聖母

わだつみ

聖母

 掌編小説 


聖母


 ゴシック建築の教会の、夜空にそびえる尖塔。その頂点に立つ十字架を、漆黒の空から舞い落ち続ける雪の中で私は見つめていた。

 街で一番の大きい、大正期から立つ教会だ。


 玄関の前の石の階段で、ただ雪に打たれて佇んでいる私に、目を留める事もなく、大勢のクリスマスの空気に酔いしれた人達が、礼拝堂の中に入っていく。

 学校指定のコートのポケットに手を突っ込む。ニーハイを履いているとはいえ、雪降る夜に、足が出るスカートは正直なところきつい。

 キリスト教徒-、私の記憶に残る言葉に言い換えたら「切支丹」が急に増えたという訳ではないだろう。彼ら彼女らは、皆、今宵この礼拝堂で催される、聖夜のコンサート-聖歌隊の、天上から降り注ぐ天使のごとき歌声。ピアノや、パイプオルガンの織りなす、厳かな旋律。そうしたものに包まれて、この夜を特別な時間として過ごしたい、そうした思いでやってきた、「切支丹」ではない人々だ。

 聖夜のみならず、祈りを天主や、聖母に捧ぐ事全てを禁じられた、禁教の時代を振り返れば、信じられない、穏やかな、優しい時代になった-。

 前世は、人生の終盤は、拷問の中、飛び散る血の匂いと、苦痛に悶える声、それでも殉教を貫いた、同胞達の顔。そして、十字架に磔られ、火に包まれる私の体-。凄惨な記憶ばかりだ。

 そうした記憶は全て、この足元に降り落ちて、瞬きする合間に溶けていく雪と共に、無くなってしまえばいい…。この思い出したくなかった前世の記憶が、去来する度に私は思う。


 しかし…一つだけ消えてほしくない記憶もあった。あの時代にあっても、「隠れ切支丹」だった私に、手を差し伸べてくれた「聖母」の事を。


私は今、誰よりも愛している「聖母」が来る事を、この礼拝堂の入口で、待ち侘びている。



 前世で「聖母」-彼女に会った、あの日も、雪が降っていた。

 「ない、私の、ロザリオが…」

 山間に隠れた切支丹の集落から、薪拾いにきた私は、十字架を模ったロザリオを落としてしまって、必死に雪の中に手を入れて掻き分け、探していた。

 あのロザリオは私にとって、祈りを捧げて、天主様や、聖母マリア様に心で触れる為に必要、というだけではない。大切な人の形見だった。

 村は人手が少なく、薪に使えそうな枝集めなど、簡単ながら大変な労働には、子供でも駆り出さざるを得ない程、生活は苦しかった。

 そうした、隠れ里の辛い日々。厳しい山の冬を越す為の、作業の中の出来事だった。

 ぼろぼろの草履には次々と雪が入ってきて、足は冷たさで最早感覚がなかった。手も赤くなり、肌はあかぎれだらけだった。

 「ごめんなさい…。大事なロザリオを無くしてしまって…天主様、マリア様、どうか私をお許しください…」

 雪に膝をつき、涙を流して祈りを捧げ、赦しを乞うた。


 そんな折に、私は「聖母」に出会えた。

 

 「どうしたの、貴女?こんな、雪深いところで…」

 

 音もなく雪は降り続け、積もる雪が木の枝からさらさらと、こぼれ落ちていく音しか聞こえない、静謐の中。


 気品と、その中に慈愛を感じさせる、冬のよく晴れた朝の空よりも澄み渡った、女の人の声が、私の耳を打ったのだ。こんな声は聞いた事も無かった。私の暮らす、切支丹の隠れ里の住人では絶対になかった。

