第054回「疑兵と闇と」

 ここで追わぬなら狩人失格。

 典満はいきり立って鄧賢を追った。


 並み居る蜀兵を馬蹄にかけつつ進むと、その進路を阻む栗毛の馬に跨った将が現れた。孟達その人である。


「そちが魏で知られる豪傑の忘れ形見か。我こそは蜀の孟子度なり。我と打ち合う覚悟があるならば、ここで尋常に勝負せよ」


「おう、それこそが我の望みよ。おぬしの首はもらい受けるぞ」

「そう上手くゆくかな」


 孟達と典満の一騎打ちが始まった。だが、この戦い、当初から典満が不利だった。鄧賢との戦いにより無理に武器の軌道を変えたため、右肘を痛めていたのだ。長期戦になるとこういった小さな傷が致命傷になりやすい。実際、孟達の繰り出す凄まじい槍の鋭さに典満は防戦一方になった。


「どうした。父である典韋も冥府で泣いておるぞ。息子の情けなさにな!」


 敬愛する父の名を出されては典満は一歩も退けなくなった。左腕一本の短い戟では孟達の突きを捌くのも限界があった。呼吸が荒い。汗みずくで、すでに青白い顔をした典満に向かって孟達はさらに苛烈な攻めを行った。素早い突きが途切れもなく続く。だが、典満は野獣のような咆哮を放つと眼球を血走らせて片腕で必死に喰らいついてくる。


 ――こういうやつが一番危ない。まともに相手をしては損だ。


 孟達はいまだ余裕であるがくるりと馬首を返すと自陣に向かって逃げた。


「おのれ、大言壮語の上に逃げるか! 我が父を愚弄したおまえだけは許さぬぞ!」


 この時、典満は周囲にいたわずかな護衛兵の声もまったく聞こえていなかった。激しく孟達を罵倒しながら追うまではよかったが、いつしか典満の手勢は敵陣深くに入り込み、十重二十重に包囲されていた。


「お主のような男が持つ蛮勇こそ、匹夫の勇と言うべきにふさわしい」


 安全圏に逃げ帰った孟達は落ち着き払った表情でそう言うと、手練れの弩弓手数百に命じて一斉に矢を放たせた。


 ザッと雨のように降った矢の嵐が典満を覆う。身体中の至るところを矢で撃ち抜かれて典満は馬上で低く唸った。


「ぬ、ぬかったわ」


 それでも典満は右目に刺さった矢を自らの手で引き抜くと、馬上から転げ落ちていくらも経たぬうちに立ち上がった。


 まさに化け物である。怯えた蜀兵たちが一気に戟を叩きつける。針鼠のようになった典満に刺さった矢のシャフト部分がベキベキと音を立てて折れる。


「ぐ、うおおおっ」


 それでも典満は身体の内部で刺さった鏃をこすり合わせて怖気が立つような音を鳴らして立ち上がった。ぼたぼた、と夥しい血で甲は濡れて見る影もない。典満はズリズリと大地を沓で削るように数歩歩くと、ついに前のめりに倒れて絶命した。


 主将を失った魏軍は統制が取れずに退却を始めた。孟達はさすがに頭脳明晰で後方にいる曹丕が援護の軍勢を出すとわかり切っていたので、深追いはせずに素早く陣払いをすると本隊のいる要塞へ戻った。


「さすがは子度。これで曹丕のやつもしばらくはおとなしくなるであろうな」


 劉備は諸将の前で孟達の功を褒め称え、金銀と黄金造りの刀剣を与えた。これにより、蜀軍の気勢は上がり、魏軍の威勢は甚だしく衰えた。


 孟達の勝利により劉備の優勢さは増していたが、この戦いで魏軍が失った兵数は数千足らずであり、大局にはさして影響はない。だが、怒りをこらえきれない曹丕は幔幕で敗れた典満の不甲斐なさを憤るだけで、これといった案も浮かばず、魏軍には鬱々としたものが満ち始めていた。


