後編


『siva』による国家転覆作戦当日。


 羽柴は毛対の活動で、築島とともに市街パトロールに出ていた。

 法律により、特別な許可を得た研究機関や動物園等の施設を除き、柴犬の飼育は禁止されている。

 それに背き、隠れて柴犬を飼う重犯罪者を摘発するためだ。


 毛対が主導する柴犬狩りは2日後に迫っていた。

 やるならそれが行われる前だ。

 毛対の手によって柴犬が駆除されてしまう前に、国家転覆とは言わずとも、毛対の機能を停止させる必要がある。


 東條は言った。「お前が毛対でよかったよ」と。

 つまり羽柴はスパイとして利用されたことになる。

 きっと東條は、だから自分に声をかけたんだろうと羽柴は理解していた。


 ――そろそろか。


 羽柴は打ち合わせ通りの行動に移る。

 羽柴はあるマンションの方向を指さし、叫んだ。


「築島さん!」


「どうした!」


「闇柴犬です!」


「闇柴犬だと!?」


 羽柴は指さした方向へ向かって駆けだした。

 闇柴犬とは、政府の許可を得ず違法に飼育されている柴犬のこと。

 ただ、羽柴が指さした先には闇柴犬などいなかった。


「複数いるようです!」


「応援を呼ぶ!」


 築島も追随しつつ、無線を使って毛対本部に応援要請する。

 こうして羽柴が引きつけているうちに、東條らが動く算段だった。

 東條ら『siva』の作戦はこうだ。


 柴犬が一斉に柴ドリルを行うための特殊な電波を日本中に放つ。そのためには国内各地の地域放送システムをジャックする必要がある。

 羽柴は、毛(モウ)アラートを利用すればいいと東條に言った。

 全国に毛害特別警報を発令するためのシステムで、国内全自治体の放送施設を統括管理するシステムが毛対本部に存在すると教えた。

 ならばその管制室をジャックすればいい。





 羽柴は一人駆ける。

 闇柴犬がいると疑いをかけた現場は築島に任せ、理由を付けて自分だけ抜け出した。

 そこにはsivaの構成員がいて、うまく築島たちを足止めするだろう。

 今ごろ、手薄になった毛対本部はsivaの強行部隊に制圧されているかもしれない。

 羽柴は毛対とsiva、どちらにも所属し、どちらの目論みも失敗させなければならなかった。


 まずは毛対による柴犬狩りを止めること。

 そして、sivaによるテロも同時に止めなければならない。

 柴犬が傷つくのは見たくない。そして、柴犬を守るために人間が傷ついてもいけない。


 片耳にはめたイヤホンがジジ……とノイズを鳴らし、東條からの無線を伝えた。


『お前、俺たちをはめたな!』


 東條の声は羽柴に対する怒りと焦りがむき出しだった。


『ここに管制室なんてねぇ!』


「すまん、間違えた」


 羽柴はそれだけ返して、一方的に無線を切った。

 羽柴はシステムの管制室は毛対本部にあると東條に伝えた。しかしそれは嘘だった。

 毛害特別警報の発令判断は毛対によって行われるが、その放送を統括する高度なシステムなどは存在せず、放送は各自治体によって個別に行われる。

 襲われた毛対本部は犠牲になるが、もともと多くの人員が出張っているし、内勤の事務職員たちも無理に抵抗することはないだろうからケガ人は出ないはずと羽柴は踏んでいた。

 これで、sivaのテロを止め、同時に毛対の機能を数日麻痺させる。

 それが羽柴の狙いだった。


 その間に伊月局長に会う。そしてテロを阻止するためには柴犬狩りを止める必要があると説得する。この混乱の中なら承諾を得られるチャンスがあるはずだ。





 羽柴は局長室へ飛び込んだが、もぬけの殻だった。

 この緊急事態だ、最高責任者が自室にこもっているわけにもいかないだろう。

 羽柴は伊月を探してビル内を駆け回り、あるところで足を止めた。


「なんだこれ?」


 地下に繋がる階段だ。中央合同庁舎9号館にこんな場所があるなんて聞いたことがなかった。

 その階段を降りた先から、かすかに、犬の鳴き声らしきものが聞こえた。


 羽柴は声に誘われるように階段を降りていった。

 そろそろと、未知の地下フロアへ足を踏み入れる。


 やがて聞こえてきたのは、カチ、カチというリノリウムの床の上をゆっくりと歩く犬の小さな足音。

 途端、なぜか羽柴の胸にあたたかい郷愁が湧き上がった。


 目の前に現れたのは、一匹の年老いた柴犬。

 その背後には仰々しい祭壇があった。

 老犬は自分で歩くのがやっとという様子で、力なく首を下げながらよたよたと歩いていた。


「……リク?」


 羽柴はなぜだかそう口にしていた。

 一見しただけで、かつての愛犬と同定できるとは思えなかった。

 あれがリクだったとしても、年を取り、変わり過ぎていた。

 けれど、あれはリクだと、半ば確信的に羽柴は思った。

 それに、首輪。間違いない。あれは昔、母親と一緒に羽柴がペットショップで選んだもの。 羽柴の脳裏にいくつもの思い出がよみがえる。


 初めて出会った日、父でも母でもなく羽柴に一番にすり寄ってきたこと。お気に入りの本の角をかじられたこと。ブラッシングが大好きで、羽柴がブラシを持つのを見た途端、駆け寄ってきて目の前に伏せたこと。


