英国紳士と淑女と蜃気楼の少女
からこげん
英国紳士と淑女と蜃気楼の少女
地方の貧しい男爵家出身のアイラは、タイピングという最新の技術を習得したことで伯爵家の秘書見習いに採用された。
2年ほどの間に、由緒正しい英国貴族の様々なしきたりや礼儀作法を身につけたアイラは、領地のカントリーハウスからロンドンのタウンハウスに赴任した。
アイラに与えられた部屋は使用人のための個室で、狭い上にかなり古びていたが、アイラは気にしなかった。
活気のある華やかな大都会ロンドンで暮らせる自分は本当に幸運だ、そんなふうに思った。
タウンハウスの主は、伯爵家の嫡男のバートンだった。
明るい緑の瞳と柔らかな金髪の持ち主のバートンは、華やかな外見に似合わないおっとっりとした性格で、舞踏会や晩餐会に参加するより、庭いじりをしている方が楽しそうだった。
ある日、温室で花の手入れをしているバートンに見とれたアイラは、自分が彼に抱いている恋心に気付いた。
アイラは、自分がバートンと結ばれることを期待しなかった。それは、考えるまでもなくあり得ないことだったから、自分の恋をバートンに伝えるつもりは全くなかった。
初めての恋は誰にも明かすことのないまま日常に紛れ、ひっそりと静かに消えていくはずだった。
アイラの平穏な――少しだけ寂しい――生活が一変したのは、1枚の絵がバートンの書斎に持ち込まれた日のことだった。
*****
「この絵を君に譲ろうと思うんだ。受け取ってくれるかい?」
年上の友人のネッドの言葉に、バートンは緑の瞳を大きく見開いた。
タイプライターの前に座ったアイラも、驚きの余り、もう少しで声を上げるところだった。
社交界の寵児のネッドが、その絵を披露するためにロンドン中の有名人に招待状を出したパーティは、新聞に載るほど大掛かりだったから。
「この絵を僕に? しかし……あなたはこの絵をとても大切にしていたではありませんか。この絵のモデルを捜しに、エジプトまで行ったのでしょう?」
「ああ、鑑定士によると、この絵が描かれたのはつい最近だと言うのでね……」
ネッドは彼とともに書斎を訪れた婚約者を振り返り、微笑んだ。
「私は、モデルも背景に描かれた場所も、見つけられなかった。けれど、あの旅で彼女に出会った」
侯爵家の出身だという婚約者は、背が高く、気品に満ちた美貌の女性だった。
「婚約者のご令嬢もエジプトに?」
「彼女は、ミイラ発掘隊に参加したお父上に付き添って、エジプトに滞在していたんだ。あのとき、彼女に巡り逢えなかったら……質の悪い熱病を患った私は、砂漠で途方に暮れたまま、骨になっていただろうね」
ネッドは声を上げて笑おうとしたが、途中で咳き込んでしまった。
婚約者の令嬢が、優しくその背を撫でた。
「ネッド、どうぞ、お気を付けになって。ロンドンにお帰りになって以来、今日がはじめての外出なのですから」
「……ありがとう。もう大丈夫だ」
微笑みあった後、婚約者の視線は、壁に立て掛けた絵の上で、一瞬、留まった。
婚約者はすぐに黒い瞳を伏せ、横を向いた。取り出して額に当てたレースのハンカチの隙間で、赤いくちびるが震えていた。
彼女は、あの絵を嫌っているのだろうか?
ネッドがあの絵を手放すのはそのせいなのだろうか?
と、アイラは考えた。
ネッドの心を奪っただけでなく、命も奪いそうになった絵だから「見たくもない」と思うのも無理はない。
けれど、彼女の品の良い顔立ちに浮かんでいる感情は、嫌悪ではない気がした。
バートンがうっとりと眺めているあの絵に何かが――彼女が顔を背けなければならないほどの何かが――あるのだろうか?