 ――これ以上の失策はまずい。


 曹真は魏軍を鼓舞するため、漢水の西に移動し、わざと陣営に手薄な隙を作って蜀軍に誘いを見せたが、これを黄権は見抜いており容易に手を出さず大々的な戦いには至らなかった。曹真の部隊は幾つかにわかれて一水を渡渉し、矢を放ちながら罵倒を繰り返すが黄権の陣はひっそりと静まり返ったままだった。


 全体的に魏軍はまとまりを欠いていた。魏軍は精神的支柱たる曹操がすでにこの世になく、対して蜀軍は五十の男盛りを超えた劉備が健在であった。この差は埋めようもなく大きい。


 ――やはり仲達は出てこないか。


 諸葛亮はこの漢中及び巴蜀を巡る戦いにおいて、もっとも危険視していた司馬懿仲達が前面に出てこないことを安堵していた。考えれば、曹操がいないといっても、魏政権支える曹一族の重鎮はいずれも健在であり、また武将としても政治家としてもみな脂がのり切った時期だ。曹洪、夏侯惇、曹真、曹休、夏侯尚などの一族が軍権をしっかり握っている限り、司馬懿が軍事を掌握してその異彩を発揮することはまずないであろう。


 曹操は出自に限らず、才を持つ者を登用して重要な地位につけいかんなく能力を発揮させたが、張遼という特別枠を除いては万余の兵の最大指揮官に一族以外を任命したことが実はない。


 諸葛亮は劉備と共に魏軍の動きを冷静に観察し続け、ころあいとなった時期を見計らって兵を曹丕軍の後方に埋伏させた。


「張郃や徐晃、曹真がいる場所より西の方角に兵を潜ませる絶好の場所があります。ここに趙雲や高翔に命じて選び抜いた五、六百の兵を埋伏させ、鼓や銅鑼を叩かせ曹丕の鋭気を削げば、我が軍はますます戦において有利になるでしょう」


 西川の地を知り尽くしている諸葛亮は斥候による情報と複合的に現在の戦況を調べ上げることで、埋伏の計により魏軍の戦意を裂く戦術を提言した。


「なるほど。それは面白そうだ。孔明、曹丕たちを夜通し眠らせるな」


 劉備の許可のもと諸葛亮は趙雲、高翔、陳式ら三将に五百ほどの兵を与えて魏軍の後方に潜ませ、昼夜を問わず散発的に音を出して威嚇攻撃を行った。


 戦場において緊張感を切るということは、まず常人には不可能なのだ。さらに、現在のように漢水を挟んで向かい合っている以上、いつなんどき総力戦が始まってもおかしくはなく、各将校から一兵卒まで交代の休憩時でも心底安堵して身体を休ませるということは不可能なのだ。


 諸葛亮の神経戦は悪辣で厭らしいものだった。闇夜の不意に湧き起こった歓声や鼓の音は魏軍全体を徹底的に悩ませた。人間は夜眠る動物なのだ。徹夜も数日単位ならば耐えられもしようが、これが数週間、一か月となるとおかしくなってゆくのは必定だった。


「愚かな。もはや、蜀軍の脅しにすぎぬわ。いちいち騒がずに当番兵以外はしっかり休ませろ。休むのも戦のうちだ!」


 総大将である曹丕はそういって床に着くが、各部隊の将や兵卒はそう簡単に割り切れるものではない。


 なにしろ、いまは合戦の最中なのだ。重厚な防備と陣地に守られ安眠を貪ることができる指揮官たちはそれでよいかも知れぬが、前線にいる兵卒は下手をすれば眠ったまま敵の攻撃を受けることになればたまったものではない。だが、人間は慣れる生き物である。蜀軍が声だけで一度も姿を現したことがない事実の前に、気を張っていた曹軍の上下に至るまで、空気が弛緩していったことは言うまでもなかった。


