後編


「今すぐ食べたいわ。どうにかして」


 声の主は、中堅アイドルの桜庭・クロエ・姫菜だった。


 人形のように美しく整った顔は、フランス人である母親譲り。


 ただ、表では清楚系で通しているが、その実、ひどいワガママで知られていた。


 彼女のワガママに悩まされ、胃に穴が開いたマネージャーやスタッフは数知れない。


 何でも父親が在京テレビ局の現役幹部で、業界に絶大な影響力を持つらしく、それに忖度して誰も彼女のワガママに逆らえないのだという。


「できないなら死んで」


 死の宣告がこうも軽々しく飛び出すのが制作現場だ。


 ここは戦場。まともな常識や倫理観を持ったやつから死んでいく。


 華やかに見える芸能界も、一皮むけばドブネズミが這い回る下水道なのだ。


「ねぇはやく!」


 マネージャーはじめ彼女の取り巻きたちは一様に「まずい」と顔を見合わせた。


 誰も彼女の歓心を買えるような甘い物を持ち合わせていないのだろう。


 こういう時、やり玉に挙げられるのは誰か決まっている。


 周囲の視線が加藤に集まった。


 ――どうして面倒事が起きると私を見るんですか~!


 ADだからだ。


 制作現場において、ADとは、たまたま人の形をしているだけの便利な有機物なのだ。


「あなたが用意してくれるの? じゃあ早く。オシャレで私が食べたことのないような美味しいものよ」


「え、で、でも……」


 無茶を言う。加藤にも甘い物の持ち合わせなんてない。


 そもそもこんな下水道にそんな立派なものがあるはずがない。


 今からコンビニにでも走って買ってくる?


 だけど時間がかかる。それに彼女のお気に召すかもわからない。


「妙なモノ出したらもう仕事できなくしてやるから」


「え? 仕事できなくって……」


「クビにしてやるってこと」


「そんな!」


「じゃ、楽屋で待ってるから早く持ってきてちょうだい」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 しかし性悪アイドルは耳を貸すことなくスタジオを去って行き、取り巻きたちが追いかける。


「どうしよう……」


 失敗したらクビ――突然加藤に突きつけられた理不尽。 


 しかし彼女ならやりかねない。


 彼女の機嫌を損ねて辞めさせられた人間の噂はかねがね聞いていた。


 彼女の父親にはそれだけの権力がある。


 片付けに騒がしいスタジオの中、一人ぽつんと取り残された加藤。


 誰も彼女に手は貸さない。


 下手なことをして共同責任にでもされたらたまらないからだ。


 そんな中、ひとつだけ、彼女に差し伸べられた手があった。


「お困りですか?」


 笑顔を浮かべる謎のシェフだった。


 ◆


「あの……どうして助けてくれるんですか?」


 金ダライの中の食材のどれを使うか、吟味しているシェフに加藤は尋ねた。


 誰も自分を助けようとしなかったのに。


 この男だけが、ただ春風のような笑みを浮かべて、救いの手を差し伸べてくれた。


「あなたが困っているからですよ」


 どうしてそれだけのことで?


 加藤はこの男のことがもっと知りたくなった。


 たとえば、なぜこんなおかしな仕事をしているかということ。


「あの、あなたはどうしてこの仕事を?」


「笑顔が見たいからですよ」


「笑顔?」


「ええ。ただ美味しい料理を食べてもらうことでも笑顔は見られます。実際、多くの料理人はそうして満足しています。ですが、美味しい料理で困っている人を助けられたら、もっと喜んでもらえると思いませんか?」


 美味しいものを食べられて嬉しい。さらに問題解決してもらえて嬉しい。


 彼の言うことはいたってシンプルだった。


「では、あなたは?」


「私?」


 突然話を振られ、戸惑う加藤。


 けれど、噛みしめるようにゆっくりと答える。


「たぶん……シェフと同じです」


「ほう?」


「私は……辛いとき、救ってもらったんです」


 加藤の胸に去来するのはかつての記憶と思い。


「小学生のころ、病気で大好きなお父さんが死んじゃって。暗い部屋で何日もグズグズ泣いていたんです。その時、TVでバラエティ番組をやっていて。芸人さんたちがくだらないことに一生懸命で、馬鹿馬鹿しいのに目が離せなくって。気づいたらいつの間にか笑ってたんです」


