第2話
夜。私は前と同じように散歩ルートを延長し、緑地へと向かった。
冬から春に切り替わるこの時期は気温の調整が難しい。夜の自然は思っていた以上に寒く、私は顔を服に埋めた。部屋に漂った線香の香りが付着したのか呼吸すると煙臭かった。
「やっぱり、いた」
緑地の中心部まで来ると、あの時と同じように秋月先輩はベンチに座っていた。
彼の服装は昼に見た時と変わっていなかった。見た感じは薄手のコーデだが、彼の表情や仕草からは寒そうには見えない。私はいつもと同じ足取りで彼に近づいていく。
「お久しぶりです」
「また君か。ここ1ヶ月はまったく来なかったのに、今日はどうしたんだい?」
「ちょっとだけ秋月先輩に会いたくなったので」
「それは口説いているつもり。僕の名前をよく知っているね?」
「先輩は知らないかもしれないですけど、私たちは同じ大学なんです。今日、先輩の姿を講内で見ました。名前は友人から聞いたんです。ちなみに私の名前は美影 詠月です」
「そうだったんだ。ごめん、僕は気づかなかった」
「いいですよ。急いでいた感じでしたから。隣、座ってもいいですか?」
秋月先輩は真ん中にかけていた位置を右端へとずらす。私はベンチの左端へと腰掛けた。
右端と左端。私たちの間に空いたスペースが今の私たちの関係を示していた。先輩も私も馴れ馴れしいフレンドリーな性格とは程遠い。
「それで、大学で僕を見たからまた会いたくなったの?」
「まあ、そんな感じです。前はスーツだったのに、今日は私服なんですね」
「うん。前会った日は会社の面接があったからね」
「就活、大変そうですね。もう内定は貰えたんですか?」
「悉く不採用だよ。社会が受け入れてくれないみたいだ。でも、そういう学生は多いって聞くからまだ心身を保っていられる」
「私も来年は就活をしなければならないので、それを聞かされると怖いですね」
「もう2度とやりたくないよ。とは言っても、まだ絶賛就活中だけどね」
自虐するように先輩は皮肉を言ってはにかむ。すぐに笑みを消すと、何かを不安がる様子で池に浮かんだ月を眺める。私は彼とは反対に空に浮かぶまん丸な月を眺めた。この場所には天と地それぞれに月がある。
春の星空は、冬に比べて湿度の影響で綺麗さが欠けている。それでもこの場所から見える景色は歩く途中に見る景色よりも美しくて趣がある。私は春の空気を強く感じるように深く息を吸い込んだ。肺に空気が溜まるのを感じながら力一杯声を漏らす。
「では、1分で自己PRをしてください!」
木霊する様に響き渡る私の声に、隣にいた秋月先輩が驚いて振り向く。
私は口角を上げてニヤリと笑う。「さあ、早く答えて」と目で先輩に訴えかけた。
「いきなり何?」
「私が面接の練習相手になってあげようと思いまして。対人試験って2人で練習した方が身につくじゃないですか」
「ふっ。美影さんは変な人だね」
強張っていた先輩の表情が柔らかくなる。それを見て安堵するように残っていた空気を吐いた。
「それで、自己PRはどうなりましたか?」
「本当にやるんだね、えーっと」
秋月先輩は姿勢を正して私を見る。彼の瞳が私の瞳に交差して少しドキッとした。だが、浮かれてはいけないと私もキリッとした表情をして姿勢を正した。模擬ではあるもののこれは面接なのだ。真剣に取り組まなければいけない。
こうして、私たち二人はこの池で面接の練習をするようになった。
****
「秋月先輩、月輪観(がちりんかん)って知っていますか?」
面接を明日に控えた日、私はネットで調べた就活に役立つ知識を先輩に話した。
「知らない。言葉からも連想できないね」
「瞑想の一種なんです。胸の中に清らかに輝く満月をイメージして、それを徐々に広げていきます。人、国、地球、最終的には広大な宇宙になるくらいまで広げて、宇宙と一体になるのを感じるんです。瞑想ですので、本番前にそれをすれば落ち着いて集中できるかと思います」
