第5話 嘘の暴走
閉店間際の喫茶店で、佐藤は人目を避けるようにして、真柴沙織と向かい合って座った。この女性は、彼が記事で創り上げた虚構の恋愛物語には存在しない、現実の影である。世間は、綾瀬千晶と柏木陽斗のラブストーリーに夢中で、沙織の名前は決して、その輝かしい表紙を飾ることはなかった。
沙織の眼差しは一点の輝きもなく、普段は見せないはずの弱さが、そこにはあった。芸能人の輝かしい光に隠れ、常に影にいる彼女の姿は、誰かの愛する人でありながらも、世間の無関心によって形成された寂寞として、佐藤の目に映った。
「千晶さんと柏木さんの話題が世の中を駆け巡っているけれど、本当は私が……」
彼女の声は小さく震えていた。「私は、ただの一般人。千晶さんのように輝けるわけでもないし、公の場で恋人として認められることもない。でも、この嘘が続く限り、私は……」
彼女は言葉を飲み込むと、深いため息をついた。彼女の苦悩は、明白だ。一般人である彼女にとって、芸能界の壮大なスケールの恋愛報道は、耐え難い嫉妬と自己否定を引き起こすものだった。
佐藤は、沙織の言葉に心を痛めた。彼の記事が、真実を覆い隠していることに対する罪悪感は、沙織の言葉を通じて、より鮮明になった。佐藤は、その重みを改めて感じた。そして、自分の果たすべき役割についても考えた。もしかすると、彼女の存在が、自分が心に抱えているモヤモヤしたものを、解消する糸口になるかもしれない。
深夜の街灯が唯一の目撃者となり、沙織は一人で柏木家の門をくぐった。彼女の心は重く、佐藤の提案を、どう伝えるかで満ち溢れていた。彼女が帰宅すると柏木は、すでにリビングで彼女を待っていた。空気は、話し合う前から既に緊張で張り詰めていた。
沙織は勇気を振り絞り、佐藤の提案した計画を柏木に伝えた。
「みんなが信じている、あの恋愛記事。あれを公の場で否定して欲しいの。それから、私たちの関係を……」
彼女の言葉は、柏木にとっては不意打ちだった。柏木の目には、綾瀬千晶との噂は彼のキャリアにおける戦略的なステップであり、沙織との関係は、その影響圏外にあった。
柏木は沙織の言葉を遮るように、現実の厳しさを突きつけた。「人気なんて、いつ終わるか分からないんだ!」
彼は冷たい声で続けた。「この話題が、俺のステータスを上げている。理解してくれ」
沙織は反論しようとしたが、柏木は言い捨てた。「嫌なら、別れるしかない」
その言葉は沙織の心に突き刺さり、涙が溢れて止まらなかった。彼女の中で溢れる感情は、悲しみ、絶望、そして無力感が混ざり合っていた。彼女にとって柏木は、ただの恋人以上の存在だったが、柏木は沙織を、彼の華やかな生活の一部を成すものとしか見ていないようだった。沙織の涙は、その夜、彼らの豪華なリビングの床を濡らした。
夜も更けていく中、佐藤はキーボードに指を走らせていた。沙織からの電話があり、柏木との話が決裂したことを聞いた。次の日、沙織と再会したら、彼女の目には涙が残っていた。佐藤は彼女に対し、自分が綾瀬千晶と柏木陽斗の破局記事を書くと約束した。その言葉に、沙織の表情は少し明るさを取り戻した。
編集部では、佐藤の提案に議論が巻き起こったが、彼の書く記事にかける情熱に触れ、最終的には編集長がうなずいた。佐藤はキーボードを叩く手を休めず、綾瀬と柏木の破局を、どのようにして面白く、そして説得力を持たせるかに苦慮した。
完成した記事は、彼のこれまでの作品とは一味違った。嘘から始まり嘘で終わる恋の皮肉を描き出し、週刊誌の最新号に掲載された記事は、世間を改めて驚かせた。佐藤自身が膨らませた綾瀬と柏木の恋愛の終幕は、彼のジャーナリズムへの誇りを問う作品となってしまった。
沙織は感謝の言葉を口にしたが、その瞳には完全なる解放の光は宿っていなかった。佐藤は、それを察していたが、他に手段はなかった。真実のみを書くことができれば、それが一番だが、「真実」は常に複雑だ。ゴシップ誌である限り、真実と虚構の狭間でバランスを取り続けるしかないのだ。
数日後、競合誌が千晶と柏木の復縁をスクープした。真実かどうかは別として、佐藤の記事との矛盾は明白だった。佐藤は自身の取材用SNSアカウントを開き、あるメッセージに目を留めた。それは彼の動向を、いつも監視しているかのような、謎めいたアカウントからのものだった。思い切って佐藤は、返信を送った。
「千晶。君は、どう思う?」
送信ボタンを押した後、そのアカウントからのメッセージは途絶えた。佐藤は、その沈黙の意味を考えながら、次の記事へと思いを馳せていた。
また、沙織と面会した佐藤。彼の前には、変わり果てた女性がいた。かつての哀愁を帯びた表情はなく、決意の光が、その瞳を埋め尽くしていた。彼女は堂々とした態度で、柏木との別れを宣言した。沙織は、自分が彼を陰から支えたこと、彼の成功が自分の犠牲の上に成り立っていることを、世間に知ってほしいと訴えた。
しかし、佐藤にとって、この願いは簡単に聞き入れられるものではなかった。沙織は、公の人物ではない。彼女のプライバシーを簡単に記事にすることには、多くの懸念が伴う。それに、そのストーリーに事件性がない限り、記事にするには十分な理由がない。柏木による酷い仕打ちを書いたら、佐藤の嘘の記事も原因の一つということになってしまうではないか。
「考えさせてください」と、佐藤は静かに言葉を紡いだ。
沙織は首を縦に振ったが、その目には熱い涙が光っていた。佐藤は沙織の要望に、どう応えるべきか、自らの職業倫理と向き合いながら、複雑な感情を抱えて編集部へ戻った。
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