聖母様が語りかけてくるなら、こんな声なのではないかと思わせるような、そんな澄んだ声の主を確かめようと、顔を上げる。


 美しい、うら若い大人の女の人だった。私より一回りは年上の雰囲気だった。服装などは至って質素であり、華美さはないのに、その佇まいからは気品を感じさせる。

 身なりからは、私の集落から一番近くの、別の村のお百姓の女の人だろう、とはすぐに察する事が出来た。枝を沢山詰めた籠を背負っており、私と同じ薪拾いのようだった。

 彼女は、私を見つめながら、心配するように形の良い眉をひそめる。彼女からしたら、年端のいかぬ子供が雪の中で泣いているのを、放っておけずに声をかけたのだろう。


 時折向こうの村人と、私は、出会わない訳ではなかった。

 しかし、切支丹である事を悟られたら、命さえ危うくなるから、と向こうの村人とは、会っても会話はしないようにときつく、隠れ里の大人達からは言いつけられていた。

 その筈なのに、彼女の姿を見た時、雪の中で疲れて座り込んで、心も弱っていた私は、彼女に縋りたいと思ってしまった。


 「雪の中に、大切なものを落としてしまって…。一緒に、探してくれる…?」

 そうして彼女へと近づいた私の手を、足を見るなり、彼女は声を上げた。

 「貴女…、怪我してるじゃない…!足を切って…。ちょっと、こっちに来て」

 と、私を近くの木の下に座らせると、私の手当てをしてくれた。

 ロザリオを探すのに必死になるあまり、足を石で切っていた事にも気づかなかった。ぼろぼろだった草履の片方が消えて、片足が素足になって、その足の裏が切れて、血が流れていた。


 彼女の不思議な力を感じたのは、手当てをされている最中だった。傷の痛みが引いていく。血が止まっていく。

 「これで良しと…。良かった、傷は深くなくて。こんなところに子供一人で来ては駄目よ。手も真っ赤にして…寒かったでしょう」

 足を綺麗な布で巻かれて、座らされて、私は彼女の力に魅せられていた。手当てが終わると、次は、彼女は私の手を摩ってくれている。

 彼女に手を摩られているだけで、ぴりぴりと痛んでいた、あかぎれだらけの手も、痛くなくなっていた。

 更には、彼女に会うまでは、降り続いていた、凍える雪も止んで、分厚い雲の切れ間から暖かな日差しまで、白い雪原の上に差し始めている。

 傷の痛みだけでなく、心も安らいでいく。

 「不思議な人ね…、貴女に触れられるだけで、傷の痛みが治って…、悲しかった気持ちまで、安らいでいってしまうの。まるで奇跡みたいに…」

 

 これと同じ感覚を、私は短い人生の中で、他には一度しか知らなかった。


 母が病に臥せて、若くして亡くなった、今よりずっと私が幼かった春の日。私は母に託された形見のロザリオを握って、村の近くの草原に寝そべって、涙を堪えていた。貧しい村の、厳しい作業に追われて、体を壊し、臥せた母との思い出もないまま、彼女は、神のみもとに旅立ってしまった。

 春風に揺れる草原の、日なたの中で泣き疲れ、眠りに落ちた私は、…一度だけ、聖母マリア様の尊きお姿を仰ぎ見たのだ。

 きっと夢だったのだと思う。その時の聖母様は、ひだまりの中、あの全てを赦し、慈しむ眼差しで私を見つめていた。そして私の髪を優しく撫でて、泣き続けたあまり冷たく凍てついていた私の心は、暖かな安息に包まれた。

 そのお顔は、私の母にとても似ていたように思える。そして今思い出せば、私の手を摩って温めてくれる、この清冽な女の人にも、どちらにも似ていたように思う。はっきり、そのご尊顔を描く事は、筆と紙があったとしてもきっと私には出来ない。

 母への思慕と、信仰心が見せた夢だったと言われたらそれまでかもしれない。しかし、あの夢から覚めた後に、確かに私の悲しみに凍った心が温かさを取り戻して、立ち上がる力も蘇っていたのだ。だから、奇跡の存在を私はより深く、あの日から信じるようになった。 


