Nameless

松本貴由

なまえのないこども


「モン太!」

「モン吉!」

「モン雄!」

「モン蔵」

「モン治郎!」

「もん……モン逸」

「えっと、も、モン……之助?」

「おにいちゃん、もう止めようよぉ。絶対におにいちゃんのききまちがいだよ」


 言いながら妹が芥子色の色紋付の裾を引っ張るので、しんはずり下がる眼鏡を定位置に直す。


「いいや、絶対に“モン”って言ったんだ」

「なんて呼んだってこっち向かないよ。きっとモンなんとかじゃないんだよ」


 妹はうんざりしたように目を細め、次いで門の外に立ち尽くす男児に視線を戻した。


「ずっと見てる。そんなに珍しいのかな、あれ」


 浅葱色の半纏に着られている小さな男児は、まるで結界に妨げられそれ以上入ってこられないかのように、茫然と門を見上げている。正確には門の左右に聳え立つ、松竹梅に南天と葉牡丹を添えた大きな正月飾りを凝視していた。

 黒の襟巻きからあふれた餅のような両頬と耳朶、小さな鼻頭は真っ赤だ。対照的に紫がかった唇はぽかんと開き、そこから吐き出された白は素知らぬ顔で曇天に還っていく。寝不足で濃いくまの落ちた漆黒の目は眠たそうに、むしろすでに微睡みの中を揺蕩っているかのように、目の前に聳える三本の竹に幽玄と囚われていた。


 今日は彼がこの家にやって来てから二度目の元日だ。本家への挨拶は夕刻から宴会が催されるため、前の正月では家に来て間もないころだった彼に留守番をさせた。今年は彼を連れて動くことを考慮し、昼過ぎ早々にご無礼したのである。

 ハイカラな馬車に乗れたのと料亭の鰻が食べられたのとで満足げに居眠りする妹の隣で、男児は馬車の車窓から家々の軒先をせわしなく眺めていた。

 そして家につくなり、こうして微動だにしなくなってしまったのである。


 呆れた大人たちは男児の世話を子どもらに任せ、暖を取りに屋敷へと引っ込んだ。

 眞と妹が玄関からいくら呼びかけても、庭先に出て手招きをしても、視線ひとつ眉ひとつ動かさない。指先が凍えてきたので、眞は眼鏡をもういちど押し上げた。

 

「どうしよう、いつもみたいに強引に連れてこようか」

「そんなのだめ! 本家のおじさまも言ってたじゃない、一年いっしょに暮らしてなまえも聞き出せないなんておかしいって。新年なんだもの、わたしたちがちゃんとしなきゃ」


 妹の声には年に似合わぬ力強さを感じるようになってきた。幼くあっても名家の娘、血がそうさせるのだ。眞は妹を誇りに思いつつも、それが兄である自分の頼りなさを浮き彫りにするようで落ち込んだ。


 おもい色に小花柄の肩掛けストール、その下の振り袖の裾がまるで蝶の翅のように揺れる。梅の鼻緒をあしらった草履が、庭石にうっすら積もった雪の上に点々と羽やすめのあとをつくっていく。眞はそれを崩さぬよう砂利を踏んで妹を追いかけた。

 人命を守る家業ゆえに屈強な大人の多い家にあって、眞と妹の二人だけが、この男児に臆することなく近寄れるのだ。



***


 ――例年より降雪の多かったひとつ前の暮れ。

 寒空の下、眞は妹と本家の剣術稽古に出ていた。

 兄弟子たちが十一歳の女児にかなりの手加減をしていたことをまるで知らない妹は、稽古の成果に上機嫌で、帰りしな自ら手を繋いできた。


 護衛なしで妹と出かけたのは初めてだった。いつも愛娘の庇護を二重三重にも張り巡らせている父が、十三歳の自分ひとりに妹を任せてくれたことが嬉しかった。

 加えて妹からのである。眞は気が大きくなっていた。

 だから帰り道、子どもたちだけでは近づかないよう言われていた、その橋の下を通ったのだった。


 日当たりが悪く晴れの日でも薄暗いその橋の下には、川べりに浮浪者や土左衛門がよく流れ着く。兄弟子にそう教えられたことを眞に思い出させたのは、まさに眼の前で使い捨てられた雑巾のごとく丸まった獣の死骸だった。

