虚ろの刺青、櫓天竜の鱗、痛絶虫の爪、牛頭鳥の胆嚢

杉林重工

虚ろの刺青

 おのれに、絵の才があったことを認める。


 今の時代、宮廷画家に成れなくても、貴族に気に入られれば画家は十分に生きていける。肖像画やご立派なパーティの様子を描いて見せびらかすのが流行っているそうで、金回りがいい貴族は何十人もの画架を雇っているという。聖堂に近づいて宗教画を描いたっていい。人を集めるために、豪奢な絵が描ける画家は引く手数多と聞く。出版も最近は景気がいいというし、本の挿絵を申し出たら、それだけでも生きていくには困らないかもしれない。


 だが、彼が選んだ仕事は違った。


「螺旋獣の血に、白霊樹の樹液、ハルガサンの湧き水。独孤蛇の牙の粉末を混ぜた。これで身体能力は圧倒的に上がる」


 彼はそれらが混ざった液体が入った小瓶を揺らした。相手はおびえた表情を隠さず、ただじっと彼と小瓶を見つめた。たかが三種の液体と魔物の粉末を混ぜただけのそれが、揺らめきながら色彩を変え、赤、青、緑、灰と色を変える。


「いい。それよりも、本当なんだろうな」


「何がですか?」


「あんたは下描きなしで双頭狼が描けると聞いた。だから……」


「描きますよ」突き放すように言った。


「ただし、落ち着いて、全部終わるまで静かにしていてください。効能を心配するなら、彫っている間に暴れたり、気絶したり眠ったり、声を上げたりしない事です。大きさは、背中全体。かなり時間が掛かります。後、この魔術の特性上、戻すことはできません」


 この部屋はランタンが一つ、それとベッド、そして道具を入れた箱しかない。外の音は一切しない。防音の魔術でも何でもなく、深くに掘られた地下室故響かない。


「……わかってる。その覚悟だ」


「いいでしょう。じゃあ、始めます」


 彼は男に、寝転ぶように合図した。彼は黙って指示に従い、ベッドにうつ伏せになった。


 双頭狼は忠誠と力の象徴だ。それを思いつつ男の背に触れる。やや脂気味の表皮。まだ若い故、筋肉の具合は些か物足りない。ぎゅ、と指を押し込んで、具合を図る。一応、毎日体を動かしているお陰か、コリはないし、キャンパスとしてはまだまし。毛は細かいのを含め剃らせたし、顔はひどい男ではあるが、背中だけ見るならいいだろう。変な黒子も痣も、傷もない――否、やっぱり、本当はもっといいキャンパスがよかった。螺旋獣の血の色は、もっと濃い皮膚の男に映えるだろう。


 道具は、黒鬼蜂の針と毒袋をそのまま加工した、彼のお気に入りの道具である。結果としては筆と似た見た目の道具だが、針の部分だけは細く繊細で、緻密に出来ているのを彼はよく知っている。その後部に先ほどの小瓶を取り付ける。しばらくすると、透明な針先がどす黒く染まった。針先が魔力で蠢動し、じんわりと液を垂らす――これが、今の彼の絵筆である。


「それでは、頑張ってください」


 彼はもう一度男の背中全体を撫でる。皮膚にも癖が、否、流れがある。その下の脂肪や筋肉を感じ、血流や体温、骨に思いを馳せる。瞬間、彼の脳裏に、体の混ざり合った二匹の狼の姿が見えた――彼らは決して融和しないはずの、互いに高潔な大狼である。しかし、今、より強い力で一つの体にされてしまった。怒りと悔しさが常に精神を苛み、暴力は天井を知らず、荒れ狂って爪牙を振う。