「そんなのがあるのか。知らなかった。ありがとう。やってみるよ」
「毎日ここで嫌になるくらい月を見ていますから。きっとすぐにイメージできるかと思います。明日、そして来週の面接頑張ってくださいね」
「美影さんにずっと付き合ってもらっているんだ。ここらで良い結果を残さないと僕の面子が潰れるよ」
先輩はいつも以上に身の引き締まった様子で私に目を向ける。先輩の気合いに力を添えるようにして私は今一度「頑張ってください」と励ました。
****
合格が出るまで来る日も来る日も、私は緑地に通っては先輩と面接の練習を行った。
この練習は来年に就活を控えた私にも非常に為になる練習だった。先輩とやりとりをしていく中で、私たちの友情は高まっていった。互いに笑顔になる回数が増えたのが証だろう。
天と地の二つの月が存在する中で、美男の秋月先輩と二人きり。小さい頃に夢見ていたシチュエーションに私は胸をときめかせていた。ただ、面接の練習をしていたからかベンチに座る私たちの距離は一向に縮まることはなかった。
季節は春から夏に変わっていく。
涼しかった自然は蒸し暑さを際立たせ、穏やかだった虫の声はうるさくなった。
そんなある日のことだ。緑地にやってくると先輩はいつもの穏やかな笑みを捨て去り、悩ましい表情を向けて池の月を眺めていた。
「こんばんは。どうしたんですか?」
私はいつものようにベンチの右端に座ると、持っていた『就活の参考書』を取り出そうとバッグに手を入れた。
「美影さん、もう来ないでくれるかな?」
不意に放たれた一言。バッグの中を右往左往していた手を止めると先輩へと顔を向けた。彼の顔は池を向いたままだった。大事な言葉を私を見ることなく告げたことに少し腹が立った。
「急にどうしたんですか? まだ就活は終わってないじゃないですか?」
「だからだよ。これ以上、美影さんに迷惑はかけられない。だからもう来ないでくれ」
先輩は依然として私の顔を見てくれなかった。思い悩む彼の姿に過去の記憶がフラッシュバックする。気づけば私は今までまったく縮まらなかった2人の距離を一気に詰めようとしていた。
「まだ夏ですよ。諦めないでください。先輩なら絶対にできますから!」
「無理なんだよ。どれだけ受けてどれだけ否定されたと思っているんだ。僕にはきっと無理なことなんだ。社会に出るだけの力が僕にはない」
「そんなことないですよ。毎日ここで遅くまで頑張ってきたじゃないですか!?」
「頑張ってきたからだよ。頑張ってるのに努力が実らないんだ。ここではちゃんと答えられるのに、いざ本番になると頭が真っ白になる。動悸がして、吐き気を催しそうになる。きっと僕には努力なんて意味がないんだ」
「そんなこと……」
距離が縮まったことで手を伸ばせば先輩の肩に触れることができるようになっていた。
だから私は励まそうとして自然に彼の肩に手を触れた。しかし、彼の体温を感じるまもなく私は腕を弾かれた。彼の鋭い目つきが私を睨みつける。
いつしか聞いた友人の言葉が記憶から溢れ出た。
『前のカノジョに暴力を振るったらしいよ』
私はそれをされるのかと思って身を震わせた。
だが、彼は我に返ったように瞳孔を広げると、勢いよくベンチから立ち上がり、私との距離をとった。
「ごめん、今日はこれで終わりにしよう」
そう一言残して足早にベンチから去っていく。
私は彼を見るだけで追いかけることができなかった。もし追いかけたら、今度こそ彼に痛い目に遭わされる。そう思うと、体が防衛本能を働かせ動くことができなかった。
スーッと深呼吸をして精神を整える。こんな状況でも月は綺麗に輝いていた。
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