毛害

石原宙

前編

 

東京都、霞ヶ関。

 国土交通省、毛害対策局――通称『毛対』。その本部事務所にて。


「――はい、はい。道路が車で通行できないと。はい。わかります」


『毛対』所属の若手、羽柴は受話器を耳にぺこぺこと頭を下げながら応対する。

 通話相手は都民だ。

 毛害によって通行不能となった幹線道路にたまりかね、苦情の電話をかけてきた。


 今日は朝から10㎝ほどの積毛だと、朝の情報番組で毛害予報士が言っていた。

 羽柴は終始低姿勢を心がけるが、肝心の解決策が提示できなければ、都民の溜飲は下がらない。


「ですが今はどこも除毛車が足りておらず――」


『使えねえなクソが!』


 怒号とともに通話が切られる。

 羽柴はため息とともに、受話器を置いた。


「またやられたか?」


 その丸くなった背中に声をかけたのは、上司の築島だった。

 築島は今年45歳になる、浅黒い肌をした体格のいい男で、『毛対』設立時からの古株だ。


「ええ、いい加減心が折れますよ」


「はは、仕方ねえさ」


 築島は羽柴の頭にぽんと大きな手を置いて。


「俺たちが晒されてるのは未曾有の災害だ」


 毛害。


 それが、この国が直面している大災害。

 きっかけは8年前だ。


 持ち前の愛らしさと飼い主への忠誠心が受け、柴犬の飼育が爆発的に流行した。

 かつて1万頭程度だった国内飼育頭数が120万頭を越え、言葉の通り石を投げれば柴犬に当たる事態となった。

 しかし人類は、その愛らしさと引き換えに引き受けなければならないリスクに無自覚だった。


 換毛期。


 多くの犬は、春から7月頃にかけて冬毛が、秋から11月頃にかけて夏毛が抜ける。

 柴犬は全犬種の中でも、特に抜け毛の苛烈な犬だった。

 柴犬は一頭いるだけで、もう一頭柴犬ができるほどの毛が抜ける。

 それが単純に120倍だ。


 積毛による交通の麻痺。食品や精密機器の製造現場で乱れ舞う毛。

 あちこちで問題が顕在化し始めたが、目覚ましい対策は編み出されず、人類は後手に回り続けた。


 そして世界は抜け毛に包まれた。





「うー、寒っ」


 仕事帰り、寒さに身を震わせた羽柴が顔を埋めたのは、柴犬の抜け毛で編まれたマフラーだ。

 有り余る抜け毛を有効活用しようと、世界中の研究者や企業がアイデアを凝らし、生まれたのがこうした衣料品だった。

 マフラーなどのニット類や、ダウンのように柴犬の毛を詰めたシバコートやシバ毛布団。

 羽柴の大学での研究テーマも『廃棄毛のアパレルへの再利用』であり、今もこうして関連商品を身につけている。


 なんとか柴犬の抜け毛に価値を見い出し、みんなに伝えたい。

 羽柴が『毛対』への入局を決めたのは、柴犬保護のためだった。

 羽柴の家では、彼が幼い頃から一頭の赤柴を飼っていた。名前はリク。捨てられたのか、ある日羽柴家の庭先で鼻を鳴らしていた迷い犬だった。


 羽柴はリクを溺愛した。朝晩の散歩を欠かしたことはなく、眠るのも一緒。リクも羽柴を信頼し、車で遠出をする際には、羽柴がいなければリクは頑として家から動こうとしなかった。