 彼は針を男の背に刺した。途端に針全体がより強く震え出す。それを指先だけでなく腕全体の筋肉で従わせ、全身で振り、描くのだ。これが、彼の仕事。男の嗚咽が聞こえるが気にしない。振動する針の先から迸る魔墨は男の皮膚下に刻まれ残され、鮮やかに線を描いていく。線と線が結び合い、大きな図版へ化ける――現れたのは巨大な顎。それは男の肩にまで差し掛かり、描き込まれる眼は彼を獲物と見定めたように激しい熱気を帯びている。それを切り伏せるように、彼はさらに針を男の皮膚に刻んでいく。やがて魔墨は男の血肉と混ざって色を発す。


 ――赤だ。そう、紅蓮の狼。それは血の色であり、体を混ぜられ怒りに身を焦がす、狼の象徴だ。


 背中一杯の平面の魔物。それが今、彼の指先と針から生まれようとしていた。筋肉でも血管でもなく、双頭の狼が今、唸りを上げて、男の背中から跳び出そうとした。そこに彼は茨の図版を描き足していく。


 ――魔墨師。他者の体へ魔墨を使って刺青を行い力を与える。それが、絵の才をたまたま持った彼の選んだ道だった。


「絵を描けるってガキはどこだ!」


 彼の運命が変わったのは、一年ほど前だった。筋骨隆々の男が、片田舎の農家の戸を蹴破るように入って来た。


「クインカ、ですか?」


 応対した老爺は、目を白黒させながら言った。男の無礼な振る舞いに、老爺は何も言えなかった。


「知るか。この絵を描いた奴を探している」


 男は一枚の絵を老爺に突き付けた。それは、先日亡くなった村の長老の弔いの為に描かれた絵だった。


「それなら、クインカですが、あいつに何の用で……」


「家の中か?」


 男は大いに怒鳴り、老爺は首肯してしまった。それを認めると、男は家の中に押し入った。老爺は今度こそ何か言おうと思ったが、小さく悲鳴を上げてそれ以上の言葉を続けられなかった。男の片手には、血だらけの女がいた。服が赤黒く染まり、もはやどこまで正しく肉体が残っているかも知れなかった。よく見れば、男の服もボロボロで、その下の肉体にも無数の生傷が走っている。


「おい、お前がクインカか? 否、間違いねえ、お前だな」


 男は部屋の一つを開けて言った。開けた途端、濃い油の生臭さが鼻を突いた。部屋中に油絵が飾ってあり、締め切ったその中で腐ったような臭いを放っていた。その中央に、画架にキャンパスを掛け、今まさに新作を描く少年を認めたのだ。


「僕です」


 彼はどこかぼんやりと答えた。丁度彼は、絵を描くためにまどろみの中にいたのだ。


「お前、この絵を描いたな」


「描きました。でも、それはフエンにあげたものです。何故、あなたが?」


「関係ねえ。絵が描けるなら協力しろ」


 男はポケットをまさぐり、何かを壁に投げつけた。ばん、と硬い音を立て、それは床を転がった。金貨だ。壁に投げつけられた衝撃で歪んでいるが、それゆえ価値が高いことはすぐに分かった。


「いいですが、何を描けばいいですか? あなたの肖像ですか」


「違う! 蛇だ!」


「蛇? まあいいか」


 クインカは頷き、画架から書きかけのキャンバスを降ろした。彼がこの恐ろしい容貌の男に対し気の抜けた対応をしてのけるのは、別に度胸があるわけでも何でもなく、絵以外のことに興味がないからだった。


「ただの蛇は駄目だ。円環の蛇を描け。リン・ベラウボロだ」


 男はクインカの胸ぐらを掴んだ。普段、無感情と言われる彼であったが、この時ばかりは恐怖があった。今更脂汗が額に滲み、漸く、面倒なことに巻き込まれたと気づいた。


「リン……?」


「知らねえとは言わせねえぞ」


「一応、知っていますが……」


 円環の蛇は、都の聖堂の壁画の一つで、大変有名らしい。聖堂が刊行している教書に描写される不死身の蛇であり、誓徒に重要な問いかけをする。文面だけ流し読みしたことがある。挿絵はなく、真面目に教書を読まなかったクインカにとって、一切のイメージすら湧かなかった。


