夜の底より

十戸

夜の底より


 さあごらん、怖がらないで。

 何も恐ろしいことなどありはしない。そう、この世で恐れるべきはただひとつ――死ぬことだけさ。あんただって知っているだろう? 分かっているだろう。それなら、ほら、何も怖いことなんかない。

 背を伸ばして、両目を大きく開けてごらん。

 


 何が視えるだろう、そこには。果たして何者が?

 かつてはありとあるもののなかで最も可憐であった生き物、高貴と優美を知っていたはずの生き物が、惨めったらしく、うぞうぞとうごめいている。

 いまだ誰も思いつかない、考えもしないような姿をもって。

 それはあまりに醜くおぞましい肉の塊だ。

(いやいや、肉の塊だって?)

 とんでもない。

 そいつは生きている。

 絶え間ない呼吸に肺腑は波打ち、心臓は鼓動し、血液は循環して、細胞は飽きもせず分裂を続け、飽きもせず死滅していっている。

 

 じつに不憫な話だが、もちろん、あんたはそんなことを思っている場合じゃない。

 ほら、もっと近くに。

 こいつの声が聞こえるかい。こいつの吐き出す臭い息を感じるかい? あの肌合いの奇怪さと言ったら、え、中々のものだろう……。

 呆れた話だ、いつかには――何だかずいぶん遠い昔のように思えるが、その頃にはたしかに、誰もが夢見たことがある、あそこにうずくまる生き物のことを、そいつと互いに触れ合うことを。その肌を撫でること、その目に反映されること、夜空に散る月と星の甘さについて、夜明けも知らず語り合うことを。その名を呼ぶこと、そして己の名を、秘密の記号みたいに囁きかけられることを。あの露に濡れる百合のような唇。そこからこぼれる銀のごとき声。煌めくような長い髪、誰だって、指ですいたらどんな気持ちがするだろうと夢見るような髪。そこにあるのは神の美のすぐれた模倣、まさしく天与の美だ。

 あんたも知っているだろう。

 

 よくよく憶えているはずだ。

 なんたって、毎朝眺めていたんだから。

 いつでも手を触れていたのだから。

 毎晩のように香油を塗って、ほんのわずかのしわが寄っただけでも大騒ぎして。一日中、何度も丁寧にばら水を振りかけて……。

 それがどうだろう。

 あの歪みきった愚かの輪郭を見てみなよ。まるで豚と蚯蚓みみずを無理やりかけ合わせたみたいじゃないか。顔なんてどこにあるか分からないくらい、全身くまなく、ぐしゃぐしゃにひしゃげてるんだから。その上、汚らしい泥と胆汁にまみれている。文字通りの鼻つまみ者だ。

 もっと光が必要かな? 明るくしたら、きっとよく見えるだろう。


 さあ、鏡のなかをごらんなさい。

 怖がらないで。

 瞳を凝らして。

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夜の底より 十戸 @dixporte

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