第4話 嘘の始まり
佐藤のデスクである、神田からの命令は明確だった。他誌のスクープを追い、さらに話題を煽る記事を書け。事実ではない恋愛関係を、まるで実際に存在するかのように読者に信じ込ませる内容だ。綾瀬千晶と柏木陽斗の間に、熱愛はなかった。このことは、編集部の誰もが承知していたが、事実よりもスキャンダルが求められる現実が、そこにあった。
佐藤の心中では、このような偽りの報道を書くことへの反発が渦巻いていた。だが、その感情が顔に出ることはない。それを悟ることができるほど、神田デスクは鋭くはなかった。真実を明らかにする記事を書きたいという佐藤の提案は、神田にとっては聞く耳を持てないものだった。
神田は、佐藤に向かって冷たく断じた。「そんな正義感あふれる記事を求めているのは、お前だけだ。読者は、ドラマを求めてるんだよ!」
佐藤は神田の言葉に内心で抵抗しつつも、組織の一員としての役割に従わざるを得なかった。机に戻り、キーボードに指を走らせる。創作された熱愛エピソードを紡ぎ出し、真実とは裏腹のスキャンダルを記事にすることが、彼の仕事だった。
正午を回り、日差しが窓から編集部内に降り注ぐ中、壁掛けのテレビからは、ワイドショーの賑やかな音が流れていた。綾瀬千晶が新たにイメージキャラクターを務める商品の発売イベントが、そこで繰り広げられていた。カメラのフラッシュが光り輝く会場では、記者たちの質問が、一つのテーマに集中していた。それは千晶の私生活、特に最近の恋愛報道に関するものだった。
しかし千晶は、どの質問に対しても肯定も否定もしなかった。無言を貫き、その無表情が物語るものは何かを悟らせる。司会者が質問を制止するまでの、わずかな間、その沈黙が空気を支配した。彼女の答えのない答えは、報道の波に新たな憶測を加えることとなった。
佐藤は、画面を見つめながら考えた。芸能界では、実績以上に注目を集めなければ、瞬く間に忘れ去られる。綾瀬千晶も柏木陽斗も、もう恋愛が公になってもイメージを損なう年齢ではない。結婚となればファンが離れるかもしれないが、噂の段階であれば、逆に輝きを増す。彼らの虚構の恋愛をメディアが、どう扱うかが、彼らの価値を決定づける。
そして佐藤は、その仕組みの中で、自身の役割を見出した。千晶のために、そして自分自身の心の平穏のために、偽りの恋愛物語を描く。これが、彼女を輝かせ、彼を守り、そして佐藤自身のジレンマに一石を投じることになるのだ。そうして彼は、自らの感情を受け入れる一歩を踏み出すのだった。芸能報道の虚実に翻弄されながらも、佐藤は自己の信念を作り直す。綾瀬千晶に向けるラブレターのように、新たなストーリーを綴り始める。それが彼女にとっても、社会にとっても、あるいは佐藤にとっても、最良の結果をもたらすと信じて。
佐藤は、机に向かい、キーボードを叩き始めた。彼の前に広がるのは、綾瀬千晶と柏木陽斗に関する豊富な取材メモと、彼らの周囲を囲む複雑な関係の網の目だった。彼は、その真実を、彼だけが知る純粋な現実を、文章にしていく。それに、ほんのわずかなフィクションを織り交ぜることで、完璧な記事を作り上げる。二人が恋に落ちたという一点の虚構は、読者を惹きつけ、記事に命を吹き込むのだ。
佐藤には、恋愛というものが何故かいつも苦い終わりを迎える。その不幸な経験は、記事に独特の辛辣さを加えるスパイスとなる。彼が書くストーリーには、読者が知らず知らずのうちに心を動かされる、ある種の意地悪さが滲む。そして、綾瀬千晶の虚構の恋愛を文字にすることで、彼自身の感情を傷つける行為は、いつしか奇妙な快感へと変わっていった。
原稿は完成し、神田デスクの机の上に置かれた。読み終わるなり、神田は満足そうにうなずき、佐藤の仕事を称えた。彼の筆致は鋭く、取材に基づいた深みと、ほんのりとしたフィクションの香りが絶妙に混じり合い、誰もが読んだら目を離せなくなる記事に仕上がっていた。それは佐藤が持つ、リアリティと虚構を織り交ぜる、特異な才能の証だった。
週刊誌の最新号が並ぶ書店で、佐藤の書いた記事が他の雑誌を凌駕していた。他誌が先駆けて報じた綾瀬千晶と柏木陽斗の恋愛スキャンダルを佐藤は、より一層、魅力的な物語へと昇華させていた。詳細な描写と二人の最新のプライベート写真は、記事に説得力を与え、読者の想像を掻き立てた。
その虚飾の記事が評価された今、佐藤の前に新たな試練が立ちはだかった。編集部のウェブサイトチームからの通知で、柏木陽斗の本当の恋人の情報が提供されたという。佐藤にとっては、柏木の真実を知っているがゆえに、この情報は複雑な心境にさせた。
編集部の一隅にあるパソコンの画面を前に、佐藤は心を集中させてメッセージを読み解いた。多くの情報提供が行き交う、この世界では、実際に価値のあるものは稀だ。しかし、この情報提供者の文章は、経験豊富なプロの目から見ても、そのリアリティが際立っていた。巧妙な表現には、ただ者ではない知識と情報が感じられた。
情報提供者は、柏木陽斗の本当の恋人の友人を自称していたが、文面には本人の可能性を匂わせる何かがあった。もし本当に恋人本人だとすれば、その動機や目的には注意が必要だ。情報を全くの虚構で塗り固めてしまった佐藤が、真実を知る、この人物と直接対峙すれば、どのような事態に陥るか予測不能だ。
佐藤は記者としての職業病のように、真実を追求する衝動にかられた。他の記者に任せることも、無視する選択肢もあった。しかし、この胸の内に湧き上がる興味と探究心は、そう簡単には抑えられないものだった。深みに足を踏み入れる危険を承知の上で、彼は、この不確かな情報の真実を見極めるための一歩を踏み出すことを決意する。それはジャーナリストとしての使命感なのか、はたまた個人的な好奇心なのか、佐藤自身にも判然としない。
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