「なら、それを描け」


「わ、わかりました」


 逃げ出したくなる状況だったが、クインカはがくがくと首を縦に振り、恭順を示した。男は満足したようで手を放す。クインカは震える手で新しいキャンバスを求めて、地面を這うように探した。


「違う。お前が描くのはこっちだ」


 男は何かを持ち上げた。それが人だと気づくのに、少し時間がかかった。血だらけの女だった。


「それは……」


「まだ息はある。急げ。おいジジイ、湯を用意しろ! 布もだ」


 男はこっそり様子を見ていた老爺に命令する。


「お前もぼさっとしてねえでベッドを空けろ。バウテを寝かさねえと」


 男にせかされるまま、クインカはベッドを空ける。男はその上に女を転がすと、身に着けていた鞄から、ケースを取り出した。そこからさらに、小瓶をいくつも取り出し、ラベルを見る。


「複合獣の血、渦巻き川の清水、星の粉末、天空樹の果実、ウーラスの毒液……」


 男はまるで呪文のように聞き慣れない言葉を並べ、小瓶のラベルをチェックしている。よく見ると、男の手足も声も震えていて、彼もまた何かに怯えている事に気づいた。


「あの、湯と布を……」


「バウテの血を拭き取れ。わかんねえのか!」


 男は怒鳴った。この男は粗暴だから怒鳴っている、というのも当然あるだろうが、それ以上に追い詰められていると感じた。女を改めて見つめる。血まみれのこれが、男をここまで焦らせている。一体何者なのだろうかと、場違いに思いを馳せた。


「服は脱がせていい」


 男に言われるまま老爺は女に寄り、服に手を掛ける。だが、老爺、すなわちクインカの祖父は恐怖からか手が覚束ず、作業にならない。クインカが無言で作業を買い、血まみれの彼女を抱き上げた。脱がす為に掴んだ彼女の肩は柔らかく、触れただけで彼の指が深く肉に食い込んだ。平静を装う為に息を深く吸い、服をめくると、そこで漸く、彼女が背中に大きな傷を負っていることが分かった。これを下にするわけにもいかず、うつ伏せに寝かせる。まだ手伝おうとしている祖父は、ぬるくなった湯で濡らした布をクインカに渡す。だが、それで彼女の裸体をなぞり、血を拭う事を躊躇った。


 きれいだ。


 クインカは思わず唾を飲んだ。元は真っ白で美しい肌だったのだろう。その上を、何か邪悪な傷が右肩から斜めに走っている。赤黒く変色した傷はそのまま周辺の血肉を穢し、紫色や緑色に変色させている。傷自体がまるで生きているように脈動し、まともな怪我でないのはすぐに分かった。本来であれば目を背けたくなるような光景に違いないが、クインカの目は釘付けになった。


 生きている。この傷は、生きているのだ。もしもこの傷に、包帯一つでも巻こうものなら、やめろと叫び出しそうなほどに。


「クインカ……」


 祖父の縋るような声で目が覚め、慌ててクインカは、内心惜しみつつも彼女の背中を布で拭った。赤黒く固まった血は取れたが、依然として不気味に広がる紫の傷だけは変わらない。


「六脚馬の血清、これだ!」


 男は突然声を上げ、小瓶の中身を女の傷に振りかけた。きっと男は女を生かそうとして必死なのだろうが、それだけの薬が何になるのか。クインカは首を傾げざるを得なかった。だが、突然女の体がびくり、と震えると、あれだけ悍ましい色彩を放っていた傷口周辺の色が見る見るうちに収まっていくではないか。同時に、死んでいると見紛う程静かだった女の息が戻り始めた。


