第055回「黄髭曹彰」

 張飛は馬の腹を腿で締め上げながら許褚と駆け違った。蛇矛と戟が激突して凄まじい轟音が鳴った。


 それが開始の合図だった。馬を止めてその場で打ち合う。許褚が戟を斜め上から凄まじい速度で振り下ろしてきた。張飛は耳元で空気が裂ける異様な音を聞いた。蛇矛をカチ上げて迎え撃つ。がぎん、と刃と刃がぶつかる音が耳朶を打った。それは龍虎の戦いだった。張飛と許褚は互いの秘術を尽くして斬り合った。


「うおっと!」


 許褚の戟は特注の巨大なものだ。それが目の前で振り下ろされると途方もない風圧が巻き起こる。張飛は打ち下ろしの一撃を上半身を反らしながらかわした。凄まじい気迫だ。純粋な腕力ならば許褚のほうが優っているだろう。


 だが、張飛もいままで馬鹿力だけで勝利してきたわけではない。劉備と共に黄巾賊退治のために挙兵して以来、さまざまな強敵と戦い、数十年、腕力だけではなく生まれ持った武芸を磨きながら生き抜いてきたのだ。その術は精妙である。蛇矛の先端にある湾曲した刃の鋭さは重みと切れ味が相まって、どのような硬い甲冑も切り裂く力があったが、許褚は容易に隙を見せない。


「さすがは張飛だ。だが、これはどうかな」


 許褚は戟を頭上へ高々と上げると狙い違わず張飛の脳天目がけて真っ逆さまに振り下ろした。


「うおらあっ!」


 張飛は腹底から気合をほとばしらせると蛇矛を薙ぐ。戟と蛇矛が火花を散らしてせめぎ合った。甲高い金属音が鳴る。張飛と許褚は笑い合うと、再び差し向って武器をやり取りを始めた。


 腕力だけではなく、腰を回転させ上半身の筋肉すべてを使用して戦う。強い。純粋にそう思う。ここまで打ち合って苦戦したのは呂布と戦った以来であろう。張飛は両腕の肉が千切れるかと思うほどに力を込めて蛇矛を使った。


 数十合の打ち合いは張飛と許褚の秘術を尽くした武芸の極致であった。蜀魏両軍の兵士は斬り合う手を休めて、しばし両雄の戦いを見守る。張飛と許褚のふたりは全身から蒸気を濛々と立てて打ち合った。両者とも汗みずくになりながらさらに数十合打ち合うが決着は容易に着かない。


「がうあっ!」


 獣のような雄叫びを上げて許褚が仕留めにかかる。張飛は蛇矛を薙ぎ払って戟の一撃を弾き返すと、馬を寄せた。全身から熱湯のような汗が飛び散った。蛇矛。刃が白く輝いて許褚の喉元を襲う。許褚は素早く戟の石突をしならせて蛇矛を防いだ。


