またね

 僕が黙れば、二人きりの廊下にはしんとした静寂が満ちた。いつの間にか窓の外の夕焼けは薄まり夜が訪れようとしている。

 もうすぐ今日が終わる。

「間淵くん」

「はい」

「ひとついいですか」

「なんでしょう」

「やっぱキミは行間くらいがちょうどいいかも」

「えっ⁉」

 やばい。やっぱり気持ち悪いって思われてる。

 そこで僕はまだ彼女の手首を掴んだままだったと気が付いた。今更ながらその細さに驚く。

「あ、ごめん」

「あ、ちがくて」

 思わず手を離す。そのまま彼女の手首は元の位置に戻らなかった。

 彼女の細い指先が僕の指先をそっとつまむ。

 胸が跳ねて、顔がさらに燃え上がるように熱くなった。

「……えっと」

 珍しく彼女が言葉を探していた。僕は呆気に取られたまま指先の温度を感じている。

「私は明日で引っ越しちゃうけどさ、よかったらまた会おうよ。春休みとか」

 たどたどしく紡がれる言葉が僕の耳に届く。夕陽はすっかり沈みきったのに、彼女の頬にその色は残っていた。

「私も興味、なくもないから」

 チャイムの音が鳴り響いた。

 人のいない廊下にそれはやけに大きく響き、僕たちは「わっ」と驚いて手を離す。

「もう完全下校だね」

「みたいだな」

 あと十五分で校門が閉まってしまう。

 いこっか、と白水は再び歩き出した。僕は顔に熱を残したまま彼女の右隣に並ぶ。

「そういえばあのカフェ、春限定スイーツ出すんだって」

「え、なにその大スクープ」

「次のネタのために食べてみなきゃな」

「男子ひとりじゃ入りにくいよね?」

「あとでメールする」

「うん。待ってる」

 他愛ないことを話しているうちに僕たちは校門に辿り着いていた。

 外はもう真っ暗で、ぽつぽつと並ぶ街灯が夜を照らしている。

「じゃあ、またね・・・・

 白水は右手を小さく上げて微笑んだ。

 いつもと変わらないはずの彼女の台詞。その隣に何かが見えた気がして、僕は言葉に詰まる。

「あれ、聞こえてる?」

「え、ああ」

「ちょっとちょっと。メール忘れないでよー?」

 不安そうにこちらを覗き込む彼女を見て、思わず笑いが零れた。

 そうだ。もう知ってる。僕の世界ではそうなってるだけ。

 彼女の世界にはルビが入り込む隙間なんてない。

「うん。春もよろしく」

 僕が手を上げて応えると、白水は満面の笑みを浮かべた。月より眩しいその笑顔を、僕は必死に両目に焼き付ける。

 そして彼女はくるりと前を向いて歩き出した。僕は静かにそれを見送る。

 小さくなった後ろ姿が一度だけ、夜の真ん中でぴょんと跳ねた。



(了)

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右にさよなら、左にまたね 池田春哉 @ikedaharukana

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