 それからバラエティ番組に夢中になった。


 新聞のテレビ欄にペンで印をつけて、必ず見逃さないようにした。


 やがて大きくなると、今度はそんな番組を自分でも作りたいと思うようになった。


「だから私の夢は、世界中の人たちを笑顔にできるバラエティ番組を作ることなんです」


「そうですか。ならあなたがやるべきことは一つですね」


「……はい!」


 誰かの笑顔を見たい。


 奇しくも、二人の頑張る理由は同じだったのだ。


「では、これを使いましょう」


「それは?」


「売れない三流タレントの顔面にぶつけられた生クリームパイですよ」


「口悪いなぁ」


 それは、バラエティ番組やドッキリ番組でよく見るあのパイだった。


 最近は生クリームではなくシェービングクリームを使う場合が多いが、この現場では馬場のいらないこだわりで本物の生クリームとパイ生地が使用されていた。


 さらにシェフは別の果実らしき食材を選び出す。


「それは?」


「握力しか能の無い力士がパフォーマンスで握り潰したリンゴです」


「誹謗中傷なんですよ」


 しかし、これらを使って何ができるのか。


 どちらも本来、番組で雑に扱われ処分されるのが運命の食材たち。


 しかも食べさせる相手は、いかにも料理にうるさそうなあの性悪アイドルときた。


 これで彼女を満足させられるものなんて……。


 そんな加藤の心配をよそに、シェフの男はテキパキと作業を進めていった。


 ◆


 完成した品をワゴンにのせ、加藤とシェフは桜庭の楽屋を訪れた。


「もう、どれだけ待たせるの!? これだけ時間がかかったんだから、相応のものじゃないと許さないわよ!」


 案の定、ご立腹の彼女。


 急いで用意はしたものの、今すぐ食べたいという彼女を、結局20分近く待たせてしまった。


「こちらをお持ちしました」


 本当に彼女を満足させられるのか不安を抱えながら、加藤は銀色の丸いフタ――クローシュというらしい――を開けた。


 中から現れたのは、パイ生地の上に甘く煮られたリンゴが並んだデザート。


 シェフが言った。


「特製タルトタタンでございます」


 タルトタタン。


 タルト生地の上にバターと砂糖でキャラメリゼしたリンゴが並んだフランスの伝統的な家庭料理だ。


「あら、悪くないじゃない!」


 どうやら、まず第一印象においては合格のようだ。


「どうぞ」


 シェフがフォークを手渡し、桜庭が一口目を頬張った。


「なにこれ……美味しい……!」


 途端、桜庭は驚きで目を丸くした。


 加藤は心の中でガッツポーズをした。


 タルトタタンは、本格的に作ると時間がかかるので、今回は時短レシピを採用した。


 まず、タルトの代わりにパイ投げのパイ部分を使った。


 オーブンは使わず、リンゴをフライパンでキャラメリゼし、その上にパイをのせ、ひっくり返すことで完成させたのだ。


 そしてその上にカスタードと生クリームを混ぜ合わせたものをトッピングした。


 桜庭は味の感想を漏らした。


「パイ生地を使っているせいか、重くなりがちなタルトタタンが軽く食べられる。それにリンゴの形が不揃いになっていて手作りの温かみがあるし、食感に違いが出て楽しいわ!」


 リンゴが不揃いなのは、相撲取りが手で潰したせいだ。


「それにこのトッピングのクリームがとても変わった味……まさかこれ……?」


 シェフが頷いて答える。


「わさびですよ」


「わさび!」


「ええ。大量わさび入り料理のロシアンルーレットというよく考えると何が面白いのかわからない三文企画で使われたわさび入りシュークリームです」


「口が悪い!」


 思わず加藤が突っ込んだ。


 とはいえ、このアレンジには加藤も驚いた。わさびとリンゴというのは案外合うのだ。


 これによって、タルトタタンが未体験の味わいになっている。


 しかし、桜庭はすっと眉根を寄せた。


「それって……もしかしてさっきの番組で使ったもの?」


 まずい、と加藤は身構えた。


 プライドの高い桜庭は、汚れ仕事をしないことで知られていた。


 今回の収録でも、パイを顔面に受けることはしなかったし、わさび入りシュークリームを食べることもしなかった。


 そんなものを食べさせられたと知ったら、激高してもおかしくない。


 ――彼女が売れない理由はわかりますか?