「さあ、白河夜船の魏兵たちを叩き起こして進ぜようか」


 諸葛亮は、暗夜、月のない日を選んで精鋭五万を選抜すると、張飛、馬超、黄忠、魏延、孟達、劉封などの諸将を呼び寄せ夜襲を敢行させた。


「この日を待ちわびたぜ」


 張飛は先陣を切って全軍の前に突出すると、鍛え抜いた騎兵を指揮して一気に漢水を押し渡って、無防備な曹丕の陣営に押し寄せた。


 毎晩、毎昼、飽くことなく打ち鳴らされる銅鑼や鼓、歓声の音に慣れ切った魏軍はロクな迎撃の用意もできぬままに、あっさりと前陣を突き崩された。


 馬超や黄忠は張飛に負けるものかと鼻息荒く、兵卒を叱咤して、ただひたすら突っ込んだ。その突破力は恐ろしいものだった。


 ほとんど時を置かずして、曹丕の前陣は壊滅した。押っ取り刀で夏侯惇や曹洪といった歴戦の勇将が散逸した兵を集めて迎撃に向かうが、襲い来る馬超や魏延の猛攻にまったく軍を抑えきれず、瞬く間に四分五裂した。


 劉封や孟達は歩兵を指揮して、魏の陣営に次々と火をかけ、ようやく調達した貴重な糧食は灰燼と化してゆく。


「我が魏王の威を恐れぬ劉備の狗どもよ。よくも王軍を侵したな。その罪は命で償ってもらうぞ」


 この徹底的な奇襲に敢然と立ち向かったのは、曹丕の守護を任されていた魏軍随一の豪傑である許褚だった。


「善き敵ぞ。おぬしを討って、父の土産としようぞ」


 この許褚の出現に目を輝かせたのは、劉備の養子で武勇抜群の劉封だった。劉封は得意の槍を携えて許褚に打ちかかった。


 しかし、全力を込めて放った必殺の一撃は許褚の戟によって軽々と弾かれた。


「どうした、その程度か。嘴の黄色いヒヨッコがそれで我の首を獲ろうとは笑わせる」


 戟。

 鋭く振られ、劉封はかろうじて受け止めたが、咄嗟に許褚から距離を取った。

 兜の隙間からスーッと汗が流れ鼻筋を伝って唇に届いた。


「おや、惜しかったな」


 許褚がニヤリと凄絶な笑み浮かべた。

 劉封がハッとなって頬に触れる。あたたかく、鉄錆に似た臭気が鼻を衝く。指先を動かすと真っ赤に濡れていた。ぬるりとした感触に臓腑が疼いた。


 ――いつの間に?


 許褚の目にも止まらぬ一撃が劉封の頬をかすめていたのだ。

 隔絶した力の差を思い知らされ、劉封の胸は激しく打ち鳴らされる。


 恐れだ。

 若獅子の背に冷たいものが泡立ち、流れた。


「玄徳の偽養子が。この許褚が正義の剣で屠ってやろう」


 許褚は馬超とも互角に打ち合う膂力と武芸を持っており、さしもの向こう見ずな劉封でも相手が悪かった。


 ――だが、父の勇名に傷をつけるわけにはいかぬ。


「おおおっ」


 劉封は悲壮な決意と共に声を腹の底から振り絞って打ちかかった。


「其の心意気や善し。だが、悲しいかな」


 許褚は劉封の繰り出す槍を次々に受けとめると、フッと達観した笑みを浮かべて戟を無造作に薙いだ。


 ――くる。

 劉封は咄嗟に槍で許褚の刃を防ぎ、胴を両断されることを防いだ。が衝撃までは殺せずに横っ飛びに馬から吹っ飛んだ。


「封君を討たすなッ」

 果敢にもこれほどまでの実力差を目にした上で、劉封の属将たちが次々に許褚の前進を阻む。


 しかし、許褚は小枝を指先で振るように特別製の巨大な戟で蜀将たちを片っ端から打ち斃した。すべてが一撃で頭部を割られ、胴を薙がれて絶命している。ある将は脳漿を撒き散らしながら仰向けに地へと倒れ、ある将は矛を構えたまま自分の腹から流れ出る腸を青白い目でただ見つめていた。