 両雄の激闘は不意に終結した。蜀軍の銅鑼が激しく打ち鳴らされた。

 引き際である。


 暗夜の奇襲は成功したが、曹丕軍のほうが兵力ははるかに優る。夏侯惇、曹休、張郃の軍が態勢を立て直して反撃に出れば、劉備軍の精鋭といえど継戦は分が悪すぎた。


「チッ、いいとこだってのに、しょうがあんめえ」

 張飛は激しく舌打ちをすると顔面を奇妙に歪めて童子のように唇を突き出していた。


「逃げる気か張飛!」

「あいにくと軍師どのとの約束でな。今夜はこのくらいにしておくさ」

「逃がさぬわっ!」


 馬首を返して颯爽と引き上げる張飛を戟を携えた許褚が追う。だが、狂った虎のように猛る許褚に背後から割れ鐘のような大音声が投げかけられた。


「そこなるは魏の虎候と見た! 決着を逸る気持ちはわかるがの。益徳どのは、まだまだ大漢のために汗を流してもらわねばならぬのでな。今宵はここまでにしてもらおうか」


 現れたのは、誰あろう蜀の老将軍黄忠である。

 かの定軍山で夏侯淵を討った黄忠の名は、魏国において瞬く間にその勇名が端々まで轟き渡り、関羽や張飛にひけを取らぬものにまでなっていた。


「ぬう、なにやつ!」

「我こそは、荊楚にその人有りといわれた黄漢升だ。見知ったか」

「なにぃ、きさまが黄忠だと!」


 許褚は相手にとって不足なしという勢いで馬をその場に押しとどめた。が、黄忠はすかさず弓を構えると、ひと呼吸置かぬうちにひょうと射た。まさしく迅雷一電、放たれた矢は許褚が戟を振るうよりも早く、その左肩をたやすく射抜いた。黄忠は老将であるが、その腕力は関羽や張飛に劣らない。許褚は不意を衝かれて上半身の均衡を崩し、やや馬上で後方に落ちかける。


「弓を使えばおぬしを射抜くなど、どうということもないがそれではこの黄忠の名が廃る。いずれまた、戦場でな」


 許褚が左肩に刺さった矢を抜いている間に、黄忠はサッサとその場を引き上げてしまった。


「馬鹿にしおって。老黄忠めが。この次戦場で会うたならば、そのしわがれた首をこの手で引き抜いてやるわ」


 諸葛亮の指揮は完全に曹丕の上をいっていた。このみごとな夜襲で曹軍は八千人近い戦傷者を出して、陣を後方五十里まで退かざるを得なかった。


 またもや蜀軍の作戦勝ちである。


 そして、諸葛亮は再び魏軍の挑発を無視する格好で砦に引き篭もった。曹丕の怒りはいかばかりであっただろうか。軍備を整えて、山上の劉備に対し、連日連夜罵倒の限りを尽くして挑発を試みるも、蜀軍は諸葛亮の持久策を固く守って、一顧だにしない。


「糞。これでは我が軍がいかに精強であろうと勝負にすらならないではないか」


 歯噛みする曹丕であったがひとつの朗報があった。彼方の秦嶺山脈を越えて、曹丕の実弟である曹彰が五万の兵を引き連れ加勢に駆けつけたのだ。


 漢水での戦いで兄曹丕が敗北を喫すれば、浮き上がる目がなくもないが曹彰はそれよりも、劉備の勢力拡大のほうが危険であると本能的に嗅ぎ取ったのだ。


「黄髭めが。余をよろこばせおって。子文の武勇は抜群よ。これで魏軍も勇気百倍。あとは、劉備を山城から誘い出して叩き伏せるまでだ」


 曹丕はよほどうれしかったのか、自ら帷幕を出ると曹彰を迎え入れた。曹丕は塵埃に塗れた曹彰に両手を差し伸べしっかり握りしめると歓喜の表情を浮かべた。






 勇将である曹彰が陣営に加わり、魏軍の士気は天を衝くほどに盛り上がった。こうなると蜀軍も砦に籠ったままというわけにはいかない。


 たたでさえ魏軍の総兵力は三十万を超えており、蜀軍が天嶮に籠って持久戦を旨としていたとしても、劉備弱しと見れば益州の豪族が内から崩れないと限らないのだ。曹丕は曹彰を先手として劉備に戦書を送り、堂々と挑戦してきた。


「無視することもできまいが。孔明、曹丕の戦書をどう思うか」


 劉備が竹簡から顔を上げて訊ねると諸葛亮は凛とした声で応じた。


「我が主の思われますように、曹丕の挑戦をこれ以上退けることは不可能でしょう。曹彰は武勇抜群と聞いておりますが、我が軍にも武勇の者はいくらでもおります。これを迎え撃たせて討ち取ってしまえば、戦況はさらに有利なものになるでしょう」


「孔明の言うとおり、曹彰を討ち取る自信のある者は名乗り出よ」


「わたくしめにおまかせを」

「それがしが」

「是非とも我に」

「拙者こそふさわしい」


 張飛をはじめとする蜀軍の勇者が居並ぶなか、ズンと一歩前に進み出たのは劉備の養子である劉封であった。諸葛亮は劉封の気迫が横溢した表情を目にして、わずかに眉を曇らせた。