 妹を抱き寄せて恐る恐る覗き込むと、霜のおりた犬の躯に寄り添って子どもが丸まっていた。

 妹より三つ、いや四つばかり下だろうか。纏ったぼろ布にも痩せこけた肌にも、煤か垢か血かわからないどす黒い汚れがこびりついていた。

 眞はひと目で望みはないと思ったが、妹が駆け寄ろうとしたので仕方なく手を伸ばした。


 死んでいるのかと思うほど冷たい肢体。

 だがその心臓はたしかに、弱々しく鼓動していた。

 

 妹に泣きつかれ、ぼた雪にはせっつかれて、眞はふらつきながらも子どもをおぶって帰った。

 あたたかくした部屋で目覚めた男児は、まるで抱きついていた野良を親とするかのように産毛まで逆立てて、夜通し見守っていた眞たちに警戒をあらわにした。男児が年相応には人の言葉を話せること、しかしその生育環境が年相応の人の子の常とはあまりにかけ離れていたことを目の当たりにした当主ちちは、彼を家に囲うことを了承した。


 助けられた恩を感じているのか、男児は眞と妹の言うことだけはわりと素直にきいた。食事は眞の運んだものしか食べないし、妹とは毎晩添い寝をしても嫌がらないほどには気を許すようになった。

 しかし自らの過去のことは、今に至るまでほとんど黙ったままだ。

 本名についてもおなじく。彼の発する声自体が小さいので、眞はモンとしか聞き取れなかったのだった。


***



 ――大輪の寒梅のようにはっきりとした妹の口調に眞はまたはっとさせられる。


「ねえ、あなたのなまえ教えて」


 何度か袖を引かれた男児は呆としたままの表情で妹のほうに顔を向けた。妹は男児と同じように鼻の頭を赤らめながら、にっこり微笑みかける。


「わたしのなまえは知ってるでしょ? 織田てふちょう。みんなからはお嬢とかてふって呼ばれるよ」


 男児の重い瞼は今にも落ちきってしまいそうだ。妹は懸命に話しかける。


「わたしもあなたのことなまえで呼びたいの。もっとたくさん仲良くなりたいから。だから、教えて」


 そこで男児がくしゃみをした。眞はすかさず彼の背をさすり、門の中へと促す。


「寒いだろ、とにかくうちに入ろう」


 そう微笑みかけて強引に抱いた小さな肩は小刻みに震えていた。それでも男児の長靴は地面を頑なに捕らえて離さない。眞は羽織を脱いで彼の肩をくるみ、屈んで無表情を覗き込んだ。


「中で火鉢をたいてるよ。あったかいところ行こう」

「お腹すかない? シゲばあちゃんのあんころもち、とってもおいしいのよ! お雑煮もあるし、お善哉ぜんざいも。いっしょに食べようよ……」


 妹の可憐な声の震えを感じ取ったかのように、男児はまたくしゃみをした。鼻を啜りながらなおも彼は顔を上げる。その黒目にはやはり眞や妹ではなく、立派な三本竹が映っていた。

 くしゃみで血行が促進されたのだろうか、頬の赤みが増している。寒さのせいか揺れ潤む目に焼き付けるように、男児はしきりに瞬きをした。


 この一年、眞たちは彼に年相応の男子としての教育を授けてきたが、一般常識や教養作法は思うように定着していない。彼はこの正月飾りがなんたるかをまだ知らないのだ。


 眞には、極度の寒がりである彼が芯まで冷えながらも動かない理由が単なる興味関心に留まらないような気がした。

 ぼんやりと潤んだ瞳はまるで野生を捨て去れない猫又が人の生活に抱く憧憬、そして搗きたての餅を焼いたように強張った頬は、自分へ心を傾け続ける少女への戸惑いゆえの意固地を表しているようだ。