「よかったですな」


 祖父がそう口走った途端、男の鉄拳が迸った。祖父は部屋に置かれていた絵を巻き込んで壁に叩きつけられた。


「違う。これからだ!」


 男は息を荒げたまま、六つの小瓶と、少し大きな瓶をクインカに押し付けた。


「混ぜろ。魔墨は術師が混ぜる決まりだ」


 祖父の呻きがクインカの手を無言のまま動かす。六つの小瓶の中身を一つの瓶に収め、それを、今度は男が手渡してきた奇妙な筆に注ぐ。筆先は尖っていて、何かに似ていると思ったが、蜂の針だった。


「筆に似てるから何とかなるだろ。これで円環の蛇を描くんだ。それで女は助かる」


 意味が分からなかった。流石にクインカは手が進まない。


「いいからやれ。死んだ魔墨師がそう言っていた」


「描くって……」クインカの目が泳ぐ。


「女に、バウテの背中に描け。わかるんだろ、円環の蛇が」


 知らない。分からない。そんなもの見たこともないのだ。だが、女の背に目を落とすと、不思議と勇気が湧いて出て来た。赤黒い血を吹き出す背中。その魅力のなさだけは、今クインカの目にもはっきりとわかる。今浅く呼吸を取り戻した彼女より、よっぽどのあの毒々しく蠢動する傷口に、クインカは生を見出していた。


 同時に、手の中の筆、否、針が蠢くのを感じた。今にも死に絶えそうな女と、さっきまで生きていた傷口。手の中の魔墨とやら。そして、自分の鼓動。そのすべてが、まるで自分を試すように見つめている、そんな気がした。眼。


「ねえ、結局、クインカはイーエン聖堂の円環の蛇、見に行ったの?」


 女は気軽に話しかけた。クインカは深くため息をついてから答える。


「行かないよ。おれはもうここから出られない」


 クインカは首を振り、小瓶を洗う。ただの水ではなく、この地下街のさらに下にある水脈のから湧き出た水だ。


「そうだよね。じゃなかったら、わたしの刺青、洗い流したくなっちゃうかも」


 さっきまで双頭の狼を描いていた。相手はすでにいなくなっていて、刺青のケアをするために別室で六脚馬の油を塗られているだろう。男がさっきまで悲鳴をこらえていたベッドの上に、女、バウテは腰かけている。正直、あまり座ってほしくなかった。ベッドの中腹は白濁した液体が飛び散っているし、枕側には酷い量の涎と鼻水、涙で沈んでいるからだ。


「それは困る。刺青は洗い流せないし、だからといって恥辱を雪げるほどおれは強くない」


 本当に問題だった。仮に仕上がりが気に食わないことがあっても、魔墨を刻まれた人間の力は常軌を逸す。不出来なことがあって、人に見られたら恥ずかしい、だなんて思っても、殺して地下に流すとか、そういうことは無理だ。返り討ちにあってしまう。


「可哀そうに。自分には彫らないの?」


「できない。魔墨の声や、キャンパス……否、お客さんに」


「キャンパスでいいよ。人でなしだもんね」


 つん、とバウテはクインカの言葉を遮った。


「この仕事の面白い所は、墨じゃない。確かに、おれの思った通りになる絵の具は面白かったが、色を作るのも好きだった」


 小瓶を洗い終わり、籠に入れる。ぱっと振り返って、じめじめした床を足早に、クインカはバウテの手を取った。そして乱暴に袖を肩口までたくし上げた。肘まで伸びた果実の刺青があらわになった。


