続けるための物語

三谷一葉

吟遊詩人の序章

第1話 10年前────東の大陸 精霊の国エトラ

 百年に一度、最果ての地に眠る魔王が目覚めの時を迎え、世界は滅びの危機に晒される。

 そしてそのたびに、人々を救うため立ち上がった勇者によって倒され、世界に平和が訪れた。

 子供の頃に、誰もが一度は耳にするおとぎ話。旅の吟遊詩人の歌や、劇の中で描かれる魔王の姿は様々だ。

 正義の神アスタに刃向かった邪神。

 人間を滅ぼし、魔物が統べる世界を作ろうとした凶悪な竜。

 世界を全てを支配しようと暗躍する、闇に魅入られた狂信者。

 次の魔王がどのような姿なのかは不明だが、言い伝えの通りであれば、次にが目覚めるのは十年後────今年で十七になるギーゼラにとっては、他人事ではない。

(その時まで、私が生きていたらの話だけど)

 白い寝間着姿のまま寝台に腰掛け、石造りの壁に右肩を預けて、ギーゼラはぼんやりと窓の向こうの景色を眺めていた。

 深い紺色の空に、白く丸い月が浮かんでいる。その下に、エトラの街並みが広がっていた。

 ギーゼラが今居るのは、エトラの中心に建つ石造りの塔────《精霊の巫女》達が住む、七階建ての塔の最上階だ。儀式を翌日に控えた巫女が、邪念を払うために篭もる部屋である。

 エトラで最も高いこの塔からなら、どこまでも見通せるような気がしていた。

 踏み固められた土の道の両脇に、赤い屋根の家が並ぶ。多くは木造の平屋だが、酒場や宿屋など、人が大勢集まる店は二階建てや三階建てのものもある。

 エトラの街の南には、青々とした草原が広がっている。その先には、精霊たちが住む深緑の森。樹齢数百年の大木がそびえ立つ森の向こうに────エトラを滅ぼそうとするタロサの軍勢が居る。

(何が正義だ。ふざけるな)

 ギーゼラは胸中で吐き捨てた。あの連中が正義を自称することそのものが、正義への冒涜としか思えなかった。

 精霊の国エトラは、その名の通り精霊と共にあった。

 草花が芽吹く春に大樹の精霊に豊作を祈り、日照りが厳しい夏に水の精霊に恵みの雨を乞う。

 木の葉が色づく秋に光の精霊に一年の安寧を願い、雪に閉ざされた冬にエトラを守り支え続けてきた精霊達に感謝の歌を捧げる。

 エトラの《精霊の巫女》は、歌と音楽の力を借りて精霊と語らうことができた。それを正義の国タロサは、得体の知れない邪法だと決めつけたのだ。

 今すぐ改心し、怪しげな儀式を止め、正義の神アスタを信仰しなければ、正義の名の元に粛清する。タロサからやって来た使者に居丈高にそう宣言され、エトラの国長は震え上がった。

 エトラにはタロサのような武力は無い。戦争になれば一方的に蹂躙されるだけだ。

 和平のための使者をタロサへ送ったが、タロサからの返答は至って明快だった。エトラからの使者を捕らえ、拷問の末に首を刎ね、その生首を送りつけてきたのである。

 精霊との繋がりを断ち、正義の神アスタを頂とする神聖教へ改宗する。それだけならまだ検討できたかも知れない。だが、正義の国タロサは、改心の証として、《精霊の巫女》の殺害を要求してきた。《精霊の巫女》の遺体を一人残らずタロサに献上することで、忠誠の証とするのだそうだ。