 もう耳も遠いはずの老犬は、羽柴の声が聞こえたのか、あるいは鼻が覚えのある匂いを嗅ぎつけたのか、顔をこちらへ振り向けた。


「リク! お前……こんなところにいたのか!?」


 どこかで生きているかもしれないとは思っていた。けれど、まさかこんなところで出会えるなんて。

 じわりと羽柴の目頭が熱くなる。

 一方のリクは立ち止まったままこちらをじっと見ている。

 もう目が見えていないのか、久しぶりに再会した飼い主を前に戸惑っているのか。


「リク……おいで?」


 羽柴はしゃがみ込んで両腕を広げる。いつもこうするとリクは自分の胸に飛び込んできてくれた。


「リク。俺だよ。おいで――」


「やめろ!」


 その時、背後から羽柴を羽交い締めにしたのは東條だった。


「東條!? 邪魔をするな!」


「シバ神を刺激するんじゃない!」


「シバ神だって?」


「そうだシバ神を興奮させるな! 世界がどうなってもいいのか!」


 東條の真剣味を帯びた言葉に、羽柴も冷静さを取り戻す。

 東條は羽柴の肩をつかんで言った。


「いいか。よく聞け。なぜこれほど爆発的に柴犬の抜け毛が増えたかわかるか?」


「柴犬の数が増えたからだろう」


「……お前は本当に毛対か? 柴犬が120万頭いたからってここまで世界が抜け毛に覆われるかよ!」


「どういうことだ?」


「シンクロニシティだよ」


「シンクロニシティ?」


「こんな例がある。ある海岸で猿が芋を洗うと、世界中の猿が芋を洗い出したという。同じ種の動物は、無意識のさらに奥――種族の絆で繋がっている」


 それは第四の心理学、トランスパーソナル心理学と呼ばれるものの考え方だった。

 心理学者フロイトは、人間の意識の奥に無意識という領域があると指摘した。

 しかしそのさらに奥に、個を超越して影響しあう領域があるとするのがトランスパーソナル心理学だ。


「ある個体の行動や変化が、他の個体すべてに影響を与えることがある。その『最初の個体』がリクなんだ」


「なんだって?」


「リクが何かを覚えると世界中の柴犬が同じ事を覚えるんだ。それは何度も確認してる。抜け毛もそうなんだ」


「まさか……リクの抜け毛が増えたから、世界中の柴犬の抜け毛も増えたって言うのか?」


 東條は頷いた。

 羽柴はにわかには信じられない。あのリクが神と呼ばれるような存在? ありえない。リクはただのかわいい柴犬だ。ただの自分のかけがえない家族だ。


「よく見つけてくれたなぁ、羽柴」


 ふいに背後から聞こえた声に、羽柴は振り返った。

 聞き慣れた声だった。その声の主に気づいて、羽柴はまさかと息を飲む。


「……築島さん?」


「ああそうだ」


 そこにいたのは築島だった。


「どうしてここに? あのマンションにいるはずじゃ……」


「お前の目論みなんて最初からわかってたさ。ほれ見な」


 築島の大きな右手が誰かのジャケットの首元をつかんでいた。

 首元をつかまれている男は頭から血を流し、意識がないように見えた。

 羽柴はその男の顔を見ると、驚きで目を見開いた。


「伊月……局長?」


 その男――伊月は呻き声を漏らした。どうやら息はあるようだ。

 しかし羽柴は現状が飲み込めない。


「どうして……? 何て事をしてるんですか、築島さん!」


「何って、別に問題ねえだろ? だってこいつは――」


 続く築島の言葉に、羽柴は言葉を失った。


「こいつは凶悪テロ組織――柴犬解放戦線のリーダーなんだからよ」


「sivaのリーダー? 伊月局長が……?」


「ああそうさ。こいつはここでその犬を隠匿してた。第二次柴犬狩りなんてのはガス抜きよ。民草の溜飲を下げるためのパフォーマンスだ。こいつは結局、柴犬を保護するためにずっと動いてた」