 沈黙がそのままふたりの会話に思えた。眞は寒さを堪えながら男児と妹両方の背中をさすった。

 みっつぶんの白い息は、こころなしか雪を誘うように安鈍と上っていった。


「……もしかして、わたしのこときらい?」


 妹の呟きは今にも泣きそうな空に吸い込まれる。


「あ、あのね、もしいやだったら、夜いっしょに寝るの、他の人でもいいよ。きくのさんに頼んであげるね」


 視線がもう男児とかち合わないだろうとわかった妹は何度も瞬きをした。


「頼んであげるから、は、話したくないなら、もう話しかけないから……なまえだけ教えてよ……」


 男児の肩の震えは、相変わらず体温調節のためだけだ。とうとう妹は俯いてしまった。

 まだ諦めたくなかったが、これ以上はふたりとも、そして自分も風邪を引いてしまう。両方の手のひらに感じる体温を抱きしめながら眞が凍える口を開きかけたその時、妹が涙とともに顔を上げた。


「なんでなんにも言ってくんないの、モンちゃんのばかぁ!」


 男児の体に力が入る。妹は兄の手も振り払い、大声で泣きながら着物の袂をはためかせ、家の中に入ってしまった。

 妹があんな風に泣くのを久々にみた眞はしばし呆気にとられた。はっとして見ると、男児もまた目を真ん丸にして玄関を見つめている。しかしその様子が表すものは眞と同じ驚きではない。


 充血した目はたしかに動揺しているのかもしれないが、そこに少女の残滓を見つけ出して離そうとしない、そんなあわれな視線だ。

 探しているのが声か、姿か、ぬくもりか、眞には捉えきれず、率直に思いついたことが口をついて出た。


「きみは、“モンちゃん”?」


 言った瞬間、自分が間抜けたことをきいているのだろうと思った眞は、男児の視線がこちらに向いたのでどきりとした。なにか言おうと息を吸ったときには彼の顎先はまたもとの角度に戻っていた。

 頭の回らない眞にかわって、震える唇がかすかに言葉を紡ぐ。


「……おれ、なまえ、ない」


 忘れていた冬の冷たさが肺の中を吹き抜けた。


 名づけられてすらいない、そんな環境に愛などあろうはずがない、それゆえの警戒心だった。

 生みの親を恋しく思う気持ちもなければ捨てられた憎しみを抱くこともない。男児にはかつて他人とのえにしを実感した経験がないのではないだろうか。


 彼の目に映っているのは三本竹の正月飾りだが、その心の在り処が眞にはわからない。

 呼吸さえ忘れ、唇をぎゅうと締め切ったその無言は、まるで震えるという行動だけに集中しているようだった。寒さだけを感じることで己の体温に身をやつし、そうして自分を守っているような。


 ――なにから? 誰から?

 彼はいま、なにをおそれているのか。

 ――ひとりきりで。

 彼はまだあの日の橋の下にいるというのか。

 彼はまたあの死の隣にいようというのか。


 手のひらの温度にすら溶けてしまいそうな姿に、触れることが躊躇われる。

 しかし手のひらの温度すら与えなければ、彼の心はもう二度と解けない気がした。

 

 思い返せば彼は自分の意志でこの屋敷に来たのではない。

 野良の手を引いてきたのは、死にかけの彼を生き返らせたのは、他ならぬこの自分ではないか。


 いま、彼にとって初めての出会いは、この正月飾りだけではないのだ。


 ならば自分のすべきことは、彼をなんと呼ぶか決めることではない。

 彼という人間はすでに、自分の隣で生きて居るのだから。


 動かないでいると寒い。だから眞は思い切ってしゃがみ込み、後ろから腕を回して男児の両肩を抱いた。

 男児が震えたのがわかったが、眞は男児とおなじところに視線を向けたまま、ただ呼吸をしていた。ぬくい火鉢に蒸された肺を冬の空気ですすぐように。そして手のひらからじんわりと伝わる男児の体温に寄り添うように。


 痩せた体は足の先まで固まっていたが、やがて自分のやや大仰な呼吸に男児のか細い呼吸が重なったのを感じ、眞は安堵した。すぐそばで見る男児のもちりとした頬はやや粉をふいていて、あとで天花粉を塗ってあげようと思った。