 私は、目の前にいる、彼女から、あの夢を見た時と同じものを感じ取る事が出来た。

 「聖母様…」

 だから、その言葉が、ごく自然に私の口をついて出ていた。彼女に向けて。

 私は、自分が切支丹である事、そして、母の形見のロザリオを雪の中、落としてしまい、それを探していたらこうなってしまった事を、彼女に打ち明けていた。

 それでも彼女は、私への態度を変える事はなかった。雪に埋もれた、母のロザリオを共に探してくれた。またしても、彼女の不思議な力に救われて、私は母のロザリオに辿り着く事が出来た。


 彼女と私が、人目を忍んで会うようになったのは、それからだった。彼女は村では、「我が子を亡くしてから、不思議な力に目覚めた女。あの者に触れさせれば、病も怪我も立ち所に治る」と、評判なのだと語った。彼女の家には、病や怪我以外も、相談に来る人が絶えないと。

 彼女の不思議な力を、私も経験した。彼女が手当てした、足の傷は、隠れ里に帰った翌日には、跡形もなく消えていたから。

 「でも、こんな力になんて目覚めなくて良かった…。私はただ、生きている娘とずっと幸せに暮らしたかった。この「奇跡」を起こす力でも、結局、あの子は生き返らせられないのに…」

 彼女の力を使っても、絶対に出来ない事。それが、「亡くなった人を蘇らせる事」なのだと言う。


 娘を流行り病で早々に亡くして以来、彼女は、子供が困っているのを見れば放ってはおけないようになった。だからあの雪の日、困り果てていた私にも、救いを差し伸べてくれたようだった。

 切支丹とはどんな教えを信じているのか、などを、彼女は知りたがった。しかし、私は彼女をこちらにー、キリスト教の世界に巻き込みたくはなかった。この禁教の時代、キリスト教に興味を抱けば、彼女とてあらぬ嫌疑をかけられるかもしれないのだ。

 「切支丹の事にはあまり興味を持たない方が良いです。私を助けてくれた、優しい貴女を巻き込むのは耐えられない…」

 私は、彼女がキリスト教に改宗する事などは望まなかった。娘を亡くした悲しい過去を乗り越えて、優しく、子供を大切にして、村の困り事を、その与えられた不思議な力で解決する。そんな暮らしを続けてほしいと願っていた。

 

 緑の中、切り株に腰掛けて、私達は二人で話した。彼女の澄んだ声を聞く事が心地良かった。

 彼女の手に、髪を撫でられる度、私の心は安らいでいく。

 悲しい時も、苦しい時も、彼女の声を聞いて、手で触れられて、私の心は、昔、夢の中で、一度だけ会ったお方-、聖母マリア様の夢で、慈愛に包まれた時と同じ幸福を、何度も追体験する事が出来た。

 彼女が森に、透き通る音色で口笛を吹けば、小鳥や、リスやウサギが集まってきては私達の周りを囲んで、目を癒してくれる。本当に彼女の力は、神秘としか言いようがない。

 

 でも-前にも彼女自身が話してくれたように、これ程、幾つも不思議な力を見せる彼女も、亡くなった命を生き返らせる事は決して出来ない。多くの村の子の病を治してきた彼女は、子供らが元気に帰っていくのは嬉しいけれど、元気な彼ら彼女らと、亡くなった娘の事を比べずにはいられない。生き返らせる力だけはない事が、ひどく悲しくなる、と嘆く事があった。

