第30章「はじまりの物語」

 花霞の里に着くと、大勢の者が里の外で、エンマたちを待っていた。

「エンマ。それに蓮花。蘭丸。よく帰って来た。」

 芭蕉はにっこりと笑って出迎えた。

「エンマ。お前は人々を救った英雄だ。」

 芭蕉の言葉に、里の皆が賛成するように歓声を上げた。

「白々しいんじゃねーか。」

 だが、皆に対するエンマの態度は冷ややかだった。

「別にんなこと言われたって、俺は嬉しくねえ。英雄なんてなりたくもねえし、そんなふうに祭り上げられたり、褒められても気持ちわりいだけだ。俺は人々を救おうなんて思ってなかったし、ただ自分の目的を果たしに行っただけだ。」

 エンマの心の中には、皆の喜びを素直に受け止められないものがあった。

「まあ、すぐには自分のしたことがどれだけのことかは、分からないだろうな。エンマ、お前こそ、魔物たちを束ねるに相応しい。根の国の王にな。」

「またそれか!」

 エンマはうんざりした顔で吐き捨てるように言った。

「ふざけんなよ、このくそじじい!俺は自由になりてーんだ!こんな所はもう出て行ってやる!英雄だとか王だとか、そんな話はもう聞き飽きた!!」

 どこかへ逃げようとするエンマを、いつの間にか元の姿に戻った夜鬼が引き止めた。

「まあ、待ちな。お前が長老か。丁度いい。いつかはお前に話がしたかったんだ。」

 夜鬼の姿を見て、皆がしんと静まり返り、夜鬼の妖艶な姿に見とれていた。長老も例外ではなかった。

「ほほう。なんという美しい…。」

「本来なら、人間はあたしたち吸血族の餌だからね。こうして姿を見せるもんじゃないんだけど。まあ、サービスだ。」

 里の皆の視線を一身に受けて、夜鬼はそう呟いた。

「あたしは黄泉の国の王の、夜鬼ってんだよ。根の国の話だけど、こんな餓鬼に任せるなんてやめてもらいたいね。いくら雷鬼が死んだからって、あそこにはまだ厄介な奴が残ってるんだよ。邪蛇って奴がね。あいつは雷鬼以上に厄介でね。エンマが雷鬼を倒したときみたいな力を使って奴を倒したとしても、何度でも生き返るし、あいつを完全に消滅させる方法は、このあたしにも分からないんだ。しかも邪蛇は、天魔を復活させようとしている。エンマの体を使ってね。だから余計に、根の国にエンマを行かせるのは危険なんだ。」

「邪蛇…か。」

 芭蕉は唸った。地獄里で魔物たちを指揮していたのも邪蛇であろうことは、すぐに見当がついた。

「天魔は、雷鬼の父親だったとか。一体、どういう魔物だったのですか。」

 蓮花が芭蕉に尋ねた。

「天魔とは昔、会ったことがある。天魔は雷鬼と違い、無駄な争いを好まない者のようだった。常に魔物の国のことを考えて動くような王でな。そのために、人と魔物の世界はある程度バランスが保たれていたのだ。魔物とはいえ、一国を治める王としては優れた器の持ち主だった。」

「そうだな…。芭蕉、それだけ天魔のことを分かっているお前なら、この餓鬼が、その天魔に比べてどんなに劣っているか、分かるだろう?」

 夜鬼は、自分を横目で睨んでいるエンマの頭をぽんぽんと叩きながら、言った。

「うむ…。しかし、エンマ以外に、根の国の魔物を抑えられる者となると…。」

「まあ、あたししかいないだろうねえ。」

 はちきれそうなほど豊かに膨らんだ胸の谷間に手を当てて、夜鬼は笑ってみせた。

「あたしがしばらくの間、根の国を治めてやるよ。それで問題解決だろ。」

「しかし、あなたは黄泉の国の王のはず。」

「たいしたことはないさ。あたしには弟がいるんだ。そいつにも手伝ってもらうし、ま、なんとかなるさ。…とは言っても、あくまでもしばらくの間って話だ。まー、その間にゆっくり人と魔物の関係ってのを考えていけばいいんじゃないか。こいつだっていずれ物事を分かるようになっていくだろうし。とにかく、今こいつを王にするってのは早すぎる。それだけ言いたかったんだ。」

「確かに、わしは理想ばかり求めて、エンマのことを分かっていなかったのかもしれないな。エンマが根の国の王となることが、エンマの幸せにもなると勝手に考えて、それを押し付けようとしていたのかもしれん…。」

