歩幅一歩の分岐点

@mia

第1話

「探偵さん、先輩。私は殺していません。本当です。逃げるあの女の背中に包丁を振り下ろしました。でも包丁は背中に届かなかったんです。本当です。その時にバランスを崩して転んだんです。その間にあの女は逃げました。あと一歩踏み込んでいたらと悔しく思いましたが、そのまま帰りました。私は殺していないんです」


「落ち着いて、山本ちゃん。警察も君が殺したと思ってないから、話を聞いただけで帰したんでしょ。君が自分のアパートの部屋にいるってことは、犯人じゃないってことだよ」


「でもねえ、山本さん。暗くなると人がいなくなる森林公園の、それも防犯カメラのないところなんて犯行を隠す気でしたよね。カメラのないところを通っていますし。私の調べではあなたは自分の恋人の浮気相手の女性と口論している姿を、大学内のあちこちで見られてるんですよ。つかみ合いのケンカになりそうなのをお友達に止められたこともありますよね。浮気相手が死ねばいいのにと言っていたと証言する人もいますよ」


「でも私は殺していません。本当です。先輩は信じてくれますよね」


「もちろんだよ。君が殺したなんて、僕もサークルのみんなも思ってないよ」


「失礼、台所を見せていただけますか」


 探偵がシンク下の扉を開けると包丁のない包丁差しがある。


「警察が調べた結果、ここにあった万能包丁と亡くなった被害者の背中の傷は一致しています」


「でも探偵さん。山本さんの包丁をドラマなんかでよく見る鑑定、ライトを当てて調べれば分かるんじゃないんですか」



「山本さんの包丁に血液は付いていませんでした」


 探偵は食器入れや冷蔵庫の中を見て言葉を続ける。


「でも山本さんは料理がお得意なんですよね。ALSライトの鑑定で、血液の痕跡を残さない方法を知っていたのではないのですか。ドラマでもやっていたので有名ですよね。大根を使えば血液の痕跡を消せるって。あなたがあのドラマシリーズを見てるということはお友達から聞いています」


「そのドラマは見てますけど、私は殺していません」


「探偵さん、山本ちゃんは人を殺すような子じゃありません。だいたいその包丁が 凶器だったとしても、ホームセンターで何百本も売られてる包丁なんだから彼女が犯人と決めつけることはできないんじゃないんですか」


「確かに。大量生産の包丁の購入者から犯人を追うことは難しいでしょうね。ところで、山本さんは料理がお得意なんですよね。自炊は大変じゃないですか」


「でも料理を作るのが好きなので勉強の合間の気分転換にいいんです」


「彼女の料理はとても美味しいですよ。僕たちのサークルのメンバーで寮住まいの人は彼女にたまに弁当を作ってもらってるんです。もちろん彼女の余裕のある時にですよ。材料費も手間賃も払ってますよ」


「ええ、ちゃんと頂いてます。いつもおいしいと言ってたくさん食べてくれるので作り甲斐があります」


「材料を買うのはどこですか。皆さんと買い出しに行ったりするのですか」


「米とか重い物を買うときは荷物持ちとして行きますよ」


「買い物は一番近いDスーパーなので一人でも大丈夫なのですが、先輩たちが気を使ってくれるんです」


「Dスーパーですか。あそこはデカいですよね。食材だけでなく日用雑貨などもいろいろ売ってますね。衣類や寝具、文房具なども二階にありますし。あそこへ行けば 他の店に行く必要はないですね」


「そうですね。いつも助かってます」




  ◇  ◇  ◇




「本当ですか、探偵さん。先輩が犯人って」


「本当です。彼は被害者と交際していました。いや、していると思っていたんです。でも女にとって彼は他に何人もいるオトモダチの一人でしかなかった。警察が調べても大勢いた友達の一人でしかなかった。騙されたと思った彼は女を殺そうと考えあなたをそれとなく誘導した。あなたが女を殺せばそれでよし。ダメだったら自分で……」


「でも探偵さんはなぜ先輩が犯人だと分かったんですか」


「分かったわけではありません。ちょっと引っかかっただけです。彼は山田さんの包丁をホームセンターで買ったと言いきった。Dスーパーでしか買い物をしていないのに。それで彼を調べたらいろいろ出てきたんですよ、被害者とのつながりが。彼はあなたがあの包丁をホームセンターで買ったのを見ていたそうですよ」


「えっ。でも買ったのは入学する前ですよ。ホームセンターオリジナルの包丁で使いやすいって聞いていたから、わざわざ包丁だけ買いに行ったんです」


「彼も休みにはホームセンターへよく行っていました。あなたを覚えていてサークルに来たときはとても驚いたそうです」


 泣いている山田に探偵は今までより少し優しい声をかける。


「あなたは一歩踏み込んでいたら殺せたと思っていたようですが、被害者の背中に届かなかった一歩はあなたの良心だったのではないでしょうか」

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