【SFショートストーリー】数式に宿る感情、ユリイカの最後の問い

藍埜佑(あいのたすく)

【SFショートストーリー】数式に宿る感情、ユリイカの最後の問い

 空には、常に一つの大きな問いが存在していた。

 問いとは言うものの、それは言葉として表されることを拒むような性質のものだった。時には輝く星の一つのように見え、時には眺める者によってその形や意味が変わる。

 私の名前はレイ。

 私はこの都市の記憶を管理する者である。

 都市記憶庫は、万人の記憶を集積し、それを必要とする者に貸し出す場所だ。あなたが忘れてしまった初恋の相手の顔、彼らが失った大切な伝統の儀式、私が探していた理論の答え。すべてはここにある。

 今日、私は新しい問いを記憶庫に登録する必要がある。それは「感情は数式で表現できるのか?」というものだ。

 この問いは、一人の数学者が彼の人生の終わりの近くに達した時に、最後に残された問題だった。

 数学者の名はユリイカ。

 彼は数々の論文と定理をこの社会に遺した。

 彼は感情そのものが、もしかしたら宇宙の基本的な性質の一つであり、星々の動きと同じように数学的原理に基づいているのではないかと考えた。

 彼が残した最後の式は、人々の心を理解しようとする試みの集大成だった。

 私はその式と向き合う。モニターに映し出される数百、数千の数字と記号が、踊るように私の意識の中を流れる。


 この式が意味するものはなんだろうか。


 感情を数学的に定義することができたら、私たちはもっと多くを理解できるのだろうか。

 それは錯綜する感情の渦を計算しようとする、無謀とも言える試みだ。

 だがもし、喜びや悲しみ、愛や恐れが数式で解析できたとして、それが人間の実体験とどう繋がるのだろうか。思い出を彩る色彩は、数字の並びで再現できるのか。感情の背後にある論理を理解することは、私たちが人間であることへの理解を深めるのだろうか。

 私は手を伸ばし、式の中に浮かぶ一つの変数を選び出す。

 そこには「愛」と書かれていた。愛――それは人生における最も複雑で、最も単純な力。数学者はこの変数にどのような値を当てはめたのだろう。

 誰かが愛を失ったとき、その欠損を数値で表すことができるのか。

 私の思索は途切れ、突然、記憶庫の外から奇妙な振動が伝わってきた。まるで空自体が問い掛けを変え、新たな答えを求めるかのように。

 私は立ち上がり、外の世界へと向かう。空から降り注ぐ星々の光が、今宵もまた、無数の問いを私たちに投げかけてくる。

「感情が数式であれば、この星の輝きは一体何を意味するのか?」

 都市の空は肌寒いけれども、星の光には温かいものを感じる。

 都市は息づき、記憶は流れる。

 私の足は、無意識のうちに、ユリイカが最後に見たであろう星空へと向かっていた。

 その地には、彼の全ての疑問が、そして、おそらく私の答えが待っている。

 星空は、無言の旋律を奏でるように、冷たい宇宙の言葉を織り成している。

 都市の光が失われても、その言葉は失われることはない。私たちは普段、その静寂に耳を貸そうとはしない。

 しかし今夜、私はそれを聴こうと決めた。

 ユリイカの問いは、まさにそれを目指していたのかもしれない。

 記憶庫を背にして、私は古い雑木林の小径を進む。林の中は暗く、星の光が流れるように道を照らす。足元の土は湿っており、木々は時間をかけて成長した証のように深く息をし、その息吹は、次第に私の心を静めていく。

 ユリイカの公式が可能とする世界であれば、木々の生命力は計量可能なのだろう。それは私たち自身の生命のリズムと同調し、感情の波動と一体となり、形を成していく。その一体感こそが、私たちが宇宙と対話する方法ではないか。

 空は、黙示録的な美しさを秘めたアートのようなものだと、私はいつも思う。星々は真実を告げるシンボルであり、その光は過去と現在、そして未来への橋渡しをしている。ユリイカが生前に追い求めた「愛」の変数も、この星々の間で無数の数値を刻んでいるのだ。

 そして、私はユリイカが最後の夜を過ごしたであろう場所に立った。

 ここから彼は何を見たのだろう? 

 数式で語られる感情は、ここから眺める星々のように明瞭だったのだろうか?

 ちらほらと周囲の家々からは光が漏れ、人々の生活が垣間見える。

 それぞれの家庭で繰り広げられる喜び、悲しみ、驚き、怒り…….もし本当に感情が数式で表せるなら、それは膨大な変数とデータの海であり、その解読は一人一人に異なる手がかりを与えるだろう。

 私は自問する。ユリイカのように計算しようとすることなく、感情をただ感じることの方に価値があるのではないのか。計算された愛は真実の愛なのか?

 星の光に導かれながら私は手を伸ばし、何か触れるような錯覚を覚える。そこには言葉遊びはなく、論理的なストーリーもない。

 ただ、混沌とした真実があり、それは言葉にするにはあまりにも複雑で、美しい。

 数式では解決できない問いは星の中に紛れている。感情は宇宙の言葉であり、私たちの心はその翻訳機なのかもしれない。

 そして今、私はその言葉を理解しようとする数学者の孤独を、心の底から感じていた。

 空が明るくなり始めると、星々は徐々にその輝きを失い始める。新たな日は無言の問いを封じ込め、光と影の新鮮な物語を始める。それは恒星と同じように、また改めて問われるだろう。

 感情は数式で語られるのか、それとも感情そのものがこの宇宙の語り部なのか。

 私は再び歩き始める。

 記憶庫へと戻る道の途中で、私は不意に理解する。


 問い続けること。

 それが答えであることを。


 そしておそらく、感情とは計量できない、人生の不確定な星座図だということを。


(了)

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