第3話

 あれから一週間が経過したが、先輩はベンチには来なかった。

 私は相変わらず毎日通い続けた。この前とはすっかり立場は逆転している。

 ベンチに座って月を眺め、一定の時間経ったら、緑地を去る。そんな日々が続いた。


 夏は半ばを迎え、ようやく暑さもピークに達した時だ。


「ずっとこんなところにいたら暑さにやられるよ」


 額から垂れた汗を首に巻いたタオルで拭うと、ふと後ろから聞き覚えのある声がした。


「こんばんは」


 私は喜ぶこともなく、こちらにやってくる秋月先輩に顔を向けた。彼はムスッとした表情を私に向けていた。


「もう来ないでって言ったのに、なんでいつものように来るのかな?」

「よく知ってますね。なんだ、先輩もちゃんと来ていたのか」

「そんなに僕の就活を応援したいの? 君には何の意味もないでしょ」


 先輩は心から湧き上がる怒りを抑えられない様子で私に問いかける。私は彼から視線を外すと池に映る月を見た。前に彼が言ったとおり、池に映る月は綺麗だった。


「意味はあるんです。先輩に関係はないから黙っていましたが、黙ったままでは納得してくれないですよね。だから話します。私は自分の中にある死んだ妹への念を晴らしたいんです」


 私の言葉で場が凍りついたように静寂が走る。まるで呼吸すらも許されないような静けさだった。


「妹は受験終わりに部屋で自殺をしたんです。彼女は不安障害を抱えていました。試験は緊張で良い結果が出せなかったと言っていました。将来に対する不安が障害の影響でさらに増し、追い込まれて死んでしまった。私は妹がそんな状況だったにも関わらず、見て見ぬ振りをしてしまいました。もしあの時、目を逸さなければきっと今も妹は生きていたんじゃないかってずっと後悔しているんです」

「……それが僕と何の関係が?」

「先輩も抱えていますよね、不安障害」

「……」


 沈黙は肯定。やはり、私の予想は正しかった。


「友人から前のカノジョに暴力を振るったと聞きました。優しそうな先輩がそんなことをしたのに驚きましたが、先輩がカノジョとの関係に対して不安に駆られてやったとなれば少しだけ納得できます。想像力が人一倍強いんですよね。月を直接見れないのはムーンマトリックスを気にしているからですか?」

「……よく分かったね。君の言うとおりだよ。僕は精神疾患を患っている。だから面接は苦手なんだ。『落ちたらどうしよう』という邪念が不安を生み出して、本番になると思うように受け答えができなくなってしまう。邪念が現実となり、社会に否定され続ける自分が嫌になっていた。受かることのない僕を君が見放してしまうんじゃないかと思うと怖くて。それならいっそ僕の方から見放したほうがいいと思ったんだ」

「懸命に頑張ろうとしている先輩を私は見放しませんよ。この綺麗な月に誓います」

「……本当に信じていいかい?」

「大丈夫です。今年受からなかったら、今度は私も交えて来年2人で頑張りましょう」

「……分かった。君を信じるよ」


 緊迫した空気が緩まり、私たちは仄かに笑みを浮かべる。それから何だかおかしくなって2人して高らかに笑った。


 こうして私たちの蟠りは解け、また二人で練習を始めることとなった。


 ****


 夏が過ぎ去り、秋がやってくる。緑地は再び涼しさを取り戻していった。 

 季節とは反対に私と先輩は相変わらず、就活の特訓をしていた。


 瞑想による精神の強化、手持ちアロマでのリラックス効果、緊張を緩和できるおまじない、持てる全ての力を使って面接への対策を講じた。一つの面接が終わっても、休む暇なく私たちは夜の緑地で打ち合わせをする。


 先輩の面接に対する感触をヒアリングして、面接官の反応が悪かった部分について検討する。話す内容を変えたり、話し方を変えたりして、あとはそれを自然に言えるくらいまで何度も何度も練習した。多少の緊張は練習量でカバーができる。


 今日もまた2人で緑地に集合し、次に受ける企業の情報をサーチしていた。


「っ!」


 不意に秋月先輩の表情がパッと開く。どうやらスマホに通知が来たようだ。

 先輩はスマホのスリープ状態を解除して画面を灯す。私は先輩の顔に自分の顔を近づけた。シャンプーのいい香りが鼻孔をくすぐる。


 スクリーンの通知には『結果に関するお知らせ』という件名のメールを受信した旨が記載されていた。私たち2人は同時に顔を見合わせる。互いにすぐ近くにいたことを忘れており、先輩の吐く息が私の顔にあたる。


 私たちはすぐに体を離し、深呼吸をした。心なしか先輩の顔が赤くなっている。そういう私もきっと同じ状況だろう。体が熱くなっているのが分かる。秋の涼しさが漂っているため暑さのせいではない。


 再び隣に並んでスマホの画面を覗く。

 先輩はロックを解除し、メールアプリを開くと先ほど送られてきたメールを開く。

 私はまるで自分のことのように胸をドキドキさせながらメール内容を上から眺める。


『慎重に検討させていただいた結果、採用させていただくことになりましたので……』


 その文言を見た瞬間、心臓が飛び出しそうになった。

 もう一度2人して顔を見合わせる。少しずつ実感が湧き上がっていき、気づけば抱き合っていた。前に感じられなかった秋月先輩の体温が私へと伝わってくる。


 喜びに浸ったことで距離感がバグっていたのか、ふと我に返ると互いに先ほどの距離が嘘のように遠くへと離れた。今度は違う意味で心臓がドキドキしてしまっていた。


「無事合格できてよかったですね」

「うん。それもこれも詠月のおかげだよ」

「私は別に……」


 謙遜しようと思ったが、断言することができなかった。ここで否定してしまえば、先輩にも、妹にも失礼をしてしまうと思ったのだ。代わりに私はふと視線を逸らして空に浮かぶ月を見る。


 もう何百、何千回も見た月。それでも相変わらず、綺麗に輝いていた。


「先輩、漱石の有名な一節って知ってますか?」


 急な話題の転換に対して、うまく反応することができなかったのか、しばらく静寂が続いた。ゆっくりと「うん」と呟く先輩の声を聞きながら私は言葉を続ける。


「漱石は早くから禅に興味を持っていたんです。だからきっと彼は月輪観を知っていたのではないかなって思うんです。心を満月に見立ててあのセリフを発したのかもしれない。そういう解釈もできるんじゃないですかね?」

「それってつまりどういうこと?」


 私は視線を満月から先輩へと向ける。

 そして、恥ずかしさを抑えながらも口を開く。


「月が綺麗ってことです」


 先輩は私の言葉を聞くと、パッと瞳を開く。

 今度は先輩が私から視線を逸らし、池ではなく、空に浮かぶ満月を見た。


「うん。とても綺麗だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編】二つの月が輝く場所で、あなたと二人過ごした日々 結城 刹那 @Saikyo-braster7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