第3話 尾行


 あの綾瀬千晶が、清廉なイメージで国民的人気を誇る俳優、柏木陽斗と密かに恋仲にあるとの噂が、ゴシップ誌の編集部に舞い込んできた。


 この情報は、そこにいる誰よりも佐藤の心を揺さぶった。


 胸の奥で煮えたぎる感情を、嫉妬と認める前に、彼は一度、深呼吸をして冷静さを取り戻した。


「俺が確かめてくる」

佐藤は告げた。


 それは、ただの職務以上のものだった。


 彼にとって、これは単なるスクープ探しではなく、過去の自分との闘いでもあった。


 綾瀬千晶の日常を探ることで、彼女がイタズラの犯人であり、一流女優が記者を監視するというような荒唐無稽なシナリオを払拭することができるかもしれない。



 日が沈み、街の灯りが一斉に点き始めた夜、佐藤は綾瀬千晶の高級マンションの外で、ひたすら彼女の姿を待った。


 彼のカメラは、一晩中の張り込みのために準備万端だった。


 しかし、千晶が現れることはなかった。



 彼は次の日も、同じ場所で待った。


 やがて彼女は、黒のセダンに乗り込み、街中を抜けて柏木陽斗が住む高級住宅地へと向かった。



 佐藤は距離を保ちながら、尾行を続けた。


 彼女の車が停まり、柏木陽斗の豪邸へと小道を歩き始めるのを見て、佐藤は息をのんだ。


 しかし、千晶は門をくぐることなく、隣の家へと進んだ。


 彼女は、そこの庭師に微笑みながら声をかけ、彼から花の鉢を受け取り、そのまま引き返していった。


 柏木陽斗との関係などない。


 彼女は、ただの隣人だったのだ。


 この成果に安堵してしまう自分を、佐藤は恐れた。


 綾瀬千晶に、ストーカー行為を働いているわけではない。


 彼は、ただ仕事で事実を追っているだけだ。


 だが、つかんだ事実が彼の心に残した影響は複雑だった。


 彼は自身の精神状態と向き合わざるを得なくなり、過去の亡霊との距離を、再び計ることになった。


 仕事の目的は果たされたが、彼の心の平穏は、まだ遠い道のりであることを痛感していた。


 これは仕事だと、佐藤は自らに言い聞かせる。


 綾瀬千晶に、個人的な関心はないのだ。


 しかし、それはただの自己暗示で、千晶と柏木のツーショットが撮れないことに、胸の奥でホッとしている。


 それは、彼のプロとしての誇りに反する感情だった。



 朝霞が街を包む頃、佐藤は早くも彼女の高級マンションの前に姿を現す。


 時には樹木の影に隠れ、時には新聞を広げて見えないふりをする。


 彼のカメラは、常に千晶と柏木の姿を捉える準備ができていたが、シャッターを切る理由はなかった。



 日が経つにつれ、彼は彼女の生活パターンを読み解いていった。


 朝のランニング。週に何度かの食料品の買い出し。週末の静かなカフェでの読書。


 しかし、いつも彼女は一人だった。柏木の姿は、どこにも見えない。



 佐藤は、その繰り返しの中で、千晶の日常の細部に心を奪われていった。


 彼女が笑うときの目尻の小さなしわ。読書中に見せる、集中した表情。老婦人を手伝って歩道橋を渡る、彼女の優しさ。



 そしてある日、佐藤は自問した。


 自分は、本当にスクープを求めているのだろうか。


 彼は、その答えを避けたが、スクープがないことの不思議な安堵感は、日に日に強くなっていった。


 仕事を通じて千晶を知ることが、彼にとっての安らぎとなるのだ。



 佐藤が綾瀬千晶を尾行して、数週間が経った。


 長年の取材経験を持つ彼にとっても、これほどまでに無傷で尾行を続けられるのは、異例の事態だった。


 一般人であればともかく、注目の的である彼女が、全く気づかないなど、ありえない話だ。


 緊張感に身が引き締まる一方で、心の奥底では、ある種の疑念が渦巻いていた。


 千晶が、自分の尾行を分かっている。


 そんな妄想に近い考えが、佐藤の意識を徐々に覆っていた。


 もしそうだとしたら彼女は、なぜ佐藤に気づかないフリをするのか。


 この疑問が彼の中で膨らむほど、ストーカー時代の不安が彼を苦しめる。


 計画は、簡単だった。