 「どれだけ、この力で、村人の皆の役に立っても、心の何処かには絶対に埋まらない、隙間があるのよ。娘が亡くなったあの日から」

 彼女の村の、村人らは今も、彼女が、娘の死を引きずっている事は知らないようだった。

 雪の日に出会った時の。「聖母」という、私の中で最初に出来上がっていた印象。

 それは、彼女と歳月を共にする中で、少しずつ変化していた。

 彼女は、自分の娘を亡くした喪失感から何とか立ち直ろうと、ずっと足掻いている。

 けれど、村で、どれだけの人を救っても決して、心に空いたその大きな隙間が満たされる事はなく、今も悲しんでいる、一人の脆い女の人だ、というものに変わっていった。

 彼女は、私にとって聖母に等しい人なのはずっと変わらない。だけど私も彼女の支えになりたい。

 「私が貴女の、心の隙間を少しでも埋められるような存在になれたらいいなって、そう思っています。最初に貴女に会った時、私は、貴女の佇まいや、貴女の不思議な力で、聖母だと貴女の事を思いました。けれど、今も、亡くなった娘さんの事で苦しんでいる貴女の事を見て、貴女の脆い部分も知っているから」

 私に、これからもずっと、貴女のそばで支えさせてほしいという、思いを伝えた。


 聖母のような彼女は、私の言葉に、「嬉しい」とその顔を綻ばせてくれた。

 

 私には不思議な力なんて何もない。だけど、貴女のそばにいる事は出来る。

 村の子らを慈愛の心で救っている、聖母様というだけではない脆い、一人の人間としての、貴女の事を。


 -私は「聖母」を待ち焦がれながら、時計に目を遣る。学生の身分の私と違い、今生でも、彼女は私より一回り年上の、立派な社会人、高校教師だ。

 前世の昔話を振り返るのに没入していた。

 クリスマスコンサートに入っていく人々は、制服姿でずっと、石段の下、立ち続けている私を、妙な物を見るような、或いは心配するような目で、時折見ていた。しかし、あの中に入るのは、彼女と会ってからだと決めていた。いくら、外は雪が降って、寒くても。

 -奉行所に囚われ、隠れ切支丹として拷問にかけられ、棄教を迫られたあの時に比べたら、何も辛い事はない。

 唇を噛み、記憶の世界に帰る。


 隠れ里を、奉行所の人間が大勢で押しかけてきて、縄をかけられた。私も勿論後ろ手に縛られて、奉行所へと罪人のように引き立てられた。奉行所の男達は、女子供だろうが、切支丹の隠れ里の人間には容赦しなかった。

 彼らは、私の母の形見のロザリオさえも、目の前で紐を引きちぎり、踏みつけて破壊した。

 何度も何度も殴られ、逆さ吊りにされ、凍えるような冷水をかけられて、「棄教すれば助かるぞ」という言葉も与えられた。しかし、私も他の皆も、誰も棄教を口にするものはいなかった。

 私達は連日の拷問でぼろぼろにされた後、狭い牢屋の中にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれた。牢屋は立ち上がるだけの高さもなく、体を折り曲げるようにして過ごさなければならなかった。殴られ続けた体はあちこち、激しい痛みが走った。

 牢の外からは「お前らは、南蛮渡来の不気味な妖術を使うんだろう!切支丹どもが!」とか、そんな罵声やら野次を浴びせる人々が殺到していた。唾を吐きかけ、立ち去る人もいた。  

 奉行所の人間だけでなく、街をゆく多くの人達も、切支丹を恐れ、嫌っていた。


 野次など好きなだけ言えばいい。神のみもとへ、母も待つ場所に行けるなら、このまま、この牢の中で息絶えても構わない…。

 そんな、投げやりな事を思い始めていた矢先だった。

 あの雪の日、凍えながらロザリオを探していた私の耳に届いたのと同じ、「聖母」の声が。

 「皆、やめてください!そこを開けて!」

 いや、僅かに違う。野次を飛ばす町人達を追い払う為にか、その声音は澄んだ美しさを保ちながらも、凛とした力強さも含んでいた。

 「あ、あの声は…?」

 私は、必死に牢の、木の格子の近くにまで這いずって近寄る。殴られた痕があちこち、激しく痛んだが、気にもならない。

 