 タルトタタンを作っている最中、そうシェフが言った。


 ――汚れ仕事をしないからですよ。


 ――彼女はファンよりも自分を大事にしているように見えます。


 それは、加藤にも頷けた。


 だから彼女はいまいち売れないのだ。


 見た目はいい。けれど真に愛されない。


 それが彼女を日々イライラさせて、理不尽に周囲に当たるようにさせた。


 そしてシェフは加藤にこうも言った。


 ――彼女とあなたは似ています。


 ――え?


 ――『一皮剥ける必要がある』ということです。


 緊迫した空気の中、加藤は意を決して桜庭に問いかけた。


「……でも、悪くないと思いませんでしたか?」


「何ですって?」


 桜庭は加藤に鋭い視線を向けた。


 しかし加藤は怯まない。


「私も味見をしましたけど、それ、とっても美味しかったです。オシャレだし新しいし、あなたも良いと思ったんじゃないですか?」


「それは……」


「それがあなたが避け続けてきたものです」


「っ……!」


「あなたはとっても綺麗です。誰もが憧れるほど。だけど、自分を守りすぎているんじゃないですか?」


「なんであんたにそんなこと言われなきゃ……!」


「綺麗だからこそプライドを捨てた時、ギャップでより魅力になると思いませんか!?」


「それは……」


 頑なだった桜庭の顔に迷いが生まれた。


 ――私、忘れてた。


 桜庭はデビュー当時の頃を思い出した。


 最初はファンのみんなに喜んでもらいたくて、みんなの笑顔を見たくてアイドルを始めたはずだった。


 けれど父親のこともあって、いつの間にか自己保身に走っていた。


 自分も薄々気づいていた。いつまでたっても売れないのは、妙なプライドを大事にして、汚れ仕事を避けて、殻に閉じこもっているせいだと。


 自分をさらけ出さずにカッコばかりつけていたって、みんなには愛されない。


「そう……かもね」


 桜庭は肩を落とし、手元のタルトタタンを見つめた。


 自分が避け続けてきたもの。それがこんなにも美味しくて魅力的だと知った。


 まるで全身から毒気が抜けたような気分だった。 


「ありがとう。初心を思い出したわ。私、みんなのためにもう一度頑張ってみる」


「桜庭さん……」


 桜庭の心境の変化に、加藤も感極まる。


「もう少し食べてもいいかしら?」


「はい! もちろん!」


 加藤やシェフや、取り巻きたちが穏やかな表情で見守る中、桜庭は美味しそうにタルトタタンを食べ進める。


 これで一件落着。


 一時はどうなることかと思ったが、シェフのおかげで事なきを得た。


 するとシェフは加藤に歩み寄り、すっと何かを差し出した。


「さあどうぞ」


 加藤は頷いて差し出されたものを受け取り、タルトタタンを楽しむ桜庭の無防備な背中に忍び寄った。


 シェフはこう言っていた。


 加藤と桜庭は似ていると。どちらも殻を破る必要があると。


 ――ならあなたがやるべきことは一つですね。


 加藤は、シェフに渡されたハリセンを振りかぶった。


 そしてそれを、桜庭の脳天に思い切り振り下ろした。


「ぶふっ!!!?」


 桜庭はハリセンにしばかれ、食べていたタルトタタンに顔面から突っ込んだ。

 ゆっくり顔を上げると、その顔はクリームまみれ。


「え? え? どういうこと??」


 突然のことに困惑して、あたりをきょろきょろ見回す桜庭。


 ――世界中の人たちを笑顔にできるバラエティ番組を作るなら、誰よりあなたが面白くならなければ。


 だから加藤も殻を破ると決めた。


「桜庭さん! これで『オイシく』なりましたね!」


「あんたふざけてんの!?」


 この数年後、加藤が企画・ディレクションを務める、番組で使われた食材をスタッフや出演者にコッソリ食べさせる新機軸のドッキリバラエティが大成功を収めるのだが、それはまた別の話だ。

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スタッフが美味しくいただくためのシェフ 石原宙 @tsuzuku

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