「さあ、死ぬときか。小僧」

「――ちょっと待った。そいつは少し余裕が過ぎるってもんだぜ」


 劉封を追い詰めていた許褚の顔色がサッと変わった。同時に、声の主は電光のように強烈な一撃を許褚の頭部に向かって繰り出した。


 異様な風切り音が唸る。許褚が機敏に振り向く同時に受けに回った。がぎん、と鉄と鉄とがぶつかり合った轟音が響き渡った。


「むぬうっ」


 余裕が消え、許褚の顔に焦りの色が滲んだ。それもそのはずである。劉封の危機を救ったのは、万人敵と恐れられた中華大陸で文字通り一二を争う天下無敵大豪傑、張飛益徳その人であった。


「どうしたどうした。それでもテメェの腕っぷしが曹軍第一といえるのかよ」

 まず、張飛と相対する誰もが心胆を奪われるのは、その強力な眼力であろう。巨眼といってもいいほど大きな瞳は、猛獣を思わせる強い輝きを放っている。


 張飛の瞳は獲物を見据えるとわずかな間でも逃さず、いつでも「喰えるぞ」という事実を如実に物語っていた。


 自慢の虎髭は黒く豊富で紫電が走っているようにそそり立っている。極端な巨人というわけではないが、身が異様に厚い。筋肉の塊だ。鍛えてどうこうなるものではなく、文字通り天性によるものだ。


 虎も熊も、生まれた瞬間から強くなる宿命を背負っている。生物は、成熟した状態でほかの生物と戦えなければならぬのだ。でなければ種が絶える。悠長に武芸を磨いて強くなる暇があるのは人間だけに許された特権だ。

 

 張飛は腕の太さも尋常ではなく、手のひらの大きさはおそらく許褚以上だろう。手にした丈八の蛇矛は長く重みがあり、刃に触れずとも柄で打たれただけで常人は即死する威圧感があった。


「今夜こそ決着を着けようぜ。俺かおまえか――天下一は、ただひとりで充分だ」

「望むところだ、張益徳! 我こそは許仲康なり! いざ、勝負!」


 張飛と許褚の蜀魏を代表する両将の戦いが始まった。許褚が勇んで巨馬に跨り突進してくる。張飛は大きく頑丈な歯を白く輝かせてニッと笑った。それは闘争が愉しくてたまらないといった、童子を思わせる無垢さがあった。


 張飛は許褚の戟が頭上から振り下ろされるのを感じると、素早く馬を操って回避した。四六時中馬に乗るこの時代の男たちは匈奴に劣らぬほど馬術に長けている。跨った愛馬は四肢と変わらず、馬体が感じる動きや痛みなどが自分のもののように感じることができるのだ。


「へっ、やるじゃねえか。そいじゃあ、今度はこっちの番だ!」


 張飛は丈八の蛇矛を抱えたまま、突っ込んだ。地を駆ける馬がトップスピードへと即座に至る。手にした蛇矛。張飛は全身の筋肉を最大限に活用して突きを放った。矛を使うときは、腕だけではなく、腰の回転や脚に込める力の配分がものを言う。蛇矛の切っ先がうねりながら雷光のように奔った。並の将であるならば即死級の一撃であったが、許褚は戟を薙いで張飛の一撃をギリギリで捌いた。があん、と金属音が高々と鳴った。


 張飛はいますぐ笑いだしそうなほどな愉悦に顔を歪めて許褚から距離を取った。

 ふたりは視線を送り合う。

 殺意と親愛が同居した奇妙な睨み合いだった。


「さあ、存分に愉しもうぜ。魏の大将」


 張飛の声。許褚が歓喜とも怒号ともつかぬ、動物のような吠え声で応じた。


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