 木の格子の向こうに屈んで、こちらを見ていたのは他ならぬ、私の「聖母」だった。

 私が彼女の名前を呼び、手を振ると、直ぐに目が合った。

 「ああ…貴女…どうして、こんな酷いことを…傷だらけになって…」

 彼女は、瞼を閉じて、眉間にきゅっとしわを寄せつつ、私の伸ばした手に触れてくれた。

 彼女の触れた場所から、全身に広がるように、あれだけ激しかった痛みが引いて、やがて消えてしまう。裂けた肌から流れる血も止まっていく。

 その光景に、牢の中でひしめき合う、同じ切支丹達からもどよめきが上がる。

 「すごい…!触れただけで傷が治るなんて…マリア様みてえなお方だ」

 「奇跡よ…!天主様は、私達をお見放しにはなっていないわ」

 驚く程の信仰心で、拷問で加えられた激しい暴行にも耐えてきた人々が牢の外に手を伸ばし、彼女に救いを求める。


 しかし、急に大騒ぎになった牢を奉行所の役人達が放置している訳がなかった。

 三人あまりの役人が、私の目の前で、棒で彼女を殴りつけた。彼女は地面に倒れ込む。

 「そこの女。何をしている!切支丹に勝手に触るな!早くそこから退け!言う通りにせぬならば…」

 腰に刺している刀に、脅すように手をかけ、彼女に向かい、凄む。

 しかし、彼女は、毅然とした態度で、役人に必死に声を張り上げた。

 「この人達は、妖術使いでもなんでもない、私達と同じ人間なんです!それを…こんな、酷いことをして…」

 彼女を早く逃さなければ。私はその一心だった。彼女は切支丹ではない。本来なら無関係な人だ。私も囚われているかもしれないと思い、この奉行所まで来たのなら…、私のせいで、彼女を危険な目にあわせている事になる。

 「もう…、もう私達の事はいいから、早く逃げてください!貴女は、これ以上私にも、関わるべきじゃない!」

 牢の中から私は叫ぶ。

 しかし彼女は、擦りむいた唇から流れた血を拭い、首を振る。

 「貴女を、見捨てられる筈がないじゃない!貴女は…私のそばにずっといると、そう約束してくれたのに」 

 

 その時だった。


 私の願いも虚しく、彼女が、役人の一人に刀で、後ろから袈裟懸けに斬り捨てられたのは。

 彼女は膝をついて、地面に崩れ落ちた。その体の下に、血溜まりが広がっていく。

 私は、声が出なかった。どうして、倒れたまま、彼女が全く動かないのか、理解が追いつかなかった。-いや、頭が、この現実を受け入れるのを拒んでいた。


 「この女も切支丹の仲間だ。さっき、牢のそばで、その小娘の手に触れて、そうしたら見る見る傷が治った。妖術使いの切支丹の仲間に違いない」

 

 違う。妖術なんかじゃない。彼女は、運命の悪戯か、悲しい代償と共に人を癒す力を手にしただけだ。切支丹でもなかったのに。斬られ、殺される理由などなかったのに…!