 しかしリクと羽柴は引き離された。5年前の話だ。


「リク……」


 思わず愛犬を思い出し、立ち尽くしていた自分に気づき、羽柴は再び歩を進めた。

 自分にはやるべきことがある。


「柴犬の抜け毛には可能性がある。それが柴犬を守ることに繋がるんだ」


 街の電光掲示板が今夜の気温を5℃と知らせる。

 11月の冷えこんだ都会の冬と対照的に、ぐっと握られた羽柴の拳には熱がこもっていた。





 翌日の毛対定例会議。

 その残酷な提案は驚くほど粛々となされた。


「柴犬の駆除を提案します」


 発言者は、毛害対策局局長・伊月尚人。

 リモートで参加している各地の毛対支部の幹部たちや国交省のお偉方も、一瞬絶句した。

 それは、迫り来る毛害による人類滅亡を前に、誰もが考えていながらも口にはできなかったことだった。


「待ってください!」


 羽柴は思わず席を立ち上がり、会議用の長机に身を乗り出して主張する。


「柴犬を駆除!? そんなことできるわけないでしょう!」


 伊月は表情を変えることなく、「なぜ?」と問いかける。


「なぜって……かけがえない命ですよ!? それに柴犬は長く人間の愛すべきパートナーだった! とても人道的ではありません!」


「人道的? 相手は犬だ」


「っ……局長は『第二次柴犬狩り』を始める気ですか!?」


 第一次柴犬狩りと呼ばれる事件は5年前に起こった。

 突如柴犬が増え、抜け毛の恐怖にさらされた人々はパニックとなり、各地で柴犬を捕らえ始めた。罪のない柴犬が傷つけられ、社会問題化した。

 看過できない毛害と動物虐待の狭間で揺れつつも、政府は市民のみだりな柴犬の捕獲を禁じ、公的機関による柴犬の回収を行った。

 これが第一次柴犬狩りだ。


 結局、全体の1/10程度の頭数のみが回収され幕引きとなったが、家族を奪われた多くの愛犬家たちが涙をのんだ。

 羽柴とリクが引き裂かれたのも、この時だった。


「もはや柴犬は天然記念物ではない」


 伊月は物静かなたたずまいを崩さず、続ける。


「すでにその認定は取り消された。なぜだかわかるか? いずれ柴犬は駆除する必要があると誰もがわかっていたからだ」


「でもっ……!」


「もはや柴犬は愛玩動物でもなければ、天然記念物でもない」


 伊月は冷たく光る眼鏡の位置を直し、吐き捨てるように言った。


「やつらは『害獣』だ」





「はぁ……一体どうしたら……」


 会議は伊月の意見に対する明確な反対意見はないまま終わった。

 このままでは柴犬は駆除される。

 伊月は過去例を見なかったほどのやり手だ。有言実行。それがなされなかったことは一度もない。

 築島より10歳も若い伊月が毛対の局長に抜擢された時も、反論は出なかった。

 かつてエリート官僚だった伊月が、なぜだかこの泥臭い毛対へやって来て、わずか2年目の出来事だった。


 気がかりなのは、彼の柴犬への敵意が尋常ではないことだ。

 ゆえの豪腕。毛対へ来たのも、柴犬を絶滅させるためではないかと噂する局員もいた。

 柴犬に親を殺されたのか、あるいは猫派なのか。プライベートは謎に包まれており、なぜ柴犬をそれほど敵視するかはわからない。


 そんな伊月がついに動いた。

 羽柴の不安と焦りは大きかった。自分は柴犬を守るために毛対に入ったのに、これでは何の意味もない。


「羽柴。落ち着けよ」


 そんな羽柴の肩に、後ろから優しく置かれた大きな手。築島だった。


「築島さん」


 入局以来、羽柴が困った時には、いつも彼の温かな手がこうして安心を与えてくれた。

 しかし今日は様子が違った。築島はいつになく引き締まった表情で言う。


「お前、毛対何年目だ?」


「3年目です」


「だったらもうわかるだろ」


 口調もいつもののんびりしたものではなかった。


「これは伊月局長が就任されてからの既定路線だ。青臭い考え方は捨てろ」


「……築島さんはそれでいいんですか?」


「それでいいか、だと?」


 築島は眉根を寄せ、普段見せない険しい顔になる。


「よく考えろ羽柴。今天秤に乗っかってんのは、人類の未来と柴犬だ。どっちを選ぶかなんて考えるまでもないだろう」


「じゃあ……なぜ『毛対』なんですか」


「なんだって?」


「なぜ僕らは『毛対』なんですか! なぜ『毛害対策局』を名乗るんですか! 『柴犬対策局』ではなく! 昔、築島さんは言ったじゃないですか! 『抜け毛を憎んで柴犬を憎まず』って! それを毛対のスローガンにしようって! 忘れたんですか!」