 芭蕉は腕を組んで、じっと考えていた。

 エンマは何も言わず、芭蕉をじっと見つめていた。そこへいきなり夜鬼が、エンマをぎゅっと力強く抱き締めて、エンマの顔を自分の胸に押し付けるようにした。

「エンマ。しばしのお別れだよ。元気でな。」

「く…苦しい…っ!」

 エンマは顔を胸の谷間にはさまれて、もがいていた。

「そういうわけだ。じゃあな!」

 夜鬼は霧になって、瞬時に消えていった。

「やれやれだぜ…。」

 どっと疲れが一気に押し寄せたようにして、エンマはその場にぐったりと倒れて、一瞬にして眠りに落ちた。

「おいおい、エンマ。こんな所で寝るなよ…。」

 蘭丸がエンマを揺さぶったが、ぐっすりと眠っていて、起きる気配は全くなかった。

「がはは!どーれ、俺が家まで連れてってやるか!」

 氷助が出て来て、エンマをひょいと肩の上に担ぎ上げた。

「皆の者!戻るぞ。」

 芭蕉の声に、皆夢から覚めたようになって、一斉にそれぞれの家へと帰っていった。


 翌朝、エンマはひどい空腹で目が覚めた。

「うう…。ハラ減ったな…。そういや昨日はあんまり疲れてそのまま眠ったから、夕飯も食ってねーんだったな。」

 ふと横を見ると、蘭丸が気持ち良さそうにぐっすりと眠っていた。エンマは急に寂しさが込み上げてきた。いつもなら、フータが隣にいるはずなのに、いないのだ。

 土間へ行くと、みぞれがいつものように朝餉の支度をしていた。

「エンマ。お腹すいたでしょう。昨日は全然起きなかったものね。今用意出来るから、ちょっと待っててね。」

 みぞれはいつもと変わらない優しい笑顔でエンマを見つめた。

「フータ…。」

 エンマは下を向いて呟いた。

 それを聞いたみぞれの顔が少し、曇った。

「フータがいなくなったんだ…。」

「やっぱり…。フータが帰っていないから、おかしいと思ってたのよ。でも、皆で探せば見つかるわ。エンマは安心して休んでなさいね。」

「違うんだ。フータはもう帰って来ないんだ。あいつは、風の精霊だったから。」

「風の精霊?フータが?」

 みぞれは驚いていた。

「ああ。あいつがいたから、俺は今生きてて、雷鬼を倒せたようなものなんだ。全部、フータのおかげだよ。」

 エンマは静かに笑った。

「そうだったの…。フータ…。あんなにかわいかったのにねえ…。エンマに懐いて、本当にいい子で…。」

 みぞれは声を震わせて泣いた。

 その様子を、少し前にやって来た蓮花が戸口の陰に立って、聞いていた。

 蓮花も、エンマと一緒にいるはずのフータがいないことに、嫌な予感がしていたのだった。

 フータはいつも皆を和ませ、ときには励ましてくれたりもした。そんな思い出を振り返って、蓮花の目も自然に潤んでくるのだった。

「蓮花。」

 急に背後からエンマに声を掛けられて、蓮花はびっくりして振り返った。

「なんだ。泣いてたのか。」

「だって、フータのことを聞いて…。」

 慌てて蓮花は涙を拭った。

「…エンマが雷鬼を倒しても嬉しそうじゃなかったのは、そのせいだったのね。」

「それだけじゃねえ。なんだか、空しくなっちまってな。今まで俺は、あいつを倒すことばっかり考えて、がむしゃらにやってきた。それがいざ終わったら、目標も何も見えなくなってな…。」

 遠くの空を見るような目をして、エンマは薄く笑って言った。

「じじいはもういねえ。俺の本当の夢はもう叶わねーんだ…。」

 地獄里にいた頃の日々を思い出して、エンマは呟いた。

「何言ってんのよ!らしくないじゃないの!」

 叱りつけるように蓮花に言われ、ぼんやりとしていたエンマは目をはっきりとさせた。

「きっと、お腹がすいているせいで、そんなに弱気になっているのよ。」

 そして蓮花はにっこりと明るく笑って、家の中へ入って行った。蓮花の明るい笑顔が、小さな太陽のように、エンマの心の中に浮かんでいた。

 返事をするかのように腹がぐうと鳴って、エンマは今、腹が減っているということを思い出した。

 家に入ると、みぞれが元の穏やかな笑顔に戻っていて、ご馳走を並べて待っていた。

 後から氷助も来て、蘭丸も起きて来て、いつもの日常になっていった。

 いつまでもフータのことを寂しがったり、悲しんでいたくはないと、エンマは皆にそう言った。


「結界を全国に作るのだ。」

 蓮花と蘭丸を呼びつけた芭蕉は、まずそう切り出した。

「今回のことで、結界術の必要性を強く感じたのだ。全国に結界を作ることについては、もともとアヤメが考えていたことだった。雪煙の里、月影の里、そしてこの花霞の里の三つの里に結界を作ったが、それ以外の、霊力のない人々の住む場所にはまだ結界が一つも作られていない。それというのも、わしらの存在が公に出来ないからという厄介な問題があったからなんだが。しかし最早、そうも言っていられまい。国のあちこちが雷鬼に壊されたり、滅ぼされたりしたが、なんとか生き残った人々も大勢いる。そのような人々に、雷鬼の存在は知られ、わしらのような存在も知られただろう。それに雷鬼がいなくなったからといって、魔物の脅威が消えたわけではないのだからな。」

