見上げれば降るかもしれない

尾八原ジュージ

年をとらない女の話

 生まれ故郷のことなんてほとんど忘れてしまった。ちょっとだけ覚えているのは雨の日がとても多かったこと、母が着ていた毛皮のコート、住んでいた家の日当たりがとても悪くて、年中寒かったこと。

 わたしが日本に渡ってきてから、百年以上が経った。

 都会へいくとそうでもないけど、日本の地方都市に西洋人はあまり多くない。見慣れない人種の年齢はわかりにくいもので、わたしのようなものでも「あの人全然年をとらないわね」なんて怪しまれることは少なく、一箇所にわりと長い間住んでいられる。

 だからわたしは、比較的のんびりしたテンポで、そういう土地を転々とし続けている。引っ越して新しい生活基盤を得ることは、何度経験しても面倒なものだ。


 わたしは今、中学校で美術の講師をしている。

 こないだ「英語が苦手だ」と言ったら、生徒に笑われてしまった。「えま先生、顔は外国人なのに」だって。もう百年以上里帰りしてないんだから、仕方ない。

 住んだ年数を考えると、この街もそろそろ潮時だ。でもここを去るのは、せめて三宅さんが卒業した後にしよう。彼女の絵を眺めながらそう思った。

 中学三年生にしてはかなり上手い。志望する高校には美術専門のコースがあり、彼女ならたぶん合格するだろう。わたしが一応顧問をつとめる美術部はかなりユルい部活だけど、それでも三宅さんだけは毎日美術室にやってくる。

「えま先生、なんで絵の先生になったの?」

 なんて、十代の少女にきらきらした瞳で尋ねられると、わたしは少しぎょっとしてしまう。不死者ゆえに嘘をつきながら渡ってきた人生を見透かされてしまいそうな気がして、不安になるのだ。

 なんでだっけ? 元々好きではあった。

なにしろ時間だけはあるから、続けていれば大抵のことは結構うまくなる。普通の人が七、八十年しかできないことを、わたしは百年でも二百年でも続けていられる。

「昔のことすぎて忘れちゃった」

 嘘をつくのがしのびなくて、正直に答えてみた。

「えーっ、そんな昔じゃなくないですか?」

 三宅さんは大きな目を細めて笑った。

「そういう三宅さんは、なんで絵を描くようになったの」

 わたしが聞き返すと、三宅さんはぱちぱちと瞬きをして「伯父さんの影響かなぁ」と呟いた。

「いちおう画家なんですよね」

「へぇ」

 彼女が描いたデッサンは瞬く間に棚の一部を占領し、「捨てていいですよ」と言われたけどわたしは却下した。

「比較すると面白いよ。ほら、すごく上達したじゃない。見たままを描くのってとても難しくて面倒なのに、よくがんばってるね」

 そう言いながら、わたしはモデルになったボックスティッシュと三宅さんの描いた絵を見比べる。三宅さんは照れくさそうに笑いながら、でも見てないものは描けないんですよね、と答えた。

「見てないものって?」

「龍とか、ペガサスとか、絶世の美女とか」

「絶世の美女かぁ。そいつは難しいね」

 世界は広いし、いろんな価値観の人がいるものだ。あのミロのビーナスにだって、美しいと思わない人はいるだろう。


 その日美術室にやってきた三宅さんは、いつもより少し暗い顔をしていた。

「えま先生~、駄目だよ。全然合格が出ない」

「合格? なんの?」

 わたしが尋ねると、三宅さんは「伯父さんの」と答えた。

「若い頃に、すっごい綺麗なひとと付き合ってたんだって。そのひとをもう一度見てみたいっていうから色々描いて見せてるんですけど、全っ然だめ」

「きびしいねぇ」

 そんなことして奥さまが嫌がったりしないのかしら、と思ったら、その伯父さんとやらはずっと独身を貫いているらしい。まぁ、昔の恋人の面影を追い続けている男とは、わたしも結婚したいと思わない。

「それで三宅さんは、こないだ『見てないものは描けない』とか話してたわけだ。絶世の美女」

「そうです」

「写真とか残ってないの?」

「相手の人が嫌がったらしくて」

 そりゃ困ったね、と言うと、三宅さんも苦笑する。「とにかく美人で、外国の人だったらしいけど、伯父さんって全然参考にならない話ばっかりするの。そのひと、すっごい雨女だったんだって」