 千晶が頻繁に訪れるカフェに先回りし、意図的に視界に入る席に座る。


 彼女が反応を見せるかどうか、その様子を窺うことで、彼の疑惑に答えが出る。



 佐藤は、カフェのガラス窓から漏れる日差しを浴びながら、一番目立つ席に腰を下ろした。


 周りは、ゆったりとした時間が流れる空間で、カプチーノの甘い香りが漂う。


 彼の目は、入口に固定されていた。


 そして、予定通りに千晶が現れた。


 店内に彼女の姿が溶け込むと、佐藤は心拍数の上昇を感じた。


 千晶は彼を一瞥もせず、お気に入りの席へと向かった。


 彼女の態度には、いつも通りの落ち着きがあり、何かに気づいたような素振りは微塵もなかった。


 彼女はメニューを手に取り、いつものように注文をした。


 佐藤は、彼女がスマホを取り出して操作するのを見ながら、自らの緊張を解そうと試みた。


 そして、彼のポケットの中でスマホが震えた。


 綾瀬千晶に関する情報を収集するために作成した、偽のSNSアカウントからの通知だった。


 息を呑みながらメッセージを開くと、そこには予期せぬ言葉が綴られていた。


お仕事、お疲れ様


 そのメッセージは、彼の中での憶測を一気に現実へと引き寄せた。


 佐藤はスマホの画面と、カフェの中で読書に耽る千晶の姿を、交互に見つめた。


 彼の中で、何かが変わり始めた。


 椅子から立ち上がると、佐藤の心臓は鼓動を早めた。


 千晶に話しかければ、全てが分かる。


 それは彼女との新しい関係の始まりかもしれないが、彼の危険な過去との再会になる恐れもある。



 彼は彼女の席には向かわず、店を出ることを選んだ。


 夕日が街をオレンジ色に染める中、彼は街を歩き始めた。


 お弁当を食べる子どもが、最後の楽しみをとっておくように、千晶との可能性を心の隅に留めておくことにしたのだ。



「佐藤?」


 突然の声に、佐藤は我に返った。


 彼の前に立っていたのは、大学時代の友人だった。


 顔を見るなり、その友人は笑顔で、今夜の飲み会への誘いを投げかけた。


 彼との再会は予期せぬものだったが、佐藤にとっては救いの手のように感じられた。



 バーの照明は柔らかく、二人の間を流れる会話も、ゆったりとしたものだった。


 佐藤は、綾瀬千晶とのことは隠すように心がけたが、口を開くたびに彼女の名前が喉元まで出てくる。


 そして、友人からの予期せぬ一言が、彼の防壁を打ち破った。


「お前、昼間、あの頃の目つきで歩いてたぞ。何かあったのか?」


 友人の言葉は、深い懸念を含んでいた。


 彼は、佐藤がストーカーとして暗い道を歩んでいた時期を知る、数少ない人物の一人だった。


 そのときの佐藤を放っておかず、支えてくれたのだ。


 その瞬間、佐藤は目を逸らしてきた真実と向き合った。


 彼は明るい冗談で、友人を安心させる。


 友人の一言が、佐藤を転落の一歩手前で救ってくれたのだった。



 佐藤は強い心で、綾瀬千晶から目を逸らした。


 SNSアカウントへの謎のメッセージを無視して、彼女の尾行もやめた。


 それは彼にとって敗北感とも、ある種の解放感とも似た心境だった。


 そして、柏木陽斗の動向に焦点を移すことで、彼は自らの執着から距離を置くことができた。



 柏木に関するリサーチを進めるうちに、佐藤は彼の普段は見せない一面を知ることになった。


 ある情報源から得た手がかりを頼りに、彼は柏木の本当の恋人の存在を確かめることに成功した。


 彼女は柏木を、ひっそりと支え続けている、平凡な女性だった。


 一般人であるため、報道の対象にはならない。


 メディアの不文律で、その存在は黙認されていたのだ。


 佐藤は心のどこかで安堵し、そんな自分に不安を感じた。



 彼の世界は一時の静けさに包まれたが、その静寂を打ち破るように、予期せぬニュースが飛び込んできた。


 綾瀬千晶と柏木陽斗の熱愛が、競合誌によって報じられたのだ。

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