因縁尽

白河夜船

因縁尽

 夕刻の赤い光が射し込む部屋に、兄の死体が転がっている。

 どうしてこうなったのかは分からない。分からないが、兄を滅多刺しにしたのは確かに俺で、つまるところ兄を殺したのは俺なのだ。俺は感情がいまいち籠もらない平坦な声で、

「当然の報いだ」

 と呟いた。

 何が当然の報いなのだろう。誰にとっての当然の報いなのだろう。

 血に濡れた包丁が手から滑り落ち、視界がふつりと暗転する。

 





 目を開ければ、今日も10月■日だった。

 二日酔いの頭痛と吐き気のせいで起きて早々ふらついている俺に、兄が呆れた様子で烏龍茶のボトルを差し出す。

 たまたま近い大学へ通っている。生活費を節約できる。それだけの合理一辺倒な理由で、同じアパートの同じ部屋に俺は兄と二人で住んでいた。上京に際して兄から同居の提案を受けた時、一人暮らしの気楽さ、面白さを諦めて「まぁ、いいか」と抵抗感も嫌悪感も特になく暢気に承諾できたのだから、兄弟仲は別段悪くないのだろう。

「昨日遅かったけど、何してたんだ?」

「サークルの飲み会。二軒目から先の記憶がない……」

「飲めるにようになって嬉しいのは分かるけどね、無茶な飲み方するもんじゃないよ」

 酒は飲んでも飲まれるな。

 口遊むように呟いて「ほろ酔いくらいがちょうどいいんだ」と兄は軽く肩を竦めた。身に覚えでもあるのかもしれない。遠い目をして、何かしら思うところありそうな様子である。

「今日休みなんだからいいだろ、別に」

「よかないよ。同居人が伸びてると、こっちは色々面倒なんだから。それにお前さぁ、この調子だとその内きっと酷い目に遭うぜ」

 もう遭っている。

 言いたかったが声にはならず、俺は冷えた烏龍茶を一口飲んだ。始まりの日の思考と行動を心身が几帳面になぞる様を、片隅でぼんやり客観視している自分がいる。どうしてこんなことになったんだろう。

 考える自分は肉体から切り離されており、現状を改善することも何かしら未来への対策を講じてみることも叶わない。

「じゃ、バイト行ってくる。薬は適当に物食ってから飲めよ」

 部屋を出て行く兄の背中に、俺はキッチンから「おー」と気の抜けた声を返した。






 全く唐突にこうなるわけがない、と思う。

 だからきっと理由があり、きっかけがあるのだ。それが何かと考えると、昨晩――酒で記憶を飛ばしていた間――がどうも怪しい。良くないことを、悪いことをしでかしてしまったのではないか。しかしなにぶん記憶があやふやなため、自分がどこへ行って何をやったのか正確に把握するのは難しかった。

 漫然とスマホを見た。メッセージアプリに新しい着信がある。サークルのグループチャットに写真がアップロードされていた。


 藪に囲まれた廃墟。昭和期ぐらいに建てられたと思われる大きな家だ。

 外を写した写真。

 中を写した写真。

 スマホのものだろう。ライトに照らされた室内は埃が厚く積もっている割に、三和土に靴が転がっていたり、居間の座卓に湯飲みや急須が置かれていたり、鉛筆や石鹸、タオルなど使いかけの消耗品が残っていたりと妙に生活感がある。台所。風呂。トイレ。客間。廊下。女性のものらしい部屋。仏間。書斎………

 最後の写真は、真っ黒な和室だった。畳も壁も机も簞笥も、部屋にあるもののほとんどが黒ずんでいる。何かで汚れて、そのまま長年放置されたような。


 二階だ。


 咄嗟に思ったのは、直前に階段の写真があったから――それだけではない。写真の場所を見知っている気がしたのである。ひょっとすると酔っている間に、俺はこの廃墟へ行ったのかもしれない。だから既視感を覚えるのかもしれない。グループチャットを眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

 写真の送り主は一学年上の先輩で、


『なんか写真フォルダに入ってたんだけど、どこだか分かります?』


 困惑を表すスタンプと共に、質問をグループメンバーへ投げ掛けていた。知らない。分からない。覚えてない。酔って変なとこ行ったんだろ。返事は一貫して曖昧で答えは得られそうにない。

