第053回「孟達の武勇」

 北山にあった貴重な糧食を焼かれた曹丕は怒り狂った。二十万を超える魏軍はそれでなくとも、日々膨大な兵糧を必要とする。長安にいる鍾繇が三輔から苦労して、兵糧物資などを搔き集めるが、その輸送には並々ならぬ労力が必要であった。


「幽州のムシロ売り風情が、余を舐めくさりおって。許さぬ」


 大軍の統御に慣れているとはいえない曹丕は闘志を満面にみなぎらせると、漢水を前面にして強固な陣を張り巡らせ、劉備に対して一歩も退かない決意を露にした。劉備軍は曹丕に対して防御に有利な南側の山岳地帯に長大なかつ堅固な砦を築かせているので、兵力では優っている曹丕もうかつに手は出せない。


「誰ぞ劉備を討つ者はおらぬのか」

 曹丕は帷幄にて諸将を睨みつけると憤懣やるかたない様子で相貌に怒りをみなぎらせて怒声を発した。


「魏王よ。そのお役目是非ともこのわたしにお申しつけください。必ずや、劉備の首をあげてみせましょうぞ」


 数ある諸将の中で名乗りを上げたのは都尉の典満である。曹丕はパッと瞳を輝かせると唸るような声で典満の勇気を褒め称えた。


「おお、さすがは太祖を守った典韋の子よ。いざというときは頼りになるわ」


 この怪異な容貌を持つ巨躯の武将はかつて曹操を守護した典韋のあとを継いだ典満という男である。典韋の位は校尉という高いとは言えない位であったが、斉王曹芳が曹操の廟庭に功臣二十名を祭った際に、この中に含まれていることからどれだけ曹一族から愛されていたかが窺える。これだけ典満が重用されたのは、やはりその父である典韋が曹操を守って倒れたことにあるだろう。以下に典韋の事績を羅列するがしばしおつきあい願いたい。


 典韋は陳留郡己吾の出身で、容貌は生まれつき立派で筋力は人並み外れて強く、固い節義と男気の持ち主であった。


 典韋は知人である襄邑の劉氏のために、仇敵であった睢陽の李永に報復した。李永はもと富春の長であり護衛は強力であったが、典韋は訪問者を装って、酒と鶏を持参し車輛に乗り油断を誘い、門が開くと同時に李永とその妻を匕首で刺殺した。それから典韋は李永の館をゆっくりと退出すると、車上にあった矛と刀を手に取り悠然と歩き去った。李永の住居は栄えていた市場に近かったので、典韋の行った殺人で市場じゅうが大騒ぎになった。李永に恩義のある者や役人たち数百人は、典韋を追跡したが、敢えて近づく勇気を持つ者はひとりもいなかった。典韋がさらに四、五里歩くと、李永の仲間に出会ったがこれと戦って退け、脱出は容易に行われた。これにより、典韋の名は天下の豪傑に知られることとなった。


 初平年間、張邈が義兵を挙げると典韋は兵士となった司馬の趙寵に所属した。張邈の牙門の旗は高く大きく、途方もない重量でそれを持ちあげることができる者はいなかった。しかし、典韋の怪力は人知を超えており片腕でそれを建てることができた。


 典韋はのちに夏侯惇に所属してたびたび敵兵の首を斬って戦功を立て、司馬に任命された。


 曹操の戦に常に帯同して呂布と戦って抜群の功をあげて、常にそばに置かれ親衛隊数百人を引き連れて守護した。典韋は武勇がある上に率いる兵はすべて選抜された勇猛果敢な者ばかりで、戦闘のたびに先鋒として働き、敵陣を陥れた。


 典韋の性質はきわめて忠義で慎み深く、常に昼は曹操のそばに侍立し、夜は天幕のそば近くに泊まり、自分の寝所に帰ることは稀であった。


 典韋は酒食を好み、飲み食いする量は常人の倍であった。曹操の御前で食事を賜るときは、大変な飲みっぷりで左右から勧めて給仕を数人がかりに増やしてどうにか間に合うといったところであった。


 典韋は好んで大きな双戟と長刀を持って、これらを自在に操る怪力と武芸の腕があった。


 軍中ではそのために

「帳下の壮士に典君有り、一双戟八十斤を堤ぐ」

 と囃し立てた。


 だが、その典韋も曹操に対して偽りの降伏をした張繍が奇襲を行ったことで終わりを迎える。


 典韋は長大な戟をもって左右に襲いかかる張繍の兵を次から次へと打ち倒し、数十カ所の手傷を被りながら一歩も退かなかった。


 やがては、戟も折れて典韋は短い剣を持って白兵戦に臨み、数十人を殺し、さらにはふたりの賊兵を両脇に挟んで圧死させると威嚇した。こうなると張繍軍はたじろいで典韋に斬りかかることもできなくなり、激しく恐れおののいた。最後に典韋は自ら賊に突進して数人殺したが、傷口が開いてとうとう力尽き目を怒らせ大声で罵倒しながら壮絶な最期を遂げた。賊は、典韋が動かなくなって相当な時間が経ってからようやく思い切って進み、なんとか首を取るとそれを陣中に回して見物したという。