「こんなに面白いキャンパスがあるなんて、誰も教えてくれなかった。でも、自分に刺青を彫れば、キャンパスの声が聞こえない」


 そういって、さらに肘から手首までをクインカはなぞる。バウテは思わず体を、腰から捻ってくねらせる。


「なんて言ってる?」悪戯っぽくバウテは訊ねた。


「君の体が耐えられれば、もう一度」


「知ってるでしょ。あなたが入れてくれた蛇眼の星球、あれのお陰で殺される前より元気なの」


「見せて」


 クインカはバウルの服を脱がせ、背中に指を這わせる。そこに一見、蛇はいない。だが引いて見れば、背中を袈裟懸けに刻まれた大きな傷が、蛇の瞳になっていることに気づくだろう。蛇の瞳には無数の星々が煌めいて、その一つ一つに命があることを思い出させる。眼の縁取りに、二重螺旋を描く蛇を描いた。星々の命を繋ぐ役割を持つ。


「傑作?」


「まあね。でも、絵描きとしては、どんなに傑作であっても、そうとは言いたくないな」


 一番いい作品は、ついさっき彫ったもの。そう言いたいし、言い続けたい、というのがクインカの信条だった。


「お父様の前では?」


「君が最高傑作だ。処女作にして永遠の。やっぱり、初めてが一番よかった。あの時の感動は二度と得られないし、それがこの蛇眼を生んだんだ」


「嘘が上手。でも、『臭い』」


「ここに来て一年が、否、もうすぐ二年だ。身の振りは覚えた」


 ――絵が描きたいから。嘘とは、言わないことも含まれるのだと、クインカは学んでいた。


「素敵ね。お父様が気に入るに決まってる」バウテはかぶりを振った。


「クインカ、次の客が来ている」


 ノックもなしに男が入って来た。それは、クインカが魔墨師の道を歩む切欠にして、当時バウテの護衛を引き受けていた男だった。今は、片腕を落とされて下働きに甘んじている。もう一つ違うのは、残った左腕に、手の甲まで刺青が這っていること。


「わかってる。すぐに用意しますよ。戻ってくれませんか、ゾムナ」


 その言葉で、ゾムナはすぐにいなくなった。クインカはバウテの頬に浅くキスをし、服を着せる。


「君に新しく彫るのは大分先になりそうだ。お父様に数を減らしてくれるよう伝えてくれれば話は違うんだけど」


「無理ね。最近、縄張り争いが激しいみたいだから」バウテは溜息をついた。


「ああ。正直、背中に彫るのも久しかったんだ。次の客は腕だからね。その次は尻だ」


「つまらない?」


「まあね。やはり、大きく彫れるときは胸が高鳴る」


「やっぱり、変な人」


 そういってバウテはベッドから降りた。どちらかというと、遊んでもらえなくて拗ねる子供のような反応だった。


「でも、本当に彫りたいのは君だ」


「本当に? また、嘘?」


「本当さ」


 値踏みするような彼女の手を掴み、強引に抱き寄せた。彼女は一瞬身を捩って抵抗したが、やがて体を馴染ませるように腰を動かすと、クインカの背中に手を回した。


「別ので彫ってくれてもいいんだけど」


「今晩、君の部屋に行くよ」


 二人は浅くキスを繰り返すが、やがてクインカが嗜めるように手を突っ張り、体を離した。


「後でね」


「好きって言って」


「愛してる」


 しょうもない我儘に付き合ってやる。すると、漸く諦めがついたのか、


「わかった。待ってる」といってドアの向こうに消えていった。


 バウテの背を見送り、次の客の魔墨を調合する。魔墨師は、普通の魔術師とは違う、独立した体系を持っている。バウテの父君、ヘウンカッテ・ファミリーお抱えの、魔墨師の一族が伝えて来た秘術だ。尤も、その歴史は一年前に終わりかけた。対立する組織から守るために、極秘で伝手のある田舎町へ移動していた『ヘウンカッテの大事なものたち』は、皮肉にもその避難途中に襲撃され、全滅しかけた。たまたま生き残ったゾムナは、瀕死だったバウテと、死に掛けの魔墨師から預かった魔墨を片手に、クインカを訪ねたわけである。ゾムナは娘の命を繋ぎ止めた功績と、魔墨を入れた罪を天秤に架けられ、結果腕を落とすことで手打ちとなった。