 いくら、彼女の無実を伝えようとしても、もう私の喉は役目を果たさなかった。彼女を目の前で斬られた衝撃から、私は声を失っていた。


 そして、私達の処分が決まった。棄教も拒んだ私達に下されたのは、磔の上、火刑に処すというものだった。

 十字架が幾つも刑場に並べられていた。祈る為のものであるそれは、今日は、私の命を終わらせる為の道具と化して、そこにあった。


 容赦なく、手と、足に釘が打ち込まれ、肉も骨も貫通して、木の十字架に、私の手足を磔にする。

 十字架の周りに、藁が敷き詰められ、程なくして炎が放たれる。

 炎は燃え上がり、大きな柱のようになって、私の周りを囲んでいく。炎の先が、無数の赤い舌のように伸びて、私の肌を焼き焦がしていった…。


 -あの刑場で息絶える寸前に見た物。それを、私は今生の世界でもありありと、目を閉じれば思い出す。

 私は意識が途絶え、視界が黒に染まる前に確かに見た。そして、この体で感じた。

 私の体を焼き尽くそうとする炎ではなく、私の髪を、時に体を優しく撫でて、私の心も体も癒してくれた、私の「聖母」である、彼女の温かい手を。

 陽だまりの中で優しく微笑みかけ、澄み渡る声で話す。マリア様と同じ姿をした、彼女の姿を。

 私は、十字架を飲み込んでいく業火ではなく、死して、本当の聖母の姿になった、彼女に抱かれながら、神のみもとへ旅立つ事が出来たのだ。

 母を無くし、信仰心だけを糧に生きてきた私。


 その私の人生が、最期、旅立つ前に燦然と輝く事が叶ったのは、彼女という聖母に会えたからだ。


 瞼を開ける。もう、今のこの国には、異なる神を信じただけで、拷問や処刑にかけようとする人々はいない。キリスト教の祭事-クリスマスを、キリスト教徒も、そうでない人も穏やかに楽しんでいる、そんな国になった。

 胸に手を当てる。

 切支丹と誤解され、殺された「聖母」との別離の瞬間の痛みは、生まれ変わっても消えはしない。

 でも、奇跡は再び起きた。神の導きは間違いなくあると、今なら信じられる。

 高校で、再び、保健教諭の姿に生まれ変わっていた、「聖母」-、彼女に巡り会えたのだから。 

 今の彼女は、かつてのような悲しい過去も、また、不思議な力も何もない。しかし、その穏やかで優しく、慈愛を感じさせる人柄から、奇しくも、「まるで聖母みたいだよね」と生徒達からはあだ名されていた。

 私の高校最後のクリスマス。彼女は、私の誘いに根負けして、この街で有名な教会のクリスマスコンサートに一緒に行く事を許可してくれた。

 交際は春まで待つよう言われたが、いくらでも待てる自信がある。彼女が前世の記憶を取り戻してくれるなら、なお良い。


 「お待たせー。ごめんね、遅くなって」


 声は、あの時から何も変わらない。私は顔を上げる。ふわふわしたマフラーに白を基調としたコートで、清涼感溢れる色彩の服装だった。

 腕時計を指差しながら、私が、「先生、遅刻です」と告げると「本当、ごめんね」と拝んで謝られた。

 「雪、強くなってきましたね…」

 礼拝堂へ続く石段を登りながら、私は何気なしにそう呟いた。

 丁度、前世で、雪の中、凍える私を、彼女が見つけてくれたあの日も、このくらい雪が降っていた。

 「そうね…」

 のんびりした口調でそう言いかけた彼女は、急に口を閉ざす。

 「どうされましたか…?」

 私が尋ねると…彼女はあれ、あれ?と言いながら、ハンカチを取り出して、急ぎ、目元を拭っていた。

 「本当に、何もないんだけど、何故か、雪を見ていたら、ひどく懐かしいような、温かいような、不思議な気持ちになって…。雪国生まれでもないのに、どうしてかな。なんだか、とても、大切な人とそこで会っていたような、そんな記憶」

 

 私は歓喜に打ち震える思いがした。


 でも、無理やり思い出させる事はしない。焦らずとも、今回の人生は沢山の時間があるのだから。いつか、その大切な人は目の前にいる事に。彼女は、私にとっての聖母だった事に。彼女自身の力で自然に辿り着いてほしい。


 「曲がりなりにもクリスマスデート中に、恋人の前で他の大切な人の話なんてしますか…?」

 だから今は、こんなちょっぴり意地悪な言い回しをして、これ以上話は広げない事にする。


 眩しい光の零れる、礼拝堂の扉へ向かい、二人で登っていく。彼女の後を追って、その背中にそっと、彼女には聞こえないよう呟く。


 「いつまでも、待っています…。私の聖母様」


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聖母 わだつみ @scarletlily1125

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