 曹操は典韋の死を聞くと深く嘆いて涙を流し、彼の遺体を奪い返す者を募った。後日、曹操は典韋が戦死した場所を通過するたびに、中牢のいけにえを捧げて彼の死を祭った。


 その典韋の子である典満が自ら乗り出したのだ。典満は騎兵五千と歩兵三万余を引き連れると、劉備の立て籠もる要塞の前に進み出て、出撃しない臆病さを嘲笑った。


 ――児戯に等しい行為だ。


 諸葛亮は眼下で吠え立てる典満を視て悠然と羽扇を使っていた。だが、これは曹丕が格別、戦術に才がないというわけではない。兵力的に倍近い魏軍であっても万全の防備を施し、さらには西川の堅牢な地形を利用した城塞をまともに攻めることなどは、まず不可能なのだ。


 ――詐謀に練達した曹操であるならば、まず、蜀を内側から崩すために計略をどのように行うか頭を使うだろうな。


 この時、曹丕は関中から糧食を集めることに苦慮していたが、それは諸葛亮も同じであった。


 荊州と益州を攻略して、軍実に必要である膨大な金穀を得たことには違いないが、劉備の率いる蜀政権は曹魏に比べようもないほど財政は貧弱であった。


 軍隊とは、それ自身が膨大な金食い虫なのだ。事実、諸葛亮ら官僚が日ごろ、爪に火を点すような思いで貯めた財物は湯水のように浪費されている。曹丕とまともに戦っても、貴重な人的資源や財物が無意味に消費されるだけだ。だが、諸葛亮にとってそれらよりも大切なものは決まりきっている。


 時間である。すでに劉備は五十の坂を超えている。政治、軍事共に冷静な判断力を保てるのは、六十代までだろう。それらで力を発揮できなくとも、劉備が生きているだけで、曹丕や孫権に対する充分な抑止力にはなる。劉備からすれば、曹操がいないまとなっては、曹丕など恐れるに足りない相手なのだ。


「孔明、さすがにこれ以上は諸将の不満を抑えきれぬ。積極的な出撃は望むところではないが、さすがにあの敵将をそのままにはしておけぬぞ」


 慎重な劉備が典満の悪口雑言による士気の低下を恐れて、諸葛亮に出撃を促した。諸葛亮は劉備と相談の上に、将を選抜して典満を討つべく、孟達に白羽の矢を立てた。


「畏まって御座候」


 孟達は字を子敬といった。


 のちに劉備の叔父と同名であったため避諱して字を子度に改めている。容姿は衆に優れており、才能も抜群で劉備は孟達の能力を愛し、重用した。


 諸葛亮が上手く使いこなせなかった将は孟達のほかに魏延などが有名であるが、その点彼らは劉備と相性が良かったのだろう。


 ――劉公の名を辱めることなどできぬ。ここで、是非、功をあげてやろう。


 孟達は歩兵三万余を率いると、猛然と目の前で盛んに挑発を行う典満に襲いかかった。


「待っていたぞ、蜀の羽虫めが。残らず討ち取ってやろう」


 典満は勇躍すると、巨大馬に飛び乗って前陣に移動すると雑兵に至るまでの大音声を張り上げ、攻勢に出た。


 だが、孟達の兵術は相当に優れていた。孟達は、主が巴蜀生まれで山岳戦に長けており、中原の兵に比べて体格は劣っていたものの、バランス感覚に優れて鋭敏で典満の兵を相手にたちまち優勢に戦いを進めた。


「よし、突撃の鼓を打て」


 孟達は歩兵を素早く小さくひと塊にまとめると、典満の勢いだけの攻撃を徹底的に防がせた。孟達の指揮は、典満にとって消極的かつ怯えと取れたのだろう。父譲りの武勇に自信があった典満は自ら長大な戟を掲げて孟達の前陣を破ろうと、声を張り上げて突撃を敢行させた。


 が、孟達の前衛の粘りは相当なもので、中々に崩れなかった。歩兵たちは協力し合って楯をひとまとめにして、典満の攻勢の勢いが衰えるのを待ち続けた。これには、諸葛亮の徹底的な集団訓練が根付いていたので、蜀兵たちは将校の指図を守って恐怖に崩れることなく戦うことができたのだ。