 当のクインカも罪に問われたが、魔墨の扱いを認められ、腕も指も失うことなく、父君のもとに一人残った最後の魔墨師の弟子になった。まともな職業でないことはすぐにわかった。魔墨師なんて、田舎でも都でも聞くことのない特殊な魔術、否、禁術だったからだ。


「はい、どうぞ。アルマークさん」


 ノック音に返事する。素早く、ベッドの上の厚手のシーツを剥ぎ取り、捨て、代わりを敷いた。アルマークは背中、腰、腹と、かなりの範囲に魔墨を入れている。依頼通りの魔墨を片手に振り返ると、顔を腫らしたアルマークが、べっしゃりと床に倒れた。これが、これからが禁術たる由縁だ。


「ゾムナじゃないか。どうした」アルマークの後ろから現れた彼へ、なるべくフランクに話しかける。


「俺に刺青を入れろ。今すぐにだ」


「できない」


 即答した。状況的に、断ればそれが死に繋がるのは明白だった。それでも、クインカは否定しなくてはならない。


「あなたの体には股間にまで刺青が入っている。魔墨は普通の魔術より身体を強化するが、描ける面積という限界がある。わかるでしょう」


「ああああ!」


 その言葉に、ゾムナは絶叫し、片手で服を破り裂いた。その全身には竜と虎、大魚や太陽、月などのモチーフが、一つの城に見えるように彫り尽くされている。荘厳に見える出来ではあったが、醜悪だった。駄作だとクインカは思っている。


「駄目なんだ、足りないんだ」


 ゾムナの全身が震えている。死に掛けているバウテを前にした時とはまた違う怯え方だ。


「最初、無くなった腕を補うために全身を強化する墨を入れた。その次は、片腕をより強く。今度は感覚が鋭くなるように。より早く走れるように。剣も槍も弾く体も欲しかった」


「全部くれてやったろう」呆れてクインカは首を振った。


「駄目なんだ! それでも、両腕があるやつには勝てない」


「勝てるさ。腕が一本分、確かに表面積は劣るが、ゾムナには体格がある。君が欲しいのは、単純に、快楽だろう」


 口にするか悩んだが、クインカはそう言った。ゾムナの目が卑しく光った。


「わかってくれるのか?」


「客はみんなそういう」


 クインカはベッド横にまとめて捨ててあるシーツを見た。さっきの男の涎、涙、そして精液でべったりと汚れているはずだ。


「わかっているなら彫ってくれ!」


 ゾムナは短刀を取り出した。そんなもの無くても、彼がどれだけ強いか、それはクインカが一番よく知っているのに。


「全身を刻まれる激痛は耐え難い。体中に墨が流れ込むのも吐き気がする。だが、その先に、いつも強くなった俺がいるんだ。俺は、もう一度あいつに会いたいんだ」


 魔墨師を始めて分かったことがある。どんなに力を与えても、いずれ彼らは慣れてしまい、どんなに自分が以前より強くなったのか忘れてしまうのだ。煉瓦を素手で砕けるようになったら、今度は大岩を拳で割りたくなる。否、大岩を割れない自分に弱さを感じ始めるのだ。加えて、魔墨を入れた人間が増えていることもそれに拍車をかける。


