間はわずかであった。


 しかし、次の瞬間、劉封が我に返り軍議の場にいる諸将を見回したとき、空気の違いは明白だった。劉封をあからさまに責めてはいないが、諸葛亮の策に同意している者が多いのだ。


「わたしは……」


 蒼白となった劉封が震えながらなにかを言いかけたとき、素早く前に一歩出た者がいた。孟達である。


「軍師よ。その役目、このわたしにお命じくだされ。先ほどの戦いで曹彰のやり方は身体で覚えました。黄髭如きは封君自ら相手をするまでもありません。わたしひとりで充分です」


「黙れ」

 劉封はキッと孟達を睨み据えると、諸葛亮の前に出て拱手した。


「軍師よ。先ほどは我の思い違いでした。曹彰を討つためならば、我がことなど塵にも値しません。わたしが必ず曹彰を釣り上げて生け簀に誘い込む餌になりましょうぞ」


 劉封はそれだけ言うと、昏い目をしたまま陰鬱な気を全身に纏わせながら、不機嫌を隠そうともしない足取りで出ていった。


 劉封がいなくなったことで、その場には弛緩した空気が広がったが、浮かぬ顔をしている者がふたりいた。諸葛亮と孟達である。


 劉封は面目を失ったが、居並ぶ諸将の前でそれ以上傷口を広げぬ程度の自制心は持ち合わせていた。だが、劉封はこのことから孟達の行為そのものを勘ぐるようになり、ふたりの仲はやはりなんとなく上手くいかぬようになったことも事実だった。


 諸葛亮が思うに、孟達は親切心からああいった行動に出たのだが、劉封にとっては出しゃばった余計なお節介にしか映らなかったのだろう。


 ――やはり、あのふたり馬が合わぬか。


 組織の中では、時として、能力よりも協調力や共感能力がものを言う状況もある。個人としては、素晴らしい才能を持っていても、まわりの空気が読めずにそれを活かすことができず消えていった者のなんという多さだろうか。


 諸葛亮としては、劉封が戦場で武勲を上げて、蜀政権で存在感を大きくすればするほど、のちに後継となる劉禅にとっては危険であることを知っていた。下手をすれば蜀漢政権の分裂の危機を招きかねない男が劉封なのだ。


 思えば、前世で諸葛亮がほぼ独裁に近い状態で才能を発揮できたのも、劉禅という自分を微塵も疑わずにいてくれた英主がほぼ全権力を委任してくれたからである。これは、一種、才能のひとつであろう。


 劉禅がほどほどに才気あふれ、賢明であったならば、間違いなく蜀内で乱のひとつやふたつは起き、とてもではないが北伐どろこではなく、諸葛亮が没する前に滅んでいても不思議ではなかった。


 ともあれ、いまは目の前の戦いに集中しなくてはならない。

 諸葛亮が城塞から軍を発して積極的に挑発を行うと、予想通り、呉蘭軍を壊滅させて意気軒高な曹彰が先鋒として襲いかかってきた。諸葛亮は、当初の作戦通り劉封を出撃させてこれを迎え撃った。魏軍の旗と劉の旗が、前陣でめまぐるしくぶつかり合う。諸葛亮は固唾を呑んで戦いの行方を見守った。


 ――負け方は、みぐるしければ、みぐるしいほどよい。


 諸葛亮の意が通じたのか、劉封の軍はほどほどに曹彰とぶつかり合うと、算を乱して潰走した。すぐさま、曹彰が勢いに乗って追撃に移る。横合いから、雷銅や高翔が攻めかかるが、曹彰は危なげなくこれを撃退した。実は、これも諸葛亮の策である。より深く引き込み、逃げ場を断つ。


 そして、曹丕も無能ではない。突出した曹彰を援護すべく、曹洪、臧覇、張既、張郃などの軍を押し出しているが、これには張飛、陳到、馬超などを出撃させて完全に抑えている。


 諸葛亮は十万を超える兵を扱わせれば、曹丕では太刀打ちできないほどの経験があった。事実、曹丕は今回のように三十万を超える大兵を率いて合戦を行った経験がない。劉備がいるとはいえ、この場で陣頭指揮を執り軍を進退させているのは諸葛亮だ。この差が過酷なまでに明白となった。


「全軍、迎撃せよ」


 曹彰の突進力は凄まじく、確実に陣頭指揮を執っている諸葛亮の本営近くまで迫っていた。しかし、そこが限界。錐状になって蜀軍を貫いていたと思っていた曹彰軍三万は、気づけば進退が不可能な位置にまで潜り込んでいたのだ。


 諸葛亮は、戦鼓を連続して打ち鳴らすと、曹彰の軍を揉み潰しにかかった。将士たちが、戟をそろえて一斉攻撃を始めた。


 それは、いままで戦意をほとんど見せなかった猛獣が突如として牙を剥き、鉄格子を破壊したような衝撃を魏軍に与えた。諸葛亮は弩を巧みに使った。挟撃される形で猛射に晒された曹彰は軍としての形を保てなくなった。


「いまだ! 曹彰の首をあげるのは我が軍だ」


 いまや、武勇において魏呉に知れ渡るようになった黄忠が得意の騎兵をもって曹彰に襲いかかった。曹彰の軍は強力な騎兵によって、踏み止まるのがやっとという形だ。


 そこに、満を持して魏延と孟達が奇襲をかけた。曹彰はなんとかこの攻撃を耐えしのごうと防御に専心するが、兵たちは諸葛亮の練りに練った波状攻撃で次々に斃れてゆく。


「退くな、退くでない――」


 曹彰は槍を振り回しながら必死で将士を叱咤したが、半日近く、微塵もゆるまない諸葛亮の総攻撃によって、軍自体が崩壊しかかっていた。弱みを見せて退けば、完全に死に体になる。曹彰は肩を激しく上下させながら、無心で戦い抜いたが、それもはやり終わりが近づきつつあった。