アイラは、バートンの後ろから、まじまじと絵を覗き込んだ。
それは、荒涼とした遺跡の中に立つ少女を描いた幻想的な美しい絵だった。
こちらを振り返った少女の服は、白い下着のような袖のない簡素なドレスで、肩に羽織った上着には、赤や黄色や緑色で花のような鳥のような派手な模様が描かれていた。
少女の真っ直ぐな金色の髪は風に煽られて広がり、青い瞳は澄んでいた。
瑞々しいくちびるの端はかすかに上がり、何かを語りたがっているように見えた。
今にもカンバスから抜け出しそうなほど生き生きとした少女と、ぼんやりとした影のような遺跡。人物と背景は、見事な対比でお互いを引き立て合っていた。
「バートン、君はこの絵を以前から気に入っていただろう」
パイプを手にしたネッドが、バートンに尋ねた。
「ええ……おかしいと思われるでしょうが……この絵を見ていると、彼女が僕に語りかけているような気がして仕方ないんです。『私を見つけて』と、僕に言っているような……そんな気がして、胸が締め付けられるんです」
バートンは、絵から目を離さずに言った。
「そうだろうね」
バートンは頷き、口に咥えたパイプにゆっくりとした仕草で火をつけた。
「ネッド、あなたがこの絵を僕にゆずってくださるなら……僕も、この少女を……この少女のモデルを捜します。きっと、見つけ出してみせます」
バートンの緑の瞳は若々しい情熱に輝いていた。
「君は、そう言うと思ったよ。この絵は、そういう絵だから」
ネッドはパイプを口から離し、にっこりと笑った。
煙のせいか、その瞳は少しばかり潤んでいるように見えた。
*****
ネッドと彼の婚約者を見送ると、バートンはアイラを連れて書斎に戻った。
「ネッドはエジプトに行って失敗した。当然だよ、ここに描かれているのはエジプトじゃなくて日本だ。僕にはわかるよ、この背景は間違いなく日本だ」
力強く語るバートンは、すっかり人が変わったようだった。
「日本という国に、このような遺跡があるのですか?」
バートンの両親に送る手紙――旅の許可を得るための手紙――をタイプしていたアイラは、手を止めて尋ねた。
バートンは大きな声を上げて笑った。
「これは遺跡じゃない。蜃気楼だよ」
「蜃気楼……?」
「ネッドは、これが、砂漠の蜃気楼だと見当をつけた。それが間違いだったんだ。ここを見てごらん。海が描かれているだろう」
バートンが指差した絵の背景には、かすかに青い線が見えた。
「それが、海ですか?」
「海だ。この背景は、日本の海に現れた蜃気楼を描いたものなんだ」
バートンは確信しているようだったが、アイラには、それが海なのか、それともただのかすれた線なのかわからなかった。
「それに、少女が肩から掛けている上着が、絹糸で織った日本の着物によく似ているだろう?」
アイラは日本の着物を見たことがなかった。だから、曖昧に頷くしかなかった。
「僕は、日本で、このモデルを見つけ出す。そして、ロンドンに連れて帰る」
バートンは力強く誓うような口調で言った。
「モデルをロンドンに……ですか?」
「ああ、そうだ。ネッドにできなかったことをやり遂げるんだ」
*****
バートンの両親は「執事を連れて行くこと」を条件に、旅を許した。
執事の娘のメイドも同行することになった。
「君も来てくれるだろうね」
バートンは、当然のようにアイラを誘った。
誰にでも気さくに接するバートンは、タウンハウスの使用人たちに慕われていたが、半年近くを要する冒険の旅に加わろうという者は、アイラの他には――伯爵夫妻に指名された執事とメイドの親子以外には――誰もいなかった。
旅支度を整えていたある日、バートンが幼い頃から面倒をみてきたメイド長は、アイラにこっそり尋ねた。
「秘書様は、あの絵のことをどう思いますか? ちょっと不気味だと思いませんか?」
「不気味……ですか?」
「あの絵、呪われているんじゃないでしょうか」
「まさか。ただのきれいな絵ですよ」
アイラは笑いながら否定したが、メイド長は納得しなかった。
「皆が噂しているんですよ、あの絵を持っていた人の周りで事故が起こったとか、亡くなった人がいたとか……」
「前に所有されていた方は、幸せな結婚をなさいましたので、むしろ、幸運を運ぶ絵のようですわ」
メイド長は首を振ってため息をついた。
「旦那様が、あの絵に取り憑かれたんじゃなければいいんですがねえ……」