「だからって、なぜリクを?」


「そりゃそいつを殺せば世界中の柴犬も死ぬからさ」


「な……!」


「老衰とかの自然死じゃダメなんだ。ぶっ殺さなきゃな。だからこの男はシバ神を隠し続けた。天寿を全うするまでな」


「そんな……」


 羽柴は勘違いしていた。柴犬の真の敵は伊月ではなくこの築島だったのだ。


「築島さん……あなたは何者なんですか?」


「俺は教祖さ。『トイプードル福音教』のな!」


「トイプードル福音教!?」


「柴犬が目立つせいで、それまで人気№1だったトイプーが話題にもならなくなっちまった! だから俺は柴犬を絶滅させてやるのさ! ふははは!」


 イカれてる。羽柴は震えた。怖るべき男がこんな近くにいたなんて。

 築島の狙いはリクだった。リクを殺して柴犬を絶滅させる。

 羽柴は頭がおかしくなりそうだった。

 突きつけられた事実の連続にクラクラして、理解が追いつかない。


 しかし一つだけ確かなことがあった。

 リクを守る。

 それだけが羽柴を突き動かした。


「リク!」


 羽柴は愛犬に向かって駆けだした。

 まずはこの場を脱する必要がある。リクを抱えて逃げるのだ。築島の手の届かないどこかへ。


「そうはいくかよ」


 築島は伊月を蹴り飛ばすと、羽柴の前に立ち塞がる。


「そりゃこっちの台詞だよ!」


「てめぇ!」


 その築島に飛びかかったのは東條だった。


「東條!?」


 東條は、体格では敵わない築島の足にしがみつき、必死に動きを止める。


「いけ羽柴! リクを守れ! うちの黒柴――ゴロウはもう死んじまった! だからリクは守れ! 柴犬を守れ!!」


「東條……! ああ!」


 東條の絶叫に応え、羽柴はついにリクの元にたどり着く。

 万感の思いを込め、リクの背中をなでる。

 数年ぶりの感覚に涙が出そうになる。


「リク、行こう。俺と一緒に。……リク?」


 羽柴が抱え上げようとすると、しかしリクは体を引いて嫌がった。


「どうしたリク? 早く逃げないと――」


 焦る羽柴をよそに、リクはゆっくりと首をもたげ、羽柴の足下に伏せた。

 クゥンと鼻を鳴らす。何かを羽柴に求めるように。

 これはリクのいつもの癖だと、羽柴は気づいた。

 小さな頃、羽柴がブラシを持つと、いつもリクはこうしてみせた。


「……ブラッシングしてほしいのか?」


 リクが頷いた気がした。

 祭壇に目をやると、犬用のブラシが供えられていることに気づく。羽柴はそれを手に取った。


 ゆっくりと、リクの背中にブラシを通す。

 リクが嬉しそうにクゥンと鳴いた。

 続けて、頬に、脇腹に、尻尾に、全身にブラシを通してやる。

 そうするたび、リクが気持ちよさそうに身をよじる。

 ブラシを通す。通す。そうしていると、やがてブラシにつく毛が減っていって、最後にはほとんど抜けなくなった。


 しかし。


「リク? ……リク?」


 リクが動かないことに気づく。

 すでにリクは息を引き取っていた。

 リクは最期の瞬間を、かつての飼い主のブラッシングとともに迎えたのだ。

 きっとリクはずっとこうしてもらいたかった。

 何年も、こうしてもらうのを待っていた。


「リク……!」


 羽柴はリクを抱いてボロボロと涙を流した。もう止まらなかった。

 悲しい。けれどそれだけじゃなかった。胸に温かいものが残っていた。

 もう動かないリクの顔が、満ち足りたものに見えたからだ。


 羽柴は思う。

 リクはきっと、羽柴と引き離されてから、ブラッシングをしてもらいたい一身で抜け毛を増やしたのではないか。

 そうすれば、昔と同じように羽柴が来てくれると信じて。





 その後、不思議なことに、毛害は全国的に緩和されていった。

 柴犬たちの抜け毛が劇的に減ったのだ。

 1年もしないうちに、毛害は社会問題として扱われなくなり、やがて毛対も役目を終えて解体された。

 なお、テロ未遂を起こした東條とそのリーダーである伊月は、駆けつけた警察に拘束された。築島も、伊月への暴行と教団での余罪多数で同様に捕まった。




 毛対の解体後、アパレル企業に勤め始めた羽柴は久しぶりに実家へ帰った。

 まだ残されたままの犬小屋の前で両手を合わせ、足の悪くなった母の代わりに部屋の掃き掃除をした。


「ん?」


 気づいたのはタンスの裏。

 そこに、リクのものと思しき抜け毛が小さなかたまりになって残っていた。


「こんなところにまだ……」


 羽柴は頬を緩めた。

 今日はもう掃除はやめておこう。

 母に早めの昼食を作ろうときびすを返した羽柴の背後で、開けた窓から吹き込んだ風が小さなかたまりをさらっていった。

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毛害 石原宙 @tsuzuku

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