 ゆっくり男児とともに、鎮座する正月飾りを仰ぐ。ふたりの視界に同じものが映っていることが眞には嬉しくて、つい緊張感のない笑みがこぼれた。


「これはね、門松かどまつっていうなまえなんだよ」


 かどまつ、と、男児の唇がわずかに形を作った気がした。

 自分の声が届いている実感に手のひらがじんわりと発汗するのを感じて、眞は男児と門松とを交互に見る。


「年はじめに年神さまを呼ぶために、こうして家の前に置くんだ。幸福が迷わずやって来るための目印なんだよ」


 自分の言葉に納得させられるのは他ならぬ自分自身だ。眞は言葉をひとつひとつ噛みしめて男児に渡す。


「去年も置いてたんだ。そしたらきみが来てくれた」


 男児は無表情のまま眞を見た。鼻水が垂れていたので、眞は思わず声を出して笑う。

 掛けてやった羽織の裾で拭ってやると、反射的に目をつぶって猫のように身震いしたが、その続きで眞が頭に手を伸ばしても大人しくしていた。


 撫でながら、眞はふいに今しがた隠れてしまった妹のことを思い起こす。

 愛らしく快活で、なにより優しい二つ下の妹。最近は兄のこうした接触を鬱陶しがることが増えてきて寂しく思っていた。


 今撫でているこの頭は妹とは違う。

 性格も生い立ちも、これから歩むであろう道も、男児と妹はまったく異なる。男児は決して眞の弟ではないのだ。

 だがその頭はふたつとも、自分が撫でるべき位置にあると、汗ばむ眞の手のひらが確信していた。

 そのぬくもりは等しく愛おしいのだと、穏やかな眞の鼓動が確信していた。


 縁起の良い歳寒三友を配した、新年を祝う伝統の福かざり。毎年見慣れている眞にとってそれ以上の意味はないはずだった。

 しかしこの小さな男児が見惚れている、それだけで、この門松は眞にとって大切な存在に生まれ変わった。


 肩を抱きながらともに門松へと促すと、男児はよちよちと歩み寄って、それから指示を仰ぐように眞を見た。眞は真っ直ぐに起立する三本の竹柱を順に指し示す。


「このいちばん長い竹が僕。二番目に長いのがてふ。一番短いのがモンちゃん。“門松”は僕たちのことなんだよ、三人でひとつ、寄り添って生きてるんだ。てふは女の子だから守ってやらなきゃいけない、だからいちばん長い僕が、モンちゃんとてふを導く目印になる。決して倒れない支柱になる。だから、こわくなったら僕を見て。そしたら迷わずに帰ってこられる。きみはひとりじゃない。僕は、そしててふも、いつでもそばにいるんだよ」


 男児は口をぽかんと開けて眞を凝視していた。暑苦しかっただろうか、急に照れくさくなって眞は苦笑した。


 ――心身一体となり威厳を示せ、締まりのない顔をするな。

 人の命を護る家業を継ぐ者として、眞は周囲の大人から幾度となくそう注意されてきた。

 しかし眞には、いちど融けた雪がもとに戻らないように、緩んだこころを締めることがどうにも難しいことだった。


 じわり広がるぬくみがどこまでも広がってゆく、それが悪いことだと眞は思わない。

 あたたかくなれば花は咲き新緑が息吹き、蝶は舞い鯉が歌う。そしてそれらをもたらすのは熱く眩しい日輪と冷たい純白の雪解け水だ。

 それが自然のことわり。人も自然の輪にあれば、その心もまたことわりのうちに。眞はそう信じている。


 しかし、野生の修羅よりいでたこの男児においては、季節の巡りを待つよりもっと単純で絶対的な存在ことわりが必要だと思われた。

 人世の生易しい同情や慰めのぬくもりはともすれば彼を躓かせる小石になるやもしれない。家族やきょうだいという心の繋がりを拠り所にするためには、野良を抱いて眠っていたあの日の彼を一度殺さなければならない。

  

 大義ある家業を担う者として自分はまだまだ力不足だ。人生の精進はさらに上へ上へとゆかればならず、ことわりだからと心地よいぬくもりだけに浸かってはいられない。


 ――だからこそ、だからこそ。

 眞は自分に言い含める。


 自分の使命とは単に家業を継いで家と世の役に立つことではない。

 誰かの揺るぎない縁になること、それが眞にとっての“護る”ということだ。

 護るべき存在を強く胸に刻むことこそが、眞を導く縁となる。

 

