漆 除悪結界

最外殻の渡川結界を無事に抜け、次いで除悪結界へと向かう。渡川結界の通行証明は鳥の形になり、私達の少し先を飛んでいる。一本道を抜けた後は鬱蒼とした森の中を入る。風が葉をざわつかせる中を進むが、さっきから寒気がする程に霊気を感じない。

(風も吹いているし、ここにも人払いの術が?)

霊術使いにとって、霊気は空気と同じくらい『あるのが当然』のもの。それを全く感じないこの森では、なんだか体の一部をもがれたような感覚になる。導いてくれる紙の鳥がいなければ、前後不覚にでも陥ってしまいそうだ。

鳥だけを見て進んでいると、突如、鳥が普通の紙に戻ってしまった。

「あっ!だけど、紙に戻ったってことは……」

目の前には李の木——ひらひらと舞う紙を掴んでかざすと、紙は白い炎をあげて燃えてしまった。それと同時にあたりの景色がぐにゃりと歪み、立派なお屋敷が現れた。

しかし門番が人ではない。左側は雲を一纏めにしたような風貌で、むき出しの牙に刺々しい黒い角。空中に浮かぶ真紅の両手は、互いに鎖でつながれている。一方右側は、上半分こそ青い着物をまとった女性だが、下半分は曲がりくねった松の老木だ。


(な……何だこれ——⁉)


強烈すぎる見た目に度肝を抜かれていると、門が開いて一人の女性が出てきた。赤い藤と青い杜若が描かれた、薄鼠の着物。帯は波地紋、白と金糸の明るい地色に、五色の扇が華やかに舞っている。

「この度は早朝より、ご足労いただきましてありがとうございます。わたくし、除悪結界の結界守を務めてします、治瀬真己(ちせ・まき)と申します。貴方が琴様ですね?」

「は、はい」

治瀬様の涼やかな声に、思わず背筋が伸びる。

漆黒の髪に切れ長の瞳。小柄ではあるが、凛と佇む姿は白樺の精のように美しい。それでいてどうにも惹きつけられてしまうのは、何故だろう。

「あの、治瀬様。こちらのお二方は……?」

「ああ、それはわたくしの使役する式神です。右は啓松(けいしょう)、左が慾烟(よくえん)」

啓松が一礼する。

「式神、ですか?」

「陰陽師が使役する鬼や神のことですよ。自分で作り出したり、野良の式神を調伏したり……。式神を見るのは初めてですか?」

私は頷く。ここへ来てから、何もかもが初めてで——新鮮だ。

「お困りのことがあれば、いつでも遠慮なくご相談して下さいね。今日から貴方は水沢村の者、わたくしは村の長でもありますゆえ」上品に微笑む治瀬様。

「結界守だけでなく、村長もお務めになっているのですか⁉それって、とても大変なことでは……」

村長の繁忙さは、月花の話でよく聞いていた。それに加えて結界守まで……と絶句する私に、治瀬様は落ち着いた声で言った。


「確かに大変ではあります。しかしわたくしが管理する除悪結界は、村に害を成そうとする者や鬼神の力を利用せんとする者を追い返し、村を護る結界。そのおかげで皆が平穏に暮らし、笑顔でいられるのなら——どれほど過酷でも、わたくしは、己の役目を誇りに思います」


「——!」


 治瀬様の笑みにはっとする。確固たる覚悟と信念、一本芯の通った強さが人の心を打つのだ。高潔なまでの責任感と正義感に、拭い切れなかった心の垢が消えてゆく。

 治瀬様の白い手が書状を差し出した。

「こちらが除悪結界の通行証明です。よろしければ、次の結界守の元までお送り致しますよ」

「良いのですか?お願いします!」

治瀬様が慾烟に乗る。留守は啓松が預かるようで、松の枝が揺れた次の瞬間には、村長邸は消えていた。

(すごい、一瞬で……)

木立の中を駆け抜けながら、治瀬様の横顔を見る。使役している二体の式神からは勿論、治瀬様からも強い霊気を感じる。結界守も務めるくらいだ、陰陽師の中でも凄腕に違いない。