 というのは、劉封は一個人の武将としてみればあまりに優れていたからである。劉備には嫡嗣たる劉禅がいるが、これを勇気溌溂とした劉封と比べるといかにも頼りない。


 諸葛亮は、いまだに劉備が劉封を養子としたことに納得もしていなければ理解もできなかった。劉封の勇気と武勇はこの先、蜀政権が膨張するにつれて必ず禍根を生じるであろう。それは間違いない。


 だが、劉備の目に宿る劉封を愛する輝きを見れば、過失なきいまの状況で、たとえ諸葛亮であろうとそれを口にすることはできなかった。


「わかった。ならば先鋒は封にまかせるとしよう。諸将はよろしく三千騎を率いて、この戦いに卑怯がないように見張り、そのときどきで判断し功名を上げるように」


「ありがとうございます。必ずや曹彰の首をあげてみせましょう」


 劉封は頬を紅潮させると勢いよく拱手した。


「みなの者もよろしく頼む。協力して魏軍を打ち払おうぞ」


 劉備がそう言えば、もはや口を挟むことはできなかった。張飛や黄忠はよほど自信があったのだろうか、ブツブツ言いながら議場を退室してゆく。諸葛亮は敢えてなにも言わずに、その場をあとにしようとすると、ひとりの将が駆け寄ってきた。


「軍師どの。少しよろしいか」

 孟達である。


「なにか」

「相手は武勇で名高い曹彰。封君の武芸も並々ならぬが、万が一ということがあると我が軍の意気が粗相しかねませぬ」


「そのことですか。孟将軍。あまり気にせぬことです。勝負は時の運、ということもあります。万が一があったとしても全体で勝てばそれでよいのです。それよりも、将軍は封君の背後に控え、曹彰が追ってきたらこれを迎え撃っていただきたい。曹丕は焦っておりますゆえ、勝てば必ず隙が生じます」


 翌朝、曹彰は歩兵を並列させると戦鼓を勇壮に打たせ、ただ一騎巨大な青鹿毛に跨り槍を携え、


「劉備はいるか。我こそは曹孟徳が一子、曹彰だ。願わくば、この地にて我と刃を交えたまえ。荊州での我が父の仇を取らせてもらう」


 と戦場に響き渡る怒声を発して蜀軍を挑発した。見るも鮮やかな絢爛な甲冑を着込んだ曹彰は堂々たる体躯で声高に劉備を罵っている。これを目にした劉封は豪奢な鎧甲を纏って矛を手にして躍り出た。


「我こそは蜀軍の劉封なり。父に対する悪口雑言、子として許せぬ。その首もらった!」


 駒を飛ばし出た劉封は矛を振り上げると、余裕綽々である曹彰の真っ向から斬りかかった。


 ぶおん、と風切り音を残して劉封の矛が曹彰の首を狙い打つ。が、曹彰は悠然と劉封の矛を受け止めると、これをサッと弾き返し槍の一撃を見舞った。両者は駒を止めて十数合打ち合った。


 劉封は決して弱くない。だが、北方の烏丸賊と戦い続けて騎馬も剣も磨き抜かれた曹彰の武芸には到底及ばなかった。曹彰が楽々と放つ槍の一撃を劉封はどうにか防ぐだけで手一杯になる。


「そらそら、劉備の偽養子が。どうした、この程度で息を切らすとは情けなや。どうやら戦というものを知らぬと見える」

「ぐううっ」


 次第に劉封は呼吸が乱れて全身であえぐようになる。両肩は激しく波打ち、豪壮な槍を構えるだけで精一杯という体だ。


 対する曹彰は打ち合いが続けば続くほど調子が出てきたのか、勢いは止まることを知らぬ。曹彰の突き。劉封はなんとか柄を使って弾くが、状態が惨めにもよろめいた。


「封君、お退きなされ。あとは我らが引き受けた」


 これを助けに出たのは孟達と陳式の二将である。曹彰は軽く笑うと槍をしごきながら打ちかかるふたりをこともなげにあしらってさえいた。


 劉封はさすがに自らの限界を悟ったのか、一言もなく駒を飛ばして自陣に向かってまっしぐらに退却した。曹彰は劉封を仕留め損なったことが無念であったのか、激しく舌打ちをした。