 彼を殺さない。

 彼を生かしたのは自分だ。

 自分は、彼を生かしたのだ。

 彼を、彼として生かしていくのだ。


 そんな決意を秘めながら餅のような顔を眺めたとき、眞はまたも唐突に、笑い皺の濃いことを老けていると言い放った妹の珍妙な顔を思い出した。

 妹の毒舌はきっと愛ゆえなのだと分かっている、しかし今、眞はあえて胸を張って開き直る。

 老けることが悪いことだとだれが決めたのだろうか。

 刻まれた皺はこの身が生きてきた証だ。

 この心が動いている証だ。


 眞は自分のできうる最高ので男児に挑んだ。

 

「僕は、織田しん。きみのあるじだ」


 男児の黒い目に映るもの、網膜の奥に焼き付くみっつの竹柱、そしてそれを温めるように覆う老け顔の少年。

 薄い唇にはふたたび血が巡っていた。


「……あるじ……てふ……かどまつ……」


 確かに零れた真白が、降り出した粉雪の中を眞の吐いた呼気に寄ってきて融けた。

 眞はそれが、歳寒に抱かれた仔猫がまどろみの河淵から陸へと踏み出した軌跡のように思えた。



 ――そのときの男児を、眞は生涯忘れないだろうと思った。


 彼がはじめて見せたその表情を、妹ではなく自分が独り占めしたことが、いやしくもしあわせだと思った。



 ***



「まつ、半殺しはしたかえ」


 老婆のダミ声に、撞いた餅をお鏡用にこねくり回していた門松かどまつの顔が強張った。彼は鼻の頭に粉をつけて、大声でてふを呼ぶ。


「お嬢、ばあちゃんがついにボケたぁ」

「おはぎのことよ、モンちゃん」


 竈門で豚汁を炊いていたてふが答えて、その場にいた女衆が和やかに笑う。門松は両頬で餅を再現した。

 どの家でも餅つきは年の瀬の恒例行事だが、今年の織田分家は懇ろにしている旧家の服部家と合同で行うことになったのだ。


「あんころ餅とおはぎってどうちがうのぉ」

「皆殺しにするか半殺しにするかじゃあて」

「お嬢ぉ、やっぱりばあちゃんボケてるよぉ」


 喚く門松の背中をシゲ婆は呵々として叩き、門松は顔だけでなく半纏までも粉まみれになってむせた。

 餅を撞き終えた臼と杵に温水をかけながら、眞は賑わしい様子を微笑みながら眺めていた。


 ――ふたりで正月飾りを見上げたあの日。大人しく家に入った彼は、おそらく人生で初めて餅という食べ物を口にした。

 野生にはほとんど類似する食感のないその屈強な弾力を、彼の歯や舌はどう処理すべきかわからなかったようだ。喉に詰まらせ、織田家は正月早々医者を呼んだ。

 それから五年たった今でも、門松は餅を敵とみなしている。

 


