捌 強くある者
「琴さん伏せて‼︎」
伏せた直後、村望様が放った水流と何かが頭上でぶつかり合う。轟音が木々の枝を落とし、土煙の怒涛が襲い掛かって来る。辺り一帯に焦げたような、だけど冷たい臭いが広がる。
「……な、何が起き——」
言葉が途切れた。
ほんの五間ほど先に、首があり得ない方向にねじ曲がった人影が浮かんでいたのだ——。形こそ人間だが土気色の顔、だらりと垂れた手足、血の涙を流す白目は、それがこの世ならざる者であることを如実に物語っている。
〈縺雁燕縺蝗縺蝎?閨槭縺繧縲縺逵溷溘證縺縺繧縺翫縺……〉
ねじって引き裂いたような口からは、気味の悪い笑い声が漏れている。
「何と悪趣味な式神……。おそらく、相馬国の秘密を探る敵国が仕掛けたものでしょう」
「……っ」
渡良瀬の言葉がこだまする。『水沢村は、相馬国における禁忌中の禁忌』——。
村望様が袂から通行手形を取り出し、私の手に握らせた。
「私がこれを引き受けている間に、琴さんは全力で馬を走らせてください。心配なさらず、啓松を護衛につけますし、次の結界守の所までは通行手形が案内しますから」
あくまで目線は式神を捉えたまま、霊声で村望様が呟いた。でも、と言いかけた口は勝手に閉じた。周囲に漂う気迫の鋭さ、その重さで悟ったのだ。私がいても足手まといなだけだと——。
〈縺輔、縲姶縺蟋繧医……!〉
式神の口からどす黒い炎が放射されると同時に、村望様が叫んだ。
「
上空から何条もの瀑布が落ち、炎を絶って轟音と白い飛沫を辺りに散らす——煙幕だ。
「琴さん、今です!」
「すみません……ありがとうございます!」
馬に飛び乗り矢のように走らせる。しかし背後からは、二人の術のぶつかり合う恐ろしい音が追いかけてくる。視界の端が時折赤く光るたび、啓松が枝を振り払って炎を散らしてくれている。涙で滲む視界の中、鳥になった手形だけをたよりに森の中を駆け抜けていると——
「ああ、いたいた!琴殿、こちらでございます————!」
前方に、鮮やかな緋色の袈裟を纏った僧侶が現れた。全身から放たれる凄まじい霊気が、暗がりに浮かぶ松明のように、大きくあたたかく見える。
僧侶の手招く方へ一目散に駆け込み、勢い余って落馬しかける。受け止めてくれた啓松の枝の中で、私は情けなくも震えていた。
「……っはぁ……はぁ……」
「突然の来襲、さぞ恐ろしかったことと思います。よくぞ逃げ切りました」
優しい言葉に、私は幼児のように丸くなり頷くことしかできない。逃走中ずっと感じていた背後の熱、鼻にまとわりつく重たい瘴気の感覚がまだ残っている。
「……で、でも、村望様が……私を逃すために魔と戦って下さって、だからそれで──」
震えて回らない舌を動かし、必死に伝える。すると僧侶はすべてを理解しているかのように頷き、空中に霊力の円を描き始めた──遠方の相手の様子を見られる『霊鏡』だ。
「心配御無用ですよ。村望殿は極めて優秀な陰陽師、あの程度の式神では彼女に傷一つつけられません──御覧のように」
僧侶が霊鏡に手をかざすと表面が揺らぎ、塵と消えゆく式神を背にする村望様が浮かび上がった。その身には擦り傷どころか、一点の土埃すらついていない──完全なる圧勝だ。
「村望様!」
思わず安堵の声を上げると、彼女がに霊鏡に気付いたように駆け寄ってきた。
『琴さん!もう御無事で何より……明照寺に辿り着けたのですね』
心底ほっとしたような表情を浮かべる村望様。
「御苦労様です村望殿。この先は、この藤寂めが琴殿を無事お送り致しますゆえ」
僧侶──藤寂様が優しくもよく通る声で言うと、村望様は穏やかに頷き霊鏡から消えた。
「言った通りだったでしょう?彼女は強いと」
はい、と私は呟く。
「本当にお強い方です……。どうすれば私も、彼女のように強くなれるのでしょうか?」
ほとんど無意識のうちに、口からこぼれ落ちた言葉だった。殺意を微塵も隠さない外敵、まだ体内に残る奇襲の恐怖。そして絶えず、暴露と襲撃の危険に晒されている水沢村──。たとえ代役でも結界守を務めるのなら、私も相応の強さがなければならないのに。
無茶な問いかけだが、藤寂様は莞爾と笑って答えてくれた。
「その言葉を、ずっと胸の中に留めておきなさい。そうすれば、日々の中に解決の鍵が見つかりますよ」
「……具体的なことは、教えて頂けないのですか?」
「貴女が求めるならばお教え致しますよ」
相変わらず藤寂様は、あたたかな笑みを向けてくる。
「……いえ、やっぱり自分で考えます」
彼も「それがよろしい」と深く頷いた。そして右手をサッと動かすと、風景が紙の如くめくれてその先に明るい村の様子が見えた。
「それでは、いざ参りましょう——水沢村へ」
逢魔が時の帰り方 賽乃目れいか @ACT2
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