 だが、思い直して孟達と陳式のふたりに狙いを定め槍をしごくと猛然と襲いかかった。曹彰は脚だけで馬を華麗に操り踊るように槍を繰り出して、孟達と陳式を翻弄する。


「な、なんと」

「く、糞ッ!」

「そらそら、どうした! 蜀将の腕前はこの程度か!」


 曹彰は戦えば戦うほどに勢いが増して、連続して繰り出す槍の攻撃に、まず陳式の息が乱れ始めた。孟達が陳式をかばおうと前のめりになって戦うが、曹彰の精妙といえる槍の技にかろうじて致命傷を受けずにいるのが精一杯になる。曹彰の薙ぎ払い。孟達の右頬。シュッと激しい風切り音が鳴って熱くなった。ぬるりと熱い湯のような血が流れ出た。孟達は左手の甲で血潮を拭うと焦りを隠せなくなる。


「ぬ?」


 蜀の二将が危機に陥っていたそのとき、後方から曹彰の陣が激しく乱れた。これは乱戦の最中、後方に回った馬超と呉蘭の軍が退路を断とうと攻めに回ったからだ。機を見るに敏である曹彰は孟達と陳式の二将が脅威でないと知ると、サッと馬首を翻して自ら後陣に向かった。


 曹彰は騎兵を自ら率いると、まず、蜀軍でもっとも手強い馬超ではなく呉蘭に向かって突撃を行った。


 曹彰は自ら戟を取って軍を進退させることが男の生きざまであると曹操に言い放っただけのことはあって、指揮は的確だった。この非凡な兵術の前に、呉蘭の軍は浮き足立った。


「なんだ、この程度か! 儂をガッカリさせるな!」


 曹彰は槍を風車のように振り回しながら、遮る蜀兵を軽々と屠って陣を撃破する。


「これ以上貴様の好き勝手にはさせんぞ!」


 立ちふさがるは蜀の常勝将軍と呼ばれた呉蘭である。呉蘭の勇猛さは旧益州軍においては指折りである。事実、呉蘭の腕力はすさまじく曹彰を守る近衛部隊は次々に戟の一撃で倒れてゆく。


「善き敵ぞ。我こそは天下の英雄曹孟徳が一子、曹彰なり。冥途の土産に我が槍を喰ろうてみよ!」


 曹彰は呉蘭の前に立ちふさがると自慢の槍をしごきながら接近し、気合一閃強烈な突きを繰り出した。


 電光のような凄まじい突きを呉蘭は受け損ねて、胸元へとモロに喰らった。


「うぐうっ!」


 曹彰は満身の力を込めて槍を捏ね回した。穂先は呉蘭の心臓をただの一撃で刺し貫くと絶命させた。素早く曹彰が槍を引き抜く。呉蘭はぐらりと身体を左方に揺らすと、そのまま地面に落下した。


「呉将軍!」

「大将がやられた!」


 呉蘭軍に激しい動揺が走った。曹彰は駒を縦横無尽に駆けさせると、主のない蜀軍を突風のように踏み躙った。槍を構えた曹彰が的確に指揮を執り、騎兵を乱れた蜀軍の陣に突っ込ませる。薄絹を刃で切り裂くように呉蘭軍の陣形が崩れ出す。勇猛な曹彰の攻撃でみるみるうちに呉蘭軍は兵数を減らしていった。


「さあ、このくらいにしておくか。騎馬に長けた西涼の戎がくれば面倒だ」


 曹彰は呉蘭の友軍であった馬超が精悍な騎馬隊を引き連れてくる前に自軍をまとめると素早く引き上げた。この駆け引きの手練や戦場における判断能力の高さは、もっとも曹操の戦術的才能を受け継いでいると諸葛亮をはじめとした蜀勢を唸らせるに足るものであった。


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