*****
旅立ちの日、バートンは秘書のアイラ、執事、執事の娘のメイド、通訳、荷運びのための従者3人を連れて、意気揚々と客船に乗り込んだ。
その腕には、梱包した少女の絵がしっかりと抱えられていた。
「この客船は速いな。まるで空を飛んでいるようだ。この調子なら、すぐにでもモデルに会えそうだな」
バートンは上機嫌だった。
が、客船が寄港地に到着する前に、執事が甲板で転倒し、足を骨折した。
「この有様では、旦那様のお役に立てません」
執事は寄港地で客船を降りた。
メイドも一行と別れて、執事に付き添った。
さらに、客船が日本に到着した途端、通訳――ロンドンの博物館で働いていた学者で、立派な経歴と推薦状を持っていた――が、まったく頼りにならないとわかった。
バートンは通訳を解雇し、新しい者を雇い入れた。
一行は、汽車に乗って蜃気楼の名所に向かった。
終着駅で降りると、3人の従者のうちの2人がいなくなっていた。
残った年若い従者が、荷車と日本人の人夫を手配するのに数日かかった。
*****
ようやく目的の漁港に到着した日、蜃気楼は見えなかった。
「名所といっても、毎日見えるわけではないそうだ。構わないさ、僕が探しているのは蜃気楼じゃない。絵のモデルだ」
バートンは港を歩き回り、土地の者に出会う度に絵を見せては、通訳に尋ねさせた。
「この絵に描かれた少女を、見たことがあるか?」
返事は、ほとんど同じだった。
「この少女を見たことはない」
バートンは諦めなかった。
「明日は、もう少し遠くまで足を伸ばそう」
*****
翌朝、バートンは起きてこなかった。
アイラが宿屋の部屋を訪ねると、バートンは布団の上に倒れていた。
額に触れると、火のように熱かった。
「医者を呼びます」
アイラは通訳を捜したが、見つからなかった。
「大変です!」
従者が駆け込んできて叫んだ。
「財布が消えました!」
「財布?」
「旦那様の財布がどこにもないんです! 通訳が持って行っちまったんですよ!」
従者の言った通り、バートンの財布が消えていた。
不幸中の幸いで、宿代は1週間先まで払ってあった。
けれど、と、アイラは考えた。
このままでは医者を呼べないし、イギリスに帰ることもできない。
自分が、なんとかしなければ。
決意したアイラは、ダークブラウンの髪を留めていた銀の髪飾りを外した。
「秘書様、いったい、どうなさったんです?」
驚く従者を置いて宿を出たアイラは、前日に見た質屋に髪飾りを持ち込んだ。
それは、アイラが故郷の母親から唯一譲り受けたものだったけれど、惜しいとは全く思わなかった。
金を手に入れて戻ったアイラは、宿屋の女主人を呼んだ。
臥せったバートンを前に、アイラは身振り手振りに加えて紙に絵を描き「医者を呼びたい」と伝えた。
宿屋の女将は、アイラをボートのような小さな船に乗せ、手紙と地図を渡した。
湾を渡った先の港で船を降りたアイラは、地図を頼りに医者を訪ねた。
宿の女主人の手紙を読んだ医者は、片言の英語でアイラに尋ねた。
「私に、患者のこと、教えてほしい」
アイラは、一言ずつ、ゆっくりと、バートンの様子を話した。
医者はカバンに薬を詰め、アイラと船に乗った。
湾を渡って戻る船を、港に並んだ大勢の人が見ていた。
「蜃気楼」
医者が呟いた。
「あの人たち、この船の蜃気楼、見ている」
見物人たちには、この船が大きく伸びる不思議な影のように見えているのだろうか。
アイラがそう思ったとき。
乗っている小さな船の縁が黒く染まり、水面から高く伸び上がった。
「えっ?」
あたりを見回したアイラを取り巻いていたのは、海ではなく、瓦礫の山だった。
あの絵に描かれていた遺跡だ、と、アイラは気付いた。
蜃気楼は、空気の温度差で光が屈折して見える遠くの景色だ。
人々が見ている蜃気楼の船の中に居ても、その中に入れるわけではない。
すべては、奇妙な錯覚か、でなければ妄想だ。
絵に描かれていた遺跡が自分の周囲にあるわけがない。
アイラは、頭を振って現実に戻ろうとした。
けれど、そのとき。
アイラは、白い服を着て派手な上着を羽織った少女を見た。
金色の髪を揺らして振り返った少女は、青い瞳にアイラを映し、アイラに呼びかけた。
「……」
何を言っているのだろう。
アイラは耳を澄まして、少女の方に身を乗り出した。
