みるみられる

何もなかった人

第1話 二人の過去

 佐藤啓介は、都会の喧騒から少し離れた小さなホールで、緊張した面持ちの男性がステージで話しているのを見つめていた。この男性は、かつてストーカー加害者であり、今日は、その経験談を公にする日だった。


 会場には、多くの席が並べられていたが、埋まっているのは、その半数程度だ。しかし、男性の言葉は、出席している全ての人々の心に響いていた。彼の声は微かに震えていたが、その胸中にある真摯な思いや後悔の気持ちが、言葉を通じて伝わってきた。


「私は、自分の感情や欲望に囚われ、相手の感情や人権を踏みにじる行為を繰り返しました」と、彼は言った。その言葉は、深い反省の色を帯びていた。佐藤啓介は、彼の言葉に、過去の自分を重ね合わせていた。


 後ろの席で、一人の女性が静かに涙を流しているのが目に入った。彼女も、かつての被害者か、あるいは加害者か、その詳細は分からなかった。しかし、彼女の涙には、男性の言葉が、どれほど心に刺さっているかが表れていた。


 佐藤は、この非営利団体の活動に関わることで、自分自身の過去と向き合う力を得ていた。かつては彼も、相手の感情を無視して、自分の欲望のままに行動していた人間だった。しかし今は、過去の自分を乗り越え、他者の痛みを理解し、サポートする活動を手伝っている。


 講演が終わると、拍手が会場に響き渡った。それは男性への労いと、彼の勇気ある告白に対する感謝の意を込めたものだった。佐藤も、そっと手を打ちながら、このボランティア活動の意味を噛み締めた。



 佐藤は男性の言葉を聞きながら、自分の大学時代を思い出していた。その頃の彼は、情熱的で、自分の感じること、考えることに全てを賭けるような青年だった。彼が夢中になったのは、大学の同級生である美幸。彼女は明るく、社交的で、クラスの中心的存在だった。


 最初は、ただの好意から始まった。美幸との会話の中で、彼女の好きな映画や音楽、趣味などを知り、それを共有する喜びを感じていた。しかし、次第に佐藤の気持ちは執着となり、彼女に対する興味が強迫的なものへと変わっていった。


 美幸が他の男性と話しているのを見るたびに、彼の心は焼きつくような嫉妬で満たされた。彼女のSNSの更新をチェックするのが日課となり、彼女の日常や友人関係、ささいな行動までを知りたがった。彼は、自分でも気づかないうちに、美幸の生活に介入し、彼女のプライバシーを侵害する行為を繰り返していた。


 ある日、美幸の友人から「なんで、いつも美幸のことを見ているの?」と問われたことが、彼の心に深い疑念を投げかけた。自分は、彼女を愛しているだけではないのか。しかし、次第に彼の行動はエスカレートしていき、美幸の連絡先を無断で手に入れ、夜中に彼女にメッセージを送りつけるようになった。


 彼の行動は、美幸に恐怖心を与え、彼女は彼と距離を置くようになった。その事実を知った佐藤は、初めて自分の行動がストーカー行為であることを痛感し、深い後悔と自己嫌悪に打ちのめされた。彼は、その後、専門家の助けを求め、自分の行動を反省し、治療を受けることとなった。



 会場の微妙な緊張が続く中、ドアが、そっと開いて、マスクをつけた女性が中へと入ってきた。彼女の歩く姿勢、立ち振る舞い、すべてに優雅さがあり、それに気を取られる人々が多かったが、佐藤は、その顔の一部だけで、彼女の正体を見抜いた。


 彼女は綾瀬千晶。映画やテレビドラマで度々主役を務め、多くの賞を受賞してきた三十代のトップ女優だった。彼女の美しい瞳は、マスクの上からでも隠し切れない輝きを放っていた。


 佐藤は、綾瀬が会場の片隅の席に静かに座る姿を、じっと観察した。彼女が熱心にスピーカーの言葉に耳を傾け、ときおりメモを取る様子を見ると、彼は彼女が、ここに来る理由を察知した。彼女は、役づくりのためのリサーチをしているのだろう。そうでなければ、こんな場所で目立つことなく、ただ聞き手として存在する彼女の姿は考えられない。



 講演会が終わった後の静寂の中で、佐藤は綾瀬千晶の方に歩み寄った。彼女の方も彼の視線に気づき、彼の近づく姿を優しく見つめていた。


「今日の講演は、どうでしたか?」佐藤は軽く会釈しながら、どこか緊張を感じさせる声で尋ねた。


 千晶は少しの間、目を閉じて深呼吸をした後、静かな声で話し始めた。「実は、私にも過去に、同じような経験があるので……」


 彼女の瞳には深い哀しみと、スピーチに共感したという感情が宿っていた。「今日の講演を聞いて、自分の過去の過ちを見つめ直し、その重みを感じることができました。みなさんの言葉は、私の心に深く響きました」


 佐藤は、驚きを隠せなかった。しかし、彼の頭の中には、ある疑念が浮かび上がってきた。彼女は女優だ。役づくりのために深く、その役に入り込み、真剣に作り話をしているのではないか。彼女の瞳の深い悲しみや、その言葉の誠実さは、役づくりの一部としてのアドリブなのだろう。


 しかし、彼は彼女の演技の中に、真実を垣間見たように感じた。たとえ過去のストーカー行為が作り話だったとしても、彼女の言葉には、どこか共感するものがある。彼女は今までも、本当に自分の中にある感情の一部分を、演技に昇華してきたのだろう。



 深夜の静寂が街を包む中、とある車の中で佐藤は、息を潜めてカメラを構えていた。周りの明かりが、ぼんやりと映る中、彼のカメラのファインダーには、ある芸能人の姿が映し出されていた。佐藤の目線は鋭く、変装を試みている、その人物の正体を見抜くのに長けていた。それは、彼の専門だったのだ。


 佐藤がゴシップ週刊誌の記者として働くのには、一風変わった経緯があった。過去の経験から、自分の中に潜むストーカー的な傾向とは、向き合い続けるべきだと思っている。彼は、それを封印するのではなく、距離を保ったのだ。ゴシップ週刊誌の記者という、ストーカーとは紙一重の仕事をすることで、自分の心の闇を客観視できると考えた。


 この仕事をしていると、彼は自分のストーカー的な傾向を実感できて、その感情を意識的にコントロールできる。深夜の街で、人々の私生活を覗き込むこと。それは多くの人にとっては許されざる行為であったかもしれない。しかし、佐藤にとっては、自分が本物のストーカーの精神状態にはなっていないことを確認するための安全弁であった。


 彼には、この仕事をしながら日々の生活を送ることで、自分が本物のストーカー行為に走らないようにできるという自信があった。そして、その自信こそが、彼の心の平穏を保つ鍵となっていたのだ。

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