「治瀬様、先程から気になっているのですが……陰陽術とは何ですか?」

あまり渡良瀬様を質問攻めにするのは気が引けて、さっきは聞けなかったのだ。治瀬様は器用に体の向きを変え、私の方に居直った。


「そうですね。陰陽術とは元来、天文学や暦の知識を使って日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術を指しています。戦しかし今の世の中では、戦闘術としての側面が濃くなってしまい、『陰陽五行論を基礎とした術』全般を指すようになっていますね。陰陽五行論というのは、すべての事象は『陰』と『陽』、そして木火金土水の五要素の組み合わせによって成り立つとする論のことです」


「五要素の組み合わせ……。神道とは、世界の区切り方が違うのですね」

「ええ。そして五行論には『相生』と『相克』の関係性があります。そうね、こちらをご覧になった方がわかりやすいかしら」

 治瀬様が何かを呟くと、空中に小さな木が現れた。次の瞬間木は燃え、残った灰の中からは輝く金が。それは柔らかく溶けて器になり、水をたたえたと思うと、水面から小さな木が伸びてきた。


「木は火を生み、火は土になり、土から金が生まれ、金の器に水は溜まり、水が木を生長させる——これが『相生』です」


「おお~……!」

流れるように変わりゆく景色に、思わず感嘆する。


「『相剋』はその反対——木は金に切られ、金は火に溶かされ、火は水に消される。その水は土に堰き止められ、土は木に養分を吸われるのです」


木を抱いていた器が斧に変形し、木を切り倒すも斧は炎に溶かされる。水がその炎を消して、彷徨う水を土塊が堰き止めると、土を割って小さな木が芽生えた。

私は感嘆する。

「一人で様々な属性が使えるのですね。神道だと、生まれつき持っている属性の術しか使えなくって」

「ですが神様の力を借りる分、霊術の方が練度が高まりやすいと聞きますよ。琴さんは空属性だそうですね」

「はい。でも保有者が少なすぎて、どんな術が使えるのか全然分からないんです。それに、珠紀様が仰った『鬼神の力を相殺する何か』もよく分からないですし……」

治瀬様が首を横に振った。

「心配ありませんよ。私も初めて会った時から、貴方はどこか違うと感じていましたから。それに、あの珠紀様の下で一年間、結界守として務めるのでしょう?焦らずとも自分の力が明るみになってきますよ」

治瀬様の力強い言葉には、強い説得力があった。ここまでの道のりで少しずつ補強されていた心の支柱の、最後の一本がようやく整った気がする。

私は、自分でも驚くほど晴れ晴れした笑顔で言った。

「そうですね!私は、私の出来ることを全力で果たさせていただきます!」

その心意気ですよ、と治瀬様が微笑んだ時、視界に日の光が差した。

「着きましたよ。ここが水沢村です」

「ここが、水沢村——!」

小さいながらも青々とした田園。瑞々しく色鮮やかな実が輝く果樹。点々と民家が立ち並び、村人達が和気藹々と暮らす姿は普通の村と変わりない。そして村の最奥部には山が堂々と座している——鬼神を封じるヲシエ山だ。今日から暮らすことになる場所の気迫に、喉が鳴る。

しかしよく見てみると、村の景色は霞がかったよう——これが除悪結界なのだろう。

「治瀬様、これが除悪結界ですか?」

「いえ。除悪結界は、もう通り過ぎましたよ」

「えっ、いつの間に……⁉」

どうやら、村への悪意がない人間は感知できない仕組みらしい。

「じゃあ、この結界は……?」

「そちらは水沢村結界といって、羅焔の強力な瘴気を弱め、村外からの魔の侵入を防ぐ役割を持っています。結界守のいらっしゃる明照寺(めいしょうじ)が、ちょうど右手に——」

治瀬様の言葉が途切れた。細筆で鋭く引いたような眉が、険しくひそめられた。

「……琴さん、離れてください。結界の“目”が広がっている」

「目、ですか?」

「結界とは霊力で籠を編むようなもの……当然、網の目が小さく、それを構成する霊力の強い方が強度は高まります。羅焔大結界の結界の目は、いずれもノミ一匹すら通さないほどに小さく堅い。なのに、その目が……一寸にまで広がっている」

「!」

その重大さに気付き、思わず身構える。

一寸といえば親指の幅ほどの大きさ。ノミすら通さないほど小さな目がここまで広がるなんて——。

「伏せて琴さんッ!!」

言われるまま馬上に伏せた瞬間、頭上で爆裂音が轟いた。

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逢魔が時の帰り方 アクア @ACT2

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