 二日酔いの眼で画面を見詰めていたせいか吐き気が込み上げ、俺はスマホをダイニングテーブルに半ば放るようにして伏せた。トイレへ行って吐こうとしたが、喉奥に物が詰まったようでうまくいかない。しばらく粘ってみたものの、結局唾液以外の何も吐き出せなかった。






 ヨーグルトと水と薬を無理矢理胃へ流し込み、自室のベッドで横になった。不調を誤魔化そうと目を瞑っている内に、二度寝してしまったらしい。

 酷く厭な夢を見た。

 起きてみるとどんな夢を見たのだか判然としないが、とにかく夢の俺は何かに対して怒りだか憎しみだか嫌悪だか、非常に不快な感情を抱いていて、その何かを――どうしたんだったか。夢の残骸は霞のように頼りなく脳髄の内側を漂っている。手を伸ばし、掻き集め、掴めたものは底なしの開放感と恐怖と焦燥、そして仄暗い陶酔の余韻だった。心臓がばくばくと気持ちが悪い跳ね方をしている。


『スーパー寄って来るけど、いるもんある?』


 存外長く眠っていたらしい。窓外の陽はうっすら翳り、メッセージアプリにはバイトを終えた兄からの書き込みがあった。スマホを操作し、朝方届いた件の写真を兄にも送る。最後に黒い部屋の写真を送ったところで、俺はふと戸惑った。なぜこんなことをしているのだろう。

 ややあって送った写真に既読がつき、数分の間を空けてスマホに電話が掛かってきた。着信画面には兄の名前が表示されている。


『お前、どうして』


 電話が繋がってすぐ兄は何かを言いかけ、口籠もった。


「姉さんは死んだ」


 吐き捨てて、俺は電話を切った。

 腹の脹れた姉の死体が目に焼き付いて離れない。姉はあいつのせいで死んだのだ。殺したい、殺すべきだ、そう思った。






 斜陽が視界を赤く染めている。自室の椅子に座って、俺はじっと兄の帰りを待った。机上の包丁が窓から射し込む光に浸ってほんのり色付き、未来の出来事を暗示するかのようだ。

 かちゃ、と小さな音が聞こえた。

 鍵が開く音。

 扉が開く音。

 戸締まりする音。

 靴を脱ぐ音。

 足音。

 そう広くはない安部屋である。じき、兄は俺の背後に立ったが、何を言うでもなく、何をするでもない。ただそこにいて、俺と俺の目前にある包丁を見詰めているらしい気配を感じる。



「………蓉子ようこは」



 短いような長いような沈黙をようやく破って、兄が絞り出した一言はそれだった。

 かっと頭に血が昇るのを知覚する。俺は包丁を掴んで立ち上がり、思い切り兄の腹部を刺した。包丁が柄まで肉に埋まって、ぐっという呻きが耳許で聞こえた。兄が蹲る。押し倒し、何度も何度も包丁を腹に突き立てた。兄の顔は苦痛で歪み、血が溢れ、身体は痙攣混じりに震えているが、抵抗しようとする様子はない。


 刺す。

 刺す。

 刺す。



 虚ろに濁った兄の瞳が俺を見ていた。



 それを認めた瞬間に手が止まり、さっき姉ではなくの名前を兄が呼んでいたのなら、俺は兄を刺さなかったかもしれない―――ぼんやりとそんなことを考えた。いずれにせよ、もう全てが手遅れである。

 どうして、と今更ながら戸惑った。

 どうしてこんなことになったのだろう。分からない。分からないが、兄を滅多刺しにしたのは確かに俺で、つまるところ兄を殺したのは俺なのだ。俺は感情がいまいち籠もらない平坦な声で、

