最終話

「去年のさ。かえで銀行の案件のことなんだけど。覚えてる?」

「そりゃあ、もちろん」


 昊が客から苦情をもらい、初めて任されたプロジェクトマネージャーを降ろされた案件だ。


「そういえばあれ、リリースの日取り一月に延びたんでしたよね。無事終わったんですか?」


 久我は、目前に広がるビル群を眺めたまま頷いた。


「そうですか……おめでとうございます。良かったです」


 久我はひと呼吸置いた後、「それでさ」と用件を続けた。


「一緒に働いた、クレセントデータの柊さんって、覚えてる? 女性の」

「ああ――はい」


 上品で柔らかな物腰の、だが指摘内容は鋭い容赦のない婦人だ。


「先月、プロジェクトの慰労会があったんだけど、そこで柊さんとちょっと話して。……お前が、PM降ろされたことについて」


 昊は眉を歪めた。


「いまさら?」

「お前さ――クレセントデータとかえで銀行の間では、大幅に遅れた進捗を、遅れてないって虚偽申告した若手PM、ってことになってるらしいよ」

「…………は?」


 まるで身に覚えのないことだった。


「虚偽って……嘘の報告なんて、俺、んなことしてないですよ」


 するわけがない。明らかに地雷な選択だ。


「だろうと思った。お前は、失敗しても素直に言う性格だしな。まあ、つまり、真相はさ――利用されたんだよ、お前。納期を延ばすための道具として」


 昊は開いた口が塞がらなかった。久我はうんざりするように首を傾けながら、説明する。


「同時進行してた他プロジェクトの一つに、すっげー遅れてるプロジェクトがあったの。俺も戻ってから、そこのプロジェクトの手伝いやらされたから、遅れてるのはわかってたんだけど。そのプロジェクトのせいで、納期延ばさざるを得なかったんだろうなぁっては思ってて。で、その理由付けだよな。そこのPMは、河嶋さん――クレセントデータのおっさんな。知ってるだろ?――と何度も仕事してる人で、まあ、河嶋さんと仲良しなわけ。で、プロジェクト炎上させちゃって、でもどうにかする大丈夫って主張してて、けど結局だめで。そこで重要なことはさ、納期を延ばすために、かえで銀行に説明する、もっともらしい理由だ。――その炎上させちゃったPMは、誰だって思うことだろうけど、自分の顔に泥を塗りたくなかったのね。そんで河嶋さんに、どうにかならないかなぁって話して、お前が体良く利用されたってわけ。『PMが初めての、協力会社の若い社員の、致命的なミスがありまして。ええ、もちろん我々の管理問題もありますが……』みたいな感じで、かえで銀行側には説明して……。表向きは俺らのプロジェクトの一部が遅れてるってことになってる。時間稼ぎにうまく利用させられたっていう」


 あまりのことに言葉が出なかった。いまでもはっきりと思い出すことができる。河嶋の一方的な批判に、高慢な態度、人間性を否定する言い回し――思い出すだけで胸が悪くなる。それらはすべて彼の計画の一部で、私利のために計算されたものだったということだ。言うまでもなく、昊の心情など、まったく視野に入れていない状態で、だ。


「たとえ一人が潰れても、代わりはいくらでもいるって考えの奴は、やっぱり普通にいるんだよな。……かわいそうだから、フォローしてあげてねって、柊さんが、ね」


 足に根が生えたように呆然としてしまった。あの出来事のせいで、こちらがどれだけ気落ちしたか。恋人と別れるきっかけにもなった。最悪の半年間を過ごす羽目になった。


「あっちもさ。真相はわかってるから、また普通に仕事に誘ってくれると思うよ」

「……それでまた、ミスをなすりつけられると?」

「それは、お前次第でしょ」


 久我は皮肉を笑うように返す。


「周りの信頼を、どれだけ勝ち取るかによるんじゃない? ……すぐには、いかないだろうけどさ」


 河嶋は、昊の些細なミスをきっかけに、昊を利用する案を思いついたのかもしれない。河嶋本人に確認する以外、真実はわからない。柊自身も、気にかけてくれたようで、実際には自社内の関係円滑のため、真相を知りながらも昊を切る選択をしている。


「とまあ、話はそんな感じ。近々またPM任せるからさ。そんで今度こそ成功したら、秋か来年にはお前を係長になれるよう推すつもりだし」


 昊は苦虫を噛み潰したような顔をした。


「なんだよ。うれしそうにしたらどうだ。給料も上がるぞ?」

「……上がった分、さらに会社に命を吸い取られるんだろうなと思うと。係長以上は、社長主催のゴルフ大会に参加しなきゃだめだし」

「それはまあ、企業で働くっつーのは、そういう部分は仕方がないところだよお前」

「それで久我さんみたいに、仕事ばっかで家庭崩壊しても、本末転倒っていうか」

「家庭崩壊なんてしてねーよ! 年末に、嫁と娘を海外旅行に連れてったから! たまの連休だって、家族サービス盛大にしてるからっ」

「……部長や課長たちが、俺の昇進許しますかね。俺が苦情もらって休日帰社した時、久我さん、課長に怒られてたじゃないっすか。『伊桜をPMにアサインするのは、まだ早かったんじゃないのー?』って」

