第6話 嘘の臨界点

 取材用のキーボードに指を走らせる佐藤は、もう一つの大きな仕事に没頭していた。家庭を持つ人気お笑い芸人の不倫のリークがあり、その調査が佐藤の手によって進められていたのだ。情報は断片的だったが、長い時間と忍耐を要する作業の末、信頼できる情報源を確保し、複数の目撃情報を照合して、彼らの行動パターンを割り出した。


 夜の街での影。プライベートな空間での密会。二人の姿は、徐々に鮮明になっていった。そして、ある薄暮時、カメラのシャッターが切り取ったのは、芸人と、その女性の決定的瞬間だった。赤裸々な真実を捉えた写真は、ゴシップ記事が書き上がる前に、すでに一つの証言となっていた。


 沙織のことで心が揺れていた佐藤だが、このお笑い芸人のスキャンダルに関しては、確固たる証拠を手に入れたことで、ジャーナリズムの原点を再確認できた。事実を伝えることの重要性。それが公共の利益にかなっているという確信。嘘の記事を書くことの苦しさと比べれば、真実を伝える喜びは計り知れないものがある。



 記事の最終チェックを行う佐藤の目は、添付された写真に留まった。そこには、夜の帳が下りた街角で、肩を寄せ合うお笑い芸人と、一緒に写る女性の姿があった。女性の顔には、法律と道徳の観点からモザイクがかけられていた。確かに彼女は不倫をしてしまったのかもしれないが、犯罪者ではない。一般人としての尊厳とプライバシーは、マスコミであっても守るべきだ。


 不意に、佐藤の頭には沙織のことがよぎった。もし、彼女が何らかの事件性を帯びた話、例えば柏木による不当な扱いや、業界の暗部に関わる内容を抱えていたら、その話には報道する価値があるのではないかと。真実を追求し、公益に資することはジャーナリズムの使命だ。もちろん、それが誰かを不当に傷つけることにならないよう慎重に、そして倫理的に取り扱わなければならない。


 一般人である沙織が、芸能人の柏木の悪行に苦しめられているのならば、それはただの私事ではなく、事件になるだろう。彼女自身が許可したのならば、世間に彼女の話を伝えることで、隠された事実が明らかになるという、公益性も生まれる。佐藤は、沙織の話も記事にできるかもしれないと思い、深く考え込んだ。記事と写真の前に座りながら、佐藤の心と頭は複雑に絡み合っていった。



 夜の街が灯りで、ほんのりと温もりを帯びている中、沙織は計算された一歩一歩を踏みしめていた。彼女の表情には、恨みと期待が複雑に交錯する影がちらつく。柏木を巧みに誘導し、一見偶然のように古びたバーへと足を向けさせた。バーの暗がりに紛れることで、他人の目を意識することなく、彼らは自然体でいられた。


 酒が柏木の警戒心を解きほぐし、彼は沙織の微笑みに再び心を寄せていった。二人の距離が縮まるにつれ、沙織の内面には復讐の火が一層燃え上がる。そして、その情熱はキスという、まるで愛のように見える仕草に込められた。その瞬間、佐藤のレンズが彼らの唇を捉えた。


 彼女は何も言わず、柏木の表情を盗むように見つめた。柏木は沙織の温もりに溺れ、完全に油断していた。その一方で、佐藤は影から、その場の空気を切り取るようにシャッターを切り続けた。



 深夜の机に向かい、ただ一つのデスクライトが静かに照らし出す空間で、佐藤は重苦しい思いに耽っていた。柏木と沙織の写真は、渦を巻く海のように、彼の心を揺さぶる。一流の俳優が一般人と恋に落ちるのは、確かに物語としては美しいが、それを報道するためには、何か別の角度が必要だ。そして、その角度は、しばしば事件性の有無にかかっている。


 佐藤は手を休めて、スマホの画面を見つめた。匿名のSNSアカウントを作り、業界の深い闇を探るための窓として機能させていたのだが、そこには謎のアカウントから、彼を監視しているかのようなメッセージが届いていた。自らの手で生み出した情報源を利用して、ある種の自己犠牲をもって真実を暴くのが、ジャーナリストというものか。


「千晶。君の笑顔が見たい」


 このメッセージを返信する指は震えた。もしも自分の直感が外れていたら、自分がストーカーの精神状態にあることを認めざるを得なくなる。若かりし頃の過ちが、彼の心に残した傷は、時間が経っても癒えることはなかった。だが、返信は来ない。謎のアカウントの謎の沈黙は、佐藤の推理に対する肯定でも否定でもない。ただ、希望を残した。



 朝の光が窓ガラスに反射して輝く中、プロモーションイベントのステージ上では、綾瀬千晶が、その美しい姿を優雅に披露していた。彼女は、ある外国映画の日本での公開を告げるため、カメラの前に立ち、その華やかな存在感で会場を魅了していた。記者たちのフラッシュが無数に光る中、多くの質問が飛び交ったが、映画の話題よりも、千晶と人気俳優・柏木陽斗の交際についてのものが多かった。


 通常ならば彼女は、こうした私的な質問には無言で通し、司会者の介入を静かに待つだけだった。しかし、この日は異なった。千晶は一転して、明るい笑顔をカメラに向けた。彼女の頬を飾る笑みは、その場にいた全員を柔らかい雰囲気で包み込んだ。彼女の笑顔は、あたかも柏木との交際が順調であることを語る、返答のように受け取られた。


 この出来事は、まるでドラマのように美しく描かれ、二人の人気俳優に対する国民の祝福は、インターネットやマスメディアを通じて、花火のように次々と打ち上げられた。国民は、彼らの幸せを心から願っていた。


 この全てを遠くから見守っていた佐藤は、次の一手を慎重に、だが固い決意を持って考えていた。沙織と柏木の真実の物語を、いかにして世に問うか。それは簡単な問題ではなかったが佐藤は、その責任を果たすために記事の執筆を続けた。

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