「当然の報いだ」

 と呟いた。

 何が当然の報いなのだろう。誰にとっての当然の報いなのだろう。

 血に濡れた包丁が手から滑り落ち、視界がふつりと暗転する。






 目を開ければ、今日も10月■日だった。


 目を開ければ、今日も10月■日だった。


 目を開ければ、今日も10月■日だった。


 ……………


 ……………





 目を開ければ、今日も10月■日だった。

 二日酔いの頭痛と吐き気のせいで起きて早々ふらついている俺に、兄が呆れた様子で烏龍茶のボトルを差し出す。

「昨日遅かったけど、何してたんだ?」

「サークルの飲み会。二軒目から先の記憶がない……」

「飲めるにようになって嬉しいのは分かるけどね、無茶な飲み方するもんじゃないよ」

 酒は飲んでも飲まれるな。

 口遊むように呟いて「ほろ酔いくらいがちょうどいいんだ」と兄は軽く肩を竦めた。身に覚えでもあるのかもしれない。遠い目をして、何かしら思うところありそうな様子である。

「今日休みなんだからいいだろ、別に」

「よかないよ。同居人が伸びてると、こっちは色々面倒なんだから。それにお前さぁ、この調子だとその内きっと酷い目に遭うぜ」

 もう遭っている。

 心の中だけで言い返しながら、俺は考えた。

 近頃思う。こんなことになった理由ときっかけ――それは真実、俺に由来するのだろうか。酔った勢いで心霊スポットへ行った。だから呪われた。シンプルな筋書きである。ただその筋書きの主人公は、果たして本当に俺なのか。


 最初にあの場所へ行って、最初に呪われたのは兄ではないか?


 俺がこの部屋に来る前の約二年、兄がどう暮らしていたのかは詳しく知らない。だが言動の端々から察せられることはある。酒のせいで少しばかり厭な目に遭ったらしい雰囲気なのだ。

 もしあの家に何かの弾みで兄が行ったことがあるのなら、漠然と引っ掛かっていた点にも説明が付く。


『お前、どうして』


 俺があの家の写真を送った後、電話を掛けてきた兄はそう言うのだけれど、薄気味悪い廃墟の写真を急に押し付けられて出てくる言葉としては違和感がある。

「何だこれ?」とか「どこの写真だ?」とか「いきなりどうした?」とか、そんな疑問がまず頭に浮かぶものではないか。なのに一言目が「どうして」である。


『どうしてあの家の写真を』


 兄はそう言いかけたのではないか。

 俺の想像が正しれば、こんな仕儀に至った原因は兄にあり、俺は兄の悪因縁に巻き込まれただけ――ということなる。もしそうなら、






 夕刻。

 兄を殺す時間が来た。

 包丁を掴んで、兄を刺す。

 どんなことでも繰り返すと慣れてしまうのだから恐ろしい。自由になる頭の片隅で、俺は当初感じていた恐怖と混乱、殺しという行為に抱くべき忌避感が次第薄れていくのを意識する羽目になっていた。

 嫌悪の濁りが晴れるほど、見てはいけないものが曝け出される。

 人を殺す。他でもない兄を殺す。その行為に、過程に、結果に、嗜虐的高揚を覚えてしまっている自分が確かに存在するのであった。苛めてはいけないものを苛め、壊してはいけないものを壊した時、ふっと心を掠める不定形の感情が閉鎖した時空の中で延々と煮詰められ、甘い罪悪感として結実している。

 こんな仕儀に至った原因は兄にあり、俺は兄の悪因縁に巻き込まれただけ。もしそうなら、と考えると気持ちが安らぐ。



 全て兄のせいなのだ。

 全ての責任は兄にあり、俺は何も悪くない。

 兄を刺す感触に、呻きに、震えに、痙攣に、血肉に、骨に、臓物に、苦痛で歪んだ表情に仄暗い陶酔を感じているのも、元を辿れば兄のせいだ。



 虚ろに濁った兄の瞳が俺を見ている。



 俺は感情がいまいち籠もらない平坦な声で、

「当然の報いだ」

 と呟いた。そうあれかしと祈るように思ってしまうのは、先の免罪符台詞を吐き出したに引き摺られているせいなのか、自分自身の心根が残酷であるせいなのか、俺には最早判然としなかった。

 血に濡れた包丁が手から滑り落ち、視界がふつりと暗転する。






 目を開ければ、今日も10月■日だった。

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