立ちこめていた煙が風で流れて、遺跡の中に、見覚えのあるものが見えた。
「あれは……ウェストミンスター宮殿と時計塔……?」
瓦礫の中に、タイプライターが落ちていた。
壊れていたが、アイラが使っているよりもずっと進歩的で洗練された型だった。
あちこちで火の手が上がっていた。
「なぜ、こんな有様に……?」
ロンドンは崩壊してしまったのだろうか。
遺跡だと思ったものは、ロンドンの残骸だったのだろうか。
あの絵に描かれていたのは、過去ではなく未来だったのだろうか。
目眩を起こしたアイラを、誰かが支えた。
「あぶない、あなた、海、落ちる」
はっと顔を上げると、医者が腕を掴んでいた。
周囲の景色は元に戻っていた。
少女もロンドンも消えていた。
「……どうもありがとう」
アイラはていねいに礼を言い、座り直した。
*****
医者の診察を受け、薬を飲んだバートンの容態は、少し落ち着いたように見えた。
一週間後、熱の下がったバートンを労りつつ、一行は宿を発った。
アイラの荷物は往路よりもかなり減っていた。
給金を貯めて買ったアクセサリー、ドレス、上着などを売り払ったためだった。
客船に乗り込む前も乗り込んだ後も、アイラは、1日のほとんどの時間を、バートンの世話に費やした。
帰途の航海は順調だった。
往路の最初に立ち寄った寄港地では、執事と執事の娘のメイドが合流した。
執事の足はすっかり回復していた。
アイラがふたりとの再会を喜んでいると、バートンが執事を呼んだ。
しばらくの後、執事がアイラを呼びに来た。
客室に入ると、バートンは床に跪いていた。
「旦那様!」
アイラが驚いて駆け寄ると、バートンはその手を取った。
穏やかな緑の瞳がアイラを見上げていた。
「アイラ、僕と結婚してください」
*****
客船が英国に到着すると、一行は、出迎えに来ていた大勢の人々に囲まれた。
バートンはロンドンの屋敷で手厚い看護を受け、アイラは伯爵家嫡男の婚約者としての教育に専念するようになった。
数週間が過ぎて回復したバートンは、アイラを庭園の散歩に誘った。
夏の終わりの空が深い青に澄み、楓の枝先の葉が、黄に染まり始めた日だった。
庭園に置かれたテーブルには、バートンの友人の子爵が待っていた。
3人が他愛のない話を交わしながらお茶を飲み終えると、執事が絵を持ってきた。
遺跡に立つ少女が描かれた絵だった。
「美しい絵ですね……景色も美しいが、この少女は……言葉に表せないほど美しい……」
子爵はひとめで絵を気に入ったようだった。
アイラは絵を見ることができなかった。
少女の青い瞳が、今も、自分を捜し続けているような気がした。
あの瞳に捕らえられたら、また、崩壊したロンドンの幻影に引きずり込まれてしまうかもしれない。
そう思うと、顔を背けずにいられなかった。
少女の視線から逃れるようにハンカチを額に当てたアイラは、そのしぐさが、テッドの婚約者が見せたものと同じだ、と気付いた。
そうだ、あのときの婚約者も、自分と同じものを感じていたのだ。
嫌悪ではなく、恐怖を……。
「僕はね、この絵の少女のモデルを捜して、日本まで旅をしたんだ。背景の遺跡は、日本の海に現れる蜃気楼だと思ったのでね」
「蜃気楼は見たのですか?」
子爵がバートンに尋ねた。
「いや、見えなかった。モデルも見つからなかった。だが、僕はあの旅で婚約者を得たよ」
バートンはアイラに微笑みかけた。
アイラも微笑み返した。
「僕は、この絵を君に譲ろうと思うんだ」
「この絵を、僕に……本当ですか?」
「君は、この絵が気に入ったんだろう?」
「ええ、とても……」
子爵は、熱を帯びた瞳で絵を見つめた。
バートンも絵を見た。
深い皺が刻まれたその目尻は濡れていた。
冷たい風が吹いて、梢が揺れた。
バートンはテーブルの上に手を伸ばし、アイラの手を握った。
アイラは、そっと、バートンの手を握り返した。
アイラはバートンを心から愛していた。
それでも、彼の緑の瞳を潤ませた感傷を分かち合うことはできなかった。
「僕も、この絵のモデルを捜します……必ず、見つけ出してみせますよ」
子爵が無邪気な声で言った。
バートンはゆっくりと頷いた。
「君は、そう言うと思ったよ。これは、そういう絵だから」
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