「わかった。ベッドに」


 クインカは新しい針に雷桜虫の体液と花色蛍の体液を混ぜた瓶を挿し、改めてゾムナの背中を撫でた。彼は二人目の客だった。


「でも、一つだけ聞いていいか?」


 彼が撫でると、ゾムナがやや腰を浮かせる。考えないようにしながら、クインカは言った。


「あの日、バウテが極秘だったはずの移動の最中に殺されかけたのは、お前がエボケト・ファミリーと内通していたからだ。そうだろう」


「それは……」


「お前は内通者なのに、バウテと一緒に始末されそうになったから逃げた。お前が表に出ない下働きに甘んじているのは、エボケトと顔を合わせることもないからだ。だろう?」


 しばし、間が開いた。だが、


「……そうだ。だが、仕方なかった。でも信じてくれ。居場所がないから、もう俺はヘウンカッテを、ボスを裏切らない。わかるだろ?」ついにゾムナはそう言った。


「ああ。わかるよ」


 刺青の上に針を重ねる。そういう術もある、と師に教わった。最後、ゾムナの口に、棒切れを噛ませる。


 それを確認すると、縦に真っ直ぐ。極限にまで一直線。それは、自然にも魔術にも存在しない図版。その瞬間、ゾムナの全身が震え、そして動かなくなった。駄目押しで横にも直線を入れる。魔獣で彩られた城が崩壊していく。


「ボスから頼まれていた。自分の娘を傷物にしたのは誰かって」


 でなければ、貴重な最後の魔墨師の傍に、こんな粗暴で刺青中毒な男は置かないだろう。これが、魔墨に絡め取られた人間の末路だ。その姿に、何故かバウテの姿が重なった。彼女も、背中のみならず肩や足にまで刺青がある。


 想定より仕事が早く終わった。クインカは仕事道具をまとめ、バウテの部屋に行く。だが、ふと、嫌な予感がした。そこで、ドアに耳を押し付け、中の声を聴いた。


「なあ、いいだろ?」聞いたことがある声。多分、客だ。


「駄目。あの人、人の体の異変に敏感なの」甘いバウテの声がする。


「でも、もう我慢できない。君だって、あいつには興味ないだろ」男の声に記憶を探る。気づくと、クインカは針を握ってドアを蹴破った。

 

 案の定、抱き合う二人がいた。男は服を脱いでいて、人馬を描いた刺青が剝き出しになっている。


「なんだよ。何見てんだ!」


 男は激高する。クインカは黙って針を投げた。それを、男は易々と弾く。


「勝てると思ってるのか? お前のお陰だよ」


「知ってる。お前の体に入れた火蠍の粉末は、霧苔の毒に引かれやすい。魔墨の材料は共鳴するんだ。材料と、人間自体に。だから震えるし、魔墨は飛び散る」


 怪訝そうな顔がすぐに真っ赤になり、膝を付く。声にならない声を上げ、見えない背中を見ようと首を捻る。彼の指先に、ほんの僅かに付いた魔墨が肘を伝って肩に至り、背中を渡って人馬を覆っていた。やがて、男はあっさりと絶命した。その苦悶の表情に、バウテはクインカを見つめた。


「そんな奴のどこがいい」


「……彼は、わたしを見てくれる」クインカは、ふん、と鼻を鳴らす。


 新しい針を取り出しバウテに迫った。バウテはベッドの上を後退り、壁によって逃げ場を失う。


 クインカは無理やりバウテの手首を掴み、仰向けに転がした。その上に跨る。彼女の服を引き裂き、胸元を露わにする。白く滑らかな胸。まだ、ここに墨は入れていない。その胸を片手で、押し込むように揉みしだく。バウテが苦悶の表情で体を反らした。ぼたぼたぼた、と針先から魔墨が垂れ、ベッドを汚す。


 脇を締め必死で両拳を握る彼女に、ふと違和感を覚えた。顔を枕に埋める彼女の顎を握り、強引にこちらを向けると、彼女は枕をきつく嚙んでいた。その姿が、ゾムナの最期を思い出す。


「お前……」


 クインカは針を見る。女の視線もまた、クインカや人馬の刺青の男ではなく針にあった。クインカは腰を浮かしてバウテをうつ伏せにする。呪われた蛇眼だけが、彼をじっと見ていた。

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虚ろの刺青、櫓天竜の鱗、痛絶虫の爪、牛頭鳥の胆嚢 杉林重工 @tomato_fiber

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