「……聞いてたのかよ」

「時間より、早めに会社に着いちゃったもんで」


 久我が肩をすくめる。


「上は気にすんな。柊さんの話を、そのまま伝えといたから」


 顧客の内部事情を明かしてしまっていいものなのだろうか。しかし昊が気にかける範囲でもあるまい。昊は「はぁー」と大きく溜め息をつきながら、屋上の手すりにうなだれた。


「落ち込んでんの?」

「いや、なんつーか……。働くって、疲れるなぁと思って」


 生きていく戦地は、がんじがらめの秩序の中だ。上位企業から仕事をもらうという、企業の、そして社会の構造には逆らえない。理不尽でも、自分の中でうまく消化し、やっていくしかない。


 それでも、そんな理不尽がすべてではないことも知っている。柊のように、可能な範囲ながら善意で気遣ってくれる者もいる。久我のように、認めてくれる人もいる。雪葉のように、自分を思いやってくれる存在もある。


 きっとみんな、小さな優しさや嬉しさを大切に拾い上げながら、生きている。


「疲れ溜まってんなら、ぱーっとカラオケでも行くか?」

「……すんません。遠慮しときます」


   ×××


 また訪れるようになった昊のマンションの部屋で、雪葉はローテーブルの前に座り、資格取得のため教本と対峙していた。昊は後ろのソファに横になり雑誌を読んでいる。受験でも散々に勉強し、こりごりだったが、社会人になってからも結局勉強し通しだ。生涯勉強、なのかもしれない。


「――そういえば、雪葉と会ってから、一年か」


 雪葉は蛍光ペンの動きを止めた。


「そうですね。会ったのは去年の二月で……雨宿りにいきなり部屋に押しかけられたのは、三月なので」

「押しかけた、って」

「押しかけたのと一緒です。……ああいうのは、ほかの女の人にはしちゃだめですよ」

「しないよ。あれは雪葉が相手だったから。ほかの女だと、そのまま関係を持ってしまいそうだし」


 雪葉は若干目を鋭くして、昊を振り向いた。


「それは、私だと対象にならなかったということですか」

「いや、そうじゃないから。流れで絶対にしないだろう、まじめな性格だと見てたって意味だから」


 雪葉は昊の主張にひとまず納得することにして、教本に向き直る。


 しかし昊の雪葉への認識は、誤っている。感情に任せてしまう時だって、多々ある。特に、昊に求められるまま流されてしまった夜のことで、大いに思う。


 集中し直そうとしたところで、腰に手が回ってきた。気づけばソファから下りている昊に、後ろから抱き締められる。二人の体がぴたりと密着した。


「こ、昊くんっ」


 昊は、雪葉の首筋に顔をうずめ口づけた後、体を押し倒した。ラグマットの上で、二人の体がもつれるように重なり合う。始まったキスを、雪葉はだがすぐに中断させた。


「だ、だめです! 私、来月、応用情報技術者試験を受ける予定なんですから! 今日は、勉強するって伝えたはずです……!」


 情報技術者は、システムエンジニアならば取得を推奨される国家資格だ。基本と応用があり、基本のほうはキャリアスタートとして学生のうちから取る人もいる。


「基本だけ持ってれば、とりあえずいいんじゃない?」

「応用も取っておきたいんです。……離れてください」


 昊は不満そうに上から退いた。


 これは、交際をするにあたっての雪葉なりのけじめだった。やらなければならないことをやった上で、恋愛をする。恋愛に溺れ過ぎないよう気をつける。


 再び雑誌を読み始めた昊をちらりと見て、だがしかし、少し可哀想かなとも考えた。雪葉とて、昊と触れ合うのが嫌なわけではない。せっかく復縁したのだ。それに勉強は、継続及びめりはりが大事だ。


「……二時間だけ」


 雪葉の声に、昊が雑誌から顔を上げる。


「二時間だけ、とりあえず集中して勉強します。そうしたら、一緒に遊びましょう。……それまで、待っていてもらえますか?」


 喜ばしい提案に、昊は心から嬉しそうに、優しく目を細めた。


「うん、待つよ。――時間は、じゅうぶんあるから」










――「上司が会社に家のカギを忘れたと言うので」end ――




   ×××


お読みくださり、ありがとうございました。

その後のお話をいつか書きたいなと思っています。


   ×××


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上司が会社に家のカギを忘れたと言うので 砂山むた @sunamuta

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