 エトラの女は、程度の差はあれど《精霊の巫女》としての資質がある。タロサの要求は、エトラの女を皆殺しにすることと同義だった。

「ギーゼラ、まだ起きてる?」

 とんとん、と扉を叩く軽い音がした。それから、細い女の声も。

 窓の向こうから、月明かりが差し込む部屋の中へと視線を戻す。今ギーゼラが腰掛けている寝台の他には、衣装棚ぐらいしか置かれていない、小さな部屋だ。

 姿勢を正して、扉へと向き直る。腹の底に力を入れて、声が震えないことを祈りながら、ギーゼラは返答した。

「起きております。どうぞ」

 しっかりと芯の通った声が出せた。ほっと一息つくギーゼラの目の前で、扉が小さく開く。

 中に入ってきたのは、白髪の老婆だった。背筋はぴんと伸びているが、手や顔には深いしわが刻まれている。

 寝間着姿のギーゼラに対して、彼女は深い紅色の長衣を身に着けていた。白い花の刺繍が施された黒い帯を腰に締め、手に樫の木の杖を握っている。

 この時間まで、国長達と協議を重ねていたのだろう。化粧を施した顔に、濃い疲労の色が滲み出ていた。

 彼女の手を取って、寝台へと座らせる。ギーゼラはその前に片膝をついた。

「ごめんなさいね。こんな夜中に。やっぱり⋯⋯眠れない?」

「⋯⋯はい」

「本当にごめんなさい。私にもっと力があれば⋯⋯せめて、代わってあげられたら」

「《精霊の巫女》に選ばれたことは、名誉なことです。必ず成し遂げます。⋯⋯ユーリアのためにも」

「⋯⋯ユーリア」

 老婆────エナの顔が、痛みに耐えるように歪んだ。ギーゼラも同じようになっていただろう。

 女達を差し出し、男だけでも生き延びて正義の国タロサの奴隷となるか。それともタロサの要求を跳ね除けて滅ぼされるか。

 エトラが縋ることができるのは、精霊だけだった。

 炎の精霊の力を借りて正義の国タロサの軍勢を焼き払う。エトラが生き延びるためには、それしかなかった。

「私に力があれば、あの子を死なずに済んだのに」

「エナ様」

 エナが呻く。その手に、ギーゼラは己の手を重ねた。

「せめて、もう一度だけ、和平の使者を送ったら。儀式なんかしなくても」

「エナ様。駄目です」

「私がなるって言ったのよ。和平の使者に。もうこんなおばあちゃんになっちゃったけど、それでもそれなりに長い時間生きてきたもの。私なら、もしかしたら」

「エナ様、タロサが和平の使者に何をしたのか、お忘れですか」

「でも」

「あの子の遺志は私が継ぎます。ユーリアと約束しましたから」

 ユーリアは、ギーゼラの姉弟子だった。ギーゼラよりもひとつ年上だったが、ギーゼラよりも小柄で、穏やかで物静かな娘だった。けれど、ひとたび楽器を手にすれば、誰よりも美しい旋律を奏でる自慢の姉弟子だ。

 一月前の満月の晩、ユーリアは《精霊の儀式》に挑んだ。そして炎の精霊の怒りに触れ、骨まで焼き尽くされて命を落とした。

 精霊の怒りをその身で受け止めるのも、《精霊の巫女》の役目である。

 ユーリアは立派にその役目を果たした。足元から炎が吹き出し、全身を焼かれても、演奏をする手を止めなかった。崩れ落ちるその瞬間まで、歌うことを止めなかった。

 その姿を、最期を、覚えている。きっと一生忘れることはないだろう。

「必ず成し遂げます。タロサのどもに、目にものを見せてやります」

 清く正しい善男ぜんなん。神聖教を信仰する者はよくそれを自称する。

 善女ぜんにょは居ない。良いもの、正しいものは全て男なのだ。

。そう思ってるから、エトラの巫女を皆殺しにしたがるんだろうさ)

 巫女は女だ。男ではない。だから、殺しても良いのだろう。タロサの正義とやらでは。

「ギーゼラ」

 エナの手が、ギーゼラの頬に触れた。

 幼い孫娘を見る祖母の目で、こちらを見つめている。

「⋯⋯ごめんね」


 ────その翌日。

 精霊の国エトラは、炎の精霊の怒りを買った。

 本来なら《精霊の巫女》のみに向けられるその怒りは、エトラ全土に及び、たった一晩で全てが灰になるまで焼き尽くされた。

 エトラへの侵攻を進めていた正義の国タロサは、これを正義の神アスタの裁きだと主張、エトラと共に焼け死んだ同胞は正義のための生贄になったのだと言い張ったが、神聖教の総本山、聖都アスタロスタはこれを否定、『もし正義の神アスタが裁きを下すのであれば、和平の使者を平然と惨殺したの方だろう』と言い切った。



 ただ一人、ギーゼラだけが生き残った。

 精霊の怒りを買った時、真っ先に贄となるべきギーゼラだけが。


 


 

 

 

 

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