華金

華金

 華金はなきん学生時代はあまり耳馴染みのなかった単語だが、社会に出てみると頻繁に耳にするようになった。やはり学生と社会人とでは、金曜日の価値が全く違うからだろうか。それとも単に、関わる年齢層の問題だろうか。

 さて、兎にも角にも今日は華金。労働のことなど忘れ、目前に迫った週末をどう過ごすか考える、そんな日のはずだ。しかしこの世には、勤務時間を終えてもなお、会社の人間と過ごしたいという酔狂な輩がいる。それならそれで同じ感性を持つお仲間でやればいいものを、何故かその輩は課全体の飲み会としたがるのだ。


 新卒1年目女性社員が会社の飲み会に参加するというのは、基本的に全く楽しくない。下座に座って注文やら何やらを取りまとめ、酌をし、無駄に重ねた年齢しか取り柄のない中年上司のありがたい仕事論に笑顔で相槌を打つ。おまけに課の女性社員が私一人ときたら、最早拷問に近い。

 私にも彼らの気持ちは理解できないでもない。毎日営業先や上司から詰められ、家では奥さんと子供に邪険にされる(かはわからないが、少なくとも私の妄想の中ではそうだ)。きっと、誰かによいしょしてもらえる瞬間がないとやっていけないのだろう。しかし、それならそれで、お金を払ってキャバクラにでも行けばいいのだ。


「沙織ちゃん、瘦せすぎじゃない?肉付きいい方が男ウケいいよ」

 課長は当たり前のようにそんなことを言った。すかさず先輩社員が隣の部署の若手女性社員を引き合いに出し、「エロいっすよねぇ」と笑う。私も「やめてくださいよ~」と笑う。

 昨今、ハラスメントに対する世間の目は厳しくなっており、恐らくかつての世の中と比べれば、その数を着実に減らしているのだろう。しかし私は、今の会社に入社して愕然とした。これは世間でセクハラと呼ばれているものではないのか。パワハラではないのか。コンプライアンス研修で見た動画の内容と現実の乖離に、めまいがしそうだった。

 恐らく彼らはこれをハラスメントだとは思っていない。冗談なのだ。若い女の子向けのジョーク。


「沙織ちゃんはさぁ…」

「やっばキッショ」

 大きな声ではなかった。おじさん達の女性社員批評会に投じられた、半笑いの冷たい声。

 隣の四人卓には、ギャルっぽい女性が一人いた。染めてから随分経っているのか、すっかりプリン状態の傷んだ金髪を高い位置でまとめている。ぱっと見では数え切れないほどのピアス。膝上まで隠れる程の、だぼだぼの色褪せた紺色のTシャツからは、髪質とはアンバランスな白く光る華奢な脚が伸びている。薄笑いを浮かべた唇には、煙草が咥えられている。まるで時間が止まったように、課長は口を開いたまま静止していた。自分のことを言われたのか、判断しかねているのだろう。手に持ったスマホから顔を上げた女性と課長の目が合った。

「なんすか」

 彼女は呟く。小さな声は不思議な程よく通る。この人の声は波形に直したら、無駄なノイズが一切表れていないのではないか。一種の儚さすら感じる彼女の声は、形になる前に店内の喧騒で吹き消されてしまいそうなのに、何にも邪魔されていないかのように私の耳に届く。

 課長のごもごもとした声は、「ごっめーん、めっちゃ寝てたわー」の声でかき消された。金髪ギャルの卓にどっかりと腰を下ろす、ギターケースを背負った赤髪の男。その時私は、金髪女性も隣の席にギターケースを置いていることに気が付いた。「おっせー。奢れ」と笑う彼女は、何事もなかったかのようにドリンクメニューを眺めている。


 会計後、二次会のお店を相談する男性陣に「お先に失礼します」と告げ、逃げるように駅に向かう。五月の夜風はまだ少し冷たい。重たくて暗い何かが胃のあたりを渦巻いている。自分が今、何に打ちひしがれているのか、わからない。


 あの人は強い女性なのか。私は弱い女性なのか。あの人は落ちこぼれだからギターなんかやってるのか。私は優秀だからこんな仕事をしているのか。私は綺麗に生きてきたのに、どうしてこんなに汚いのか。あの人はどうしてあんなに綺麗だったのか。


 改札前はちょっとした広場のようになっていて、路上で歌う女性の涼しげな声が聞こえる。数名しかいない観客越しに、プリン頭が見えた。彼女は路面に何も敷かず、胡坐をかいて座り込みながら歌っている。ギターの弦を弾く《はじ》指は、その艶やかな脚と同じように、白く細長い。上体をゆらゆらと揺らし、常連と思しき数名の取り巻きに笑顔を向ける彼女は、この世界の誰よりも自由に思えた。

 彼女と目が合う。悪戯っぽく笑い、ウインクする彼女を見て、私の中に潜んでいた何かが急速に膨張するのを感じた。


 最終面接で、自分の目指す社会貢献を語ったことを思い出した。リクルーターの女性社員は、女性活躍推進のための制度について事細かに説明してくれた。

 大学で、大講義室の最前列で必死にノートをとっていたことを思い出した。講義に遅れて入ってきたおしゃれな女の子達は、サークルのかっこいい先輩について話していた。

 高校で、中学校で、小学校で。


 どのくらい経ったのか。プリン頭の女性はとっくに片付けを始めていて、周囲に人影はほとんどなくなっていた。時々、酔っ払いの品のない笑い声が聞こえる。私は泣いていた。

「そんなにいい歌だった?」

 彼女の声は私に向いている。傷んだ前髪は眉上でまっすぐに切り揃えられていて、几帳面な一面を感じさせた。彼女はいくつかのアンバランスを同居させた存在だ。よいしょっとギターケースを背負った彼女は、煙草に火をつける。血管の浮いた細い首筋。口から吐き出される有害物質の塊。彼女の不健全は全て、彼女自身の儚いオーラによってポジティブなものへ転化される。

「華金だねぇ」

「お姉さんみたいな人でも、金曜日はうれしいんですか」

 我ながら失礼な物言いだと思った。

「そりゃね。なんか街が元気に見えるでしょ」

 彼女は煙草の吸殻をポトリと落とす。

「あたし、ここでよく歌ってるから。また来てよ」

 じゃ、と手を振る彼女は歩き出す。捨てた吸殻には目もくれない。

「あの!」

 シルバーのピアスが街灯の光で輝く。

「朝までやってるお店、知りませんか」

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華金 @nu_sousaku

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