 大地が見えなくなるほどに曹彰軍の死体があたりを覆い尽くしたとき、一騎の武者が槍をたずさえて颯爽と向かってきた。


「そこなる貴人は曹操の御曹司と見た。我こそは、劉公旗下にその人有りといわれた常山の趙子龍なり、尋常に勝負せよ!」


 白馬に跨って現れた騎士は趙雲その人だった。


「おお、貴公がかの趙子龍か。是非もない」


 ここに両雄の凄まじい決闘が始まった。猛獣と猛獣が咬み合うように、馬を入れ替え互いに槍術の秘儀を競い合う。


 だが、一日の長は趙雲にあった。曹彰の手並みが一流といっても、戦国乱世を数十年駆け抜け、磨きに磨きをかけた趙雲には比べくもない。十数合を超えたところで、あきらかに曹彰の動きに疲れが見え始めた。


「曹彰、その命、もらったぞ!」


 気合一閃、趙雲がしごいた槍を電光石火の勢いで繰り出すと曹彰の槍は鈍い音を立てて宙に高々と待った。


 続けざま、突き。サッと穂先が白く輝いたかと思うと、趙雲の槍は曹彰の首元を貫いていた。曹彰の表情。こんなはずでは、と強烈な驚きが表れていた。きらびやかな鎧をまとった若武者が宙を舞って馬から落ちた。あきらかな、曹彰の敗北であった。


「敵将曹彰は、この趙子龍が討ち取ったり!」


 その途端、ドッと声の津波が両軍から湧き起こった。こうなれば蜀軍は勇気百倍。残った曹彰軍はある程度の抵抗を示したが、大将である曹彰が討たれてしまえば、これ以上抗すべくもない。二万を超える兵力はそのまま劉備に降参すると組織的戦闘を終了した。


 さらに趙雲の成し遂げた抜群の功は魏全軍へとあっという間に広まった。さらには、勢いに乗った、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延、陳到たちが次から次へと陣を連ねて、夏侯惇、曹真、曹休、張既、徐晃といった猛将たちを圧倒した。


 さらに、遊軍であった法正や黄権が火攻を行うと、曹丕は完全に怯えの虫に取りつかれ、陣を引き払い南鄭に向かって退却を命じた。


 だが、この指示に対して猛烈に反抗したのは曹洪であった。


「退く、だと? 馬鹿な、子桓のやつはまるで戦を知らぬわ。いま、ここで踏み止まって戦えば、兵数はこちらのほうが倍近い。陣を即座に立て直せば、劉備など追い返すことは難しくもないものを!」


 魏軍の中で、唯一といっていいほど善戦していた曹洪はこの状況下にあっても馬超と雷銅の軍を撃退している。それだけに戦略眼のない曹丕に苛立ちが隠せなかった。


「曹将軍。ならば我らだけでも戦いますか? いましばらくこの陣を保持できれば張既将軍が援軍に駆けつけてくれると思いますが」


 属将のひとりの言葉に曹洪はかぶりを振った。


「いや、それは不可能だろう。ここには四万の兵があるが、遠からず孤立する。さらに、兵糧は敵の法正に焼かれて手持ちがほとんどない。悔しいが、我らだけではどうにもならぬ。陣や残った兵糧物資に火をかけ、撤退するぞ。道々には伏兵を置け!」


 曹洪は歯噛みしながら、自陣に火を放ったのちに、撤退した。曹洪の予想通り、黄忠が追いすがってきた。


 しかし伏兵の攻撃で黄忠の足は鈍り、曹洪はなんとな逃げおおせることに成功した。


 さらに悲惨なのは臧覇だった。諸葛亮の攻撃によって完全に取り残された形となった臧覇は、もはや濁流の中州にある浮島のようなものであった。


 臧覇は遅れて到達した曹丕の命令書を読むと、即座に竹簡を引き千切った。


「できるだけ蜀軍を引きつけてから時間を稼ぎ撤退しろだと? 愚かなことを申すな。ここには五千の兵士かおらぬのだぞ。皆殺しにされてしまうわ!」


 臧覇は剣を抜くと、怒りのあまり伝達してきた曹丕の使者を斬り殺した。


 ――やってしまったわ。これで、もう、魏に戻ることはかなわぬ。


 思うに、曹丕はわだかまりなどを捨ててはいなかったのだ。臧覇は平手で顔を覆うと、悔しさでギリギリと奥歯を嚙み鳴らした。


 それから、残った部将たちを呼ぶと、降伏するも逃げるも各々の判断に任せると言い放ち、わずかな兵に守られたまま蜀の陣営に向かった。


 ――玄徳とは知らぬ仲ではないし。いさぎよく降伏すれば命まで取られることはないだろう。


 この臧覇の願いはかなえられることになる。劉備は臧覇が降ってきたことを知ると、自ら門にまで出て出迎え、長い両腕を広げて満面の笑みを崩さなかった。


 こののち、臧覇は蜀軍で重きをなす将として、対魏戦線で活躍することになるとは本人も知らぬことだった。


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転生諸葛亮戦記 三島千廣 @mkshimachihiro

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