 羽柴のただならぬ剣幕に、築島も思わず目を伏せる。

 築島はすっと右手を上げて羽柴の頭の上に置こうとして、やめる。

 羽柴に背を向け、住処としている喫煙室に向かって歩き出す。そして最後に振り向いて、少し淋しげに言い残した。


「お前、道だけは踏み外すなよ」


「これだけ抜け毛にまみれてちゃ、もう道なんて見えないですよ」





 うらぶれた路地に、コツコツという羽柴の革靴の音が響く。

 目指すのは、その先にある雑居ビル。

 誰も使っていない廃墟に見えるそのうちの一室のドアノブに、羽柴は手をかけた。


「よう、待ってたぜ」


 中で羽柴を迎えたのは、むき出しの両腕に入れ墨をした若い男。

 腰掛けた古い椅子の上に片膝を立てて、腐った世界に挑むような目をしている。

 男はカラカラ笑って言った。


「ようこそ、『柴犬解放戦線』へ」


『柴犬解放戦線』――通称『siva(シヴァ)』。


 それは、柴犬の保護と権利の獲得を目指す反社会的組織。

 近年は過激な活動が目に余り、公安の監視対象となっていた。


「まあ飲めよ。俺たちの仲で遠慮はいらねぇ」


 強引に羽柴の肩に腕を回し、パッケージに柴犬の描かれた犬用ミルクをグラスに注ぐ。

 男の名は東條と言った。

 羽柴とは小学校からの幼なじみだった。

 当時、東條も黒柴を飼っており、それがきっかけで友達になった。

 しかし高校を卒業する頃、東條は過激な思想を持つと知られていた『siva』に接近し、羽柴は何度もやつらとは手を切れと忠告したが、東條は聞かなかった。

 東條は高校卒業とともに、正式に『siva』の一員となった。それ以来疎遠になっていたが、2ヶ月前、偶然毛対の活動中に再会し、「『siva』にこい」と勧誘されていた。

 今の東條は『siva』の幹部で、組織のリーダーの右腕だという。


「『siva』に参加するってことでいいんだな?」


「……本当に柴犬を救えるのか?」


「俺が嘘ついたことあるかよ」


 へへ、と笑うと小学生だった頃と変わらないなと羽柴は思う。

 昔から妙に素直でまっすぐなところがあった。それは羽柴とも通ずる部分だった。


「同志は世界中で日々増えている。俺たちはやれる」


「やれるって何を?」


「国家転覆」


「……おい!」


 羽柴は肩に回されていた腕を振りほどく。


「怒るなよ」


「穏健な柴犬保護の方法を探るんじゃなかったのか? そう言って俺を誘ったはずだ!」


「じゃあお前ならそれができるのか?」


「……!」


 昨日の会議を思い出して、羽柴は唇を噛む。


「いいから聞け。3日後。国の中枢を麻痺させる」


「そんなのどうやって」


「柴ドリルさ」


「柴ドリル」


「120万頭の柴犬による一斉柴ドリルさ」


「120万頭の柴犬による一斉柴ドリル!」


 なんて怖ろしいことを考えるんだと、羽柴は身震いした。


「そんなことしたら……抜け毛がぶわぁってなるだろうが!」


「ぶわぁってしてやるんだよォ!!」


 2人は鼻が触れ合いそうな距離でいきり立つ。


「もちろん目論み通りすべての柴犬がドリルしてくれるわけじゃない。ただ、誘発はできる。柴ドリルは、主にストレスからの解放や気分の転換を図るために行われる。だから、日本中で柴犬に軽度のストレスを与える音を響かせるんだ」


 東條が言うには、高確率で柴ドリルを誘発させる特殊な音波を、柴犬解放戦線は開発したらしい。


「国中が細かい柴犬の抜け毛に包まれる。この真冬の乾燥した空気中にだ。そこに火気がもたらされたらどうなる?」


「まさか……毛塵爆発か!?」


 粉塵爆発みたいに言う。


「そうさ。空気中を埋め尽くす柴犬の毛。そこに少しでも火が付けば、毛が毛へ連鎖して爆発的な燃焼が起こる。それが毛塵爆発」


「それじゃただのテロじゃないか!」


「そうさ。人類は知るべきだ。その愚かさを」


「お前……」


「シバ神の怒りを知れ」


 東條は噛み噛みボーンをペロォと舐めた。犬用ガムだ。

 これほど危ないやつだったとは。羽柴はかつての幼なじみに戦慄を禁じ得なかった。

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