「へぇ」

「外に出て空を見上げると、雨が降ったり雪が降ったりするって」

「はは、それわたしじゃん」

 わたしも雨女だ。どんなに記憶が失われても、生まれ故郷の空だけは目の奥に染みついているらしく、空を見上げるとそれを鏡で映したように雲が集まってきてしまう。だから空はあまり見ないようにしている。魔法という程のものではないが、長く生きているとこういうことは起こりがちだ。

「うっそぉ」

 三宅さんはわたしの言葉を聞いて笑う。

「まぁ確かに、えま先生は美人だけどさぁ。付き合ってたのってもう三十年くらい前の話らしいよ。先生、産まれてなくない?」

「三十年くらい前かぁ……伯父さん、もしかして静岡県に住んでた?」

「どうだったかな、急にどしたん?」

 雨女、三宅という名字、絵描きの男――忘れかけていた記憶が蘇ってくる。驚きと感傷を顔に出さないように気をつけながら、わたしは彼のことを思い出そうとする。


 確かにあれは、三十年くらい前のことだったかもしれない。

 富士山が大きく見える小さな町で、若い絵描きとアトリエを共有しながら、一年くらい一緒に暮らしたことがある。その彼から結婚したいと言われたのを断って、それがきっかけで破局した。ついでにわたしはその土地を去り、二度と会うことはなかった。

 本当にあのひとだろうか、こんなわたしのことをまだ覚えているのかと思ったら、彼のことがいじらしく思えた。

「伯父さんの名前って三宅康史さん? それわたしの……叔母かもしんない。伯父さんの恋人だったひとって」

「うそっ」

 三宅さんの目が、大きく見開かれた。

「叔母もむかし静岡に住んでて、超雨女で、写真大嫌いだった。……もう亡くなってるけど」

 いやだな、と思いながら嘘をついた。三宅さんのぴかぴかの目が曇る。

「そっか、残念です。最後に顔だけでも見せてあげられないかなって思ったんだけど」

 三宅さんの伯父さんは――康史さんは、病でもう長くないという。


 いやなものだ。嘘ばかりついて、あちこち渡り歩いて暮らすというものは。

 遠くに捨ててきたつもりの嘘と、三十年越しに再会するのは、心の痛むことだ。

 そう思いながらも、康史さんに会いに行ったのはどういう心境だったのか。何百年生きても、自分の心なんてわかるものじゃない。

 ベッドに寝ていた男性は年老いて窶れ、わたしにはむかし彼がどんな顔だったか、思い出すことができなかった。でも康史さんは目を見開いて、三宅さんと一緒に病室を訪れたわたしのことを、「リサ」と昔名乗っていた名前で呼んだ。

「わたしは彼女の姪です。叔母は――」

 用意してきた嘘のストーリーを語ると、康史さんはそれを嬉しそうに聞いてくれた。

 もう余命わずかなひとだもの、真実を告げたっていいかもしれない――ふとそう思った。でも、やっぱり話さなかった。

「ありがとう。リサさんに本当にそっくりだ。最期に会えてよかった」

 康史さんはそう言って喜んでくれたのだから、真実なんかどうだっていい。

「伯父さん、えま先生もすごい雨女なんだって」

 三宅さんがそう言うと、康史さんは懐かしそうな笑みを浮かべる。

「そうなんですか。本当に叔母様にそっくりですね」

「変なところまで似てしまいました」

「リサさんは凄かったな。彼女が空を見ると途端に雲が出てきてね」

「ふふふ」

 わたしは笑いながらふと、病室の窓の外を見た。最近すっかり空を見上げなくなったから、効果が薄れてしまったかもしれない。そんなことを考えながら上を見た。

 途端に脳裏に蘇る、生まれ故郷のどんよりと曇った空。容赦なく冷たい空気。母の毛皮のコート。

「うそ、ほんとに降ってきた」

 三宅さんが声を上げた。

 冬らしい曇天から、鳥の羽根のような雪が次々に落ちてきた。


 生まれ故郷のことなんてほとんど忘れてしまった。転々としてきた街のことも、あまり思い出せない。

 でも康史さんと暮らした土地の、温暖で過ごしやすかったこと。小さな借家。硬くて温かい手。記憶というのは、完全には消えないものだ。

「えま先生に合格とられちゃったな」

 病院から駅に向かうシャトルバスの中で、冗談めかして言う三宅さんと笑いながら、わたしは胸が痛むのを隠している。今度こそ、康史さんと会うことは二度とないだろう。

 十二月の街に雪が降る。

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