 一枚板の餅を鏡餅用と雑煮用に切り出し、端くずたちはあたたかいうちに味をまぶして、その場で豚汁とともにいただく。

 ずらりと並んだ餅の大軍に唇を突き出して嫌悪を剥き出しにする門松にシゲ婆の喝が飛ぶ。


「そんだら、まつ、でけたもん右から言うてみい」


 門松は緩やかに上がった広角をさらに不敵に吊り上げた。右端の大皿から順に素早く指さしていく。


「きなこ。おろし。ずんだ。あんこ。おみそ。しょうゆ。やきのり。くろまめ。いよちゃん。かよちゃん。きよちゃん」

「まっ、門松さん、あたしたちも食べちゃうの?」

「だってぇ、きよちゃんむちむちだから、やらかくて美味しそうだもん」

「まっ、やだ、門松さんたら!」

「紀代、はしたないわよ」

「伊代の言うとおりよ」

「モンちゃんもへんなこと言わないで」

「いいじゃない、あたし初めてお会いするんだもん、こんなステキな殿方!」

「お嬢、とのがたってなに?」

「俺たちのことだぜ、なあモン太!」


 力仕事を終えた分家の若衆たちが門松の肩を抱く。黄色い声で騒いでいた服部家の女中たちは台所へ引っ込む。肴と酒が用意され、宴会が始まった。


 道場で鍛え上げられた筋骨隆々な男たちと比べれば、門松はまだ殿より丁稚だと言わざるを得ない。しかしこの五年で彼は心身ともに見違えるほど成長した。

 一般常識とずれた言動は減らないものの、よく笑い、よく動き、人懐っこくなった。あの男児がこうして大勢の人びとに囲まれている光景が見られることに、眞は感動していた。


 彼の心が完全に癒えたわけでないことはもちろん承知しているし、いつかどこかで歪みが表面化してしまわないかという危惧は常につき纏う。

 だがこの五年で成長したのは門松だけではないのだ。

 宴会の輪から離れ、ひとり縁側から沓脱石に腰掛けて緑茶を啜る。

 そんな兄に妹が声をかけた。


「お兄ちゃん、清香さやかさん、こっちに来るって」

「えっ!」


 眞はあやうく湯呑みを落としかけた。その名に反応した心臓の高鳴りを悟られないよう、慌てて返す。


「よ、慶志よしくんはいないだろうね?!」


 妹は困ったように笑った。


「弟さんも来るみたいだけど、わたしはモンちゃんと一緒だからなにもないわよ。わたしより自分のこと考えて。今からちゃんとアピールしておかなきゃ婚約破棄されちゃうわよ、お兄ちゃん冴えないんだから」

「うう……」

「おじょー! さけがぁたりないぞぉーー!!」

 

 眞が余裕のある返しを思いつく前に、門松の楽しそうな声が飛んできて、妹はため息を残して庭先へと戻っていった。

 十七になった妹は女学校に通っている。彼女もまた、兄の恋路を思いやるほどの心美しい女性に成長した。いつ縁談が来るのかと眞は気が気でないが、本人は当面その気がないようだ。

 門松は若衆にしこたま飲まされているようだ。餅の種類を覚えたり、酔いつぶれたり、彼にはこれからの人生でもっとたくさんの経験が待っているのだろう。


 嫡男である眞は来年成人を迎えると同時に家督を継ぎ、その後の婚姻相手まで決まっている。代々利権や立場に関心の薄い分家だが、その存在意義とは本家の繁栄を支えることに他ならない。そんな中で、政略結婚の相手がかねてより好意を寄せていた女性だったことは稀有な幸運だ。


 自分が一人前の男としてこれから成すべきこと、それはひたむきな決意やがむしゃらな努力だけに留まってはいけない。

 あの正月の日、男児へ伝えたことに嘘偽りではない。しかし自分にとっての“”は、やがて妹や拾いものの少年ではなくなるのだ。

 認めたくないが妹にも、認めたくないがこれから先、自分に代わる存在ができる……そう、門松にだって、きっと。


 それぞれが、やがて誰かのしるべとなっていく。守られるものから守るものになり、そして受け継がれてゆく。

 だから、三人が永遠にいっしょにいることはできないのだ。

 

 そのことを門松に教えなければならない。迷う彼を屋敷に引き入れたあのとき自らが口にしたことを、覆さなければ。

 彼はもうかつての男児ではない、そう信じれば伝える勇気も伝わる期待も湧いてくる。そのはずなのに、怖がっている自分がいた。

 思い返せばあの時の眞は家業を担う者として新たな一歩を踏み出したばかりだった。跡取りとしての自覚と自惚れを混同していたのは事実だ。

 

 向き合うのが怖い。踏み出すのが怖い。

 そんなときどうすればいいと自分は彼に言っただろうか。


 ……そうだ。

 だからこそ。だからこそ。



 目尻にまで皺の寄るようになった顔がよく見えるように、眞はずり落ちる丸眼鏡を定位置に直す。

 そんな眞に門松が気づく。

 眞の目に映る、酔いに赤らんだ彼の顔が、あのときと同じ顔をしているような気がした。




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