「ころやよし。いざ、放て」


 孟達は典満の動きが衰えるのを独特の戦術勘で嗅ぎ取ると、それまで秘していた弓兵部隊を前面に出して、猛射を行った。


 空を黒々と染めるほどの矢が一斉に放たれた。典満の部隊は攻撃こそ勇猛であったが、守備関しては笊のようなものである。


 ――こういった集団は一旦崩れると、もろい。


 自慢の整った口髭を指先でさすると孟達は不敵な面構えで、軍を前に押し出した。ぐぐっと、それまで力を溜めに溜めていた歩兵が戟をそろえて歓声を上げる。前半、ほとんど戦わずに力を温存していた兵たちが典満の前陣と接触した。


 そして、ものの半刻も経たぬうちに、典満軍の足並みが乱れ始めた。こういった状況で、将校が執るべき方針が衆に示されなければ、集団は弱い。そして一旦崩れると、立て直すのは並大抵なことではなかった。


「押せっ、押せえッ! いまこそ敵軍を破るときぞ!」


 大津波に刈り取られる海辺の砂城のように典満軍は崩壊した。

 孟達軍は情け容赦なく猛撃を行うと、典満軍の死傷者はみるみるうちに増大した。孟達は、弩隊を左右から出して扇のように広げて、まず敵の騎兵を集中的に殺傷した。弩弓手三千が集中的に矢を放った。


 中原の兵が自慢する立派な体格を持つ馬が、いななきながら横転して逃げる典満兵のゆく手を遮る。孟達は長子の孟興と甥の鄧賢にそれぞれ一万ずつの兵を与えると、典満軍のガラ空きになった陣の急所を衝かせた。孟興と鄧賢は騎兵を指揮しながら典満の兵を蚕食する。


 ――馬鹿な。なぜ、このようなことに。


 典満は長大な戟をひっつかむと、自ら前線に繰り出して自慢の武勇を振るった。巨人並の体格を持つ典満がみなが見える場所に出ると、兵卒たちの瞳に力が戻った。長大な戟を旋回させて典満はたちまちに十数人の蜀兵を殺傷した。


 が、最後のひとりの部将の抵抗が思いのほか強かったのか、典満の戟は真ん中からポッキリとへし折れた。


「ぬう、おれの得物を持ってこい」


 従者に向かって典満が吠える。ほどなくして、従者が巨大なふたつの戟を抱えながら息を切らして現れた。この双戟は普通のものよりやや短いが、その代わりに刃に重量を持たせてある。よって、普通の男であれば抱えて持ち上げて運ぶだけでもひと苦労であるが、典満の膂力はこの双戟を両手に持って活用することを可能とした。


「うおらあっ!」


 典満は自慢の双戟を両手に持って縦横無尽に暴れ出した。黒毛の愛馬を脚だけの操作で思いのまま操り、双戟を振るって歩兵を殺戮してゆく。


 ――どうだ、我が武勇に優る者なぞ蜀にはおらぬわ。


 これに立ち向かったのが孟達の甥である鄧賢だ。二十代の鄧賢は勇ましくも矛を携えて馬を奔らせ、典満に挑戦した。巨人である典満に比べれば、並の体格しかない鄧賢は見劣りしたが、どうして中々武芸は達者である。


 鄧賢は矛を巧みに操って、典満と五分に渡り合った。典満は、初め、矮小な鄧賢を見下して一撃で片づけてやると意気込んだが、打ち合いが数十合になっても決定的なものを決められないことに焦りを生じさせた。


「死ねえ!」


 典満は車輪のように双戟を振り回すが鄧賢は淡々とその攻撃に応じて、表情をほとんど変えない。


 次第に、馬力の優っていたはずの典満の動きに鈍さが生じた。呼吸も荒い。双戟が重すぎるのだ。これまで典満は互角以上に腕の立つ将と打ち合ったことはなかった。


 鄧賢が蜀将のなかで特に秀でているということはないが、典満のなかにあった驕りと曹操に仕えた実父典韋の恩恵もあって、これまで真の強敵と戦うことがなかった。


「があっ」


 ――これで最後にしてやる。

 そう思って放った必殺の一撃を鄧賢は矛を操り力を受け流してすべらせた。だが、典満の攻撃は双戟を利用しての二連撃だ。ここで鄧賢は打ち合わずに馬を操って回避に移った。


「が、あああっ!」


 自分にも誇りというものがある。典満は右腕の戟を中空で無理やり軌道を変えて鄧賢の左肩に狙いを定めた。骨を砕くガツッという衝撃が響いた。これにはさすがの鄧賢も矛を取り落として、馬首を翻した。


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