「長老様。以前から、私も考えていました。私たちの存在を隠して、陰ながら人々を守るよりも、かえって、人々と交流することでこの国を守る方がずっといいのではないかと。霊力を伝えることも大切ですが、それだけでなく、霊力を持たない人々にも、魔物から身を守れるような方法を考え出すことです。その方法の一つが、結界術です。結界術は直接霊力を使うのではなく、道具や自然物を介して、霊力を呼び込んで作り出すものですから、誰でも、方法さえ理解すれば魔物を追い払うことが出来るはずです。」

「うむ。アヤメとほぼ同じことを考えていたな、蓮花。」

「アヤメ様も…。」

 蓮花は頬を赤らめた。

「そもそもアヤメが結界術を編み出したのは、霊力を持たない人々のためであったからな。霊力を持たずとも、魔物から自分で自分の身を守れるようにと。しかし、アヤメの編み出した結界術は強力な分、高度で難しいものだ。それをどうにか、一般の人間にも扱えるように工夫したいものだが…。それも含めて、わしはお前に結界術を全国に広めてほしいと思ったのだ。何しろ、アヤメの結界術を理解しているのはお前だけだからな。」

「はい。」

 蓮花は新たな使命感に心が燃え立つのを感じた。

「…それで、長老様。何故蘭丸が?」

「うむ。結界術を全国に広めるには、旅に出てもらうが、お前だけでなく、蘭丸や、椿たちも行かせたいと思ってな。…最初は、お前だけと思ったのだが…。」

「長老様!俺だって、蓮花の…、いや、里の役に立ちたいです!」

「…というわけだ。…それで、エンマの様子はどうだ?わしが声を掛けると、あやつは嫌がるからな。」

 芭蕉は苦笑しながら言った。

「フータがいなくなって、寂しそうでした。フータは風の精霊だったんです。」

「風の精霊か。普通の子供ではないと思っていたが、やはりそうか。」

「長老様。精霊というのは、どういうものなのですか?」

「鳥や獣が、何かのはずみで、死んだ後に精霊になることがある。精霊にはな、二種類あるのだ。いい精霊と、悪い精霊だ。フータは勿論、いい精霊だ。エンマに懐いていたのは、何かの縁があったからなんだろうな。」

「縁…。」

 蓮花は、長老の言葉を聞いて、フータが鳥だったのではないかと想像を巡らせた。誰よりも自由に飛天術を使いこなして、空を飛んでいたフータの姿は、鳥そのものだった。


 数日後、エンマは蘭丸と共に訓練所に顔を出した。

 訓練生の誰もが、エンマを見て歓声を上げ、拍手した。それをエンマは、居心地が悪そうにして見ていた。

「赤鬼君。とうとう、仇討ちを果たしたそうじゃないか。僕は残念ながら、その様子を見られなかったけど。」

 椿はすっかり元通りになって、いつもの調子でエンマを面白そうにして見ていた。

「毒は治ったのか。」

「当たり前じゃないか。昨日まで、ずっと楓に看病されててね。本当はもっと前に治っていたんだけど、僕が弱ったフリをしたのをすっかり信じ込んで、楓が随分と心配してくれるもんだから。フフフ…。」

「全く、お前って奴は…。」

「雷鬼を倒したってことは、もう赤鬼君に敵う奴はいないってことだねえ、蘭丸。」

 椿は、わざとらしく蘭丸を見た。

「そう…かな。いや、うーん…。」

 蘭丸は困ったようにしてエンマを見た。

「ここで決着をつけたらどうなんだい。どっちが最強か。」

 椿は二人を煽ろうとしていた。

「エンマ…。」

 蘭丸は、ここ数日の静かなエンマの様子に、戦いを挑んでいいものかどうか迷った。

「そんなの、どっちでもいいだろ。少なくとも今の俺では、蘭丸には勝てない。」

 エンマはきっぱりと言い切った。

「どうしたんだい。やけにあきらめがいいね。君らしくないじゃないか。」

 拍子抜けしたように、椿が言った。

「…そういえば、小鬼君は?」

「フータは風に帰ったんだ。」

「風に?どういう意味だい。」

 その問いには答えずに、エンマは出て行った。

 桜並木の道を一人で歩きながら、エンマは、地獄里のことを思い出していた。

 最後の思い出に、草吉と風太がいたことを…。

 いつまでも草吉は生きているものだと思っていた。いつまでも、同じ毎日が繰り返されると思っていた。

 過去の日々には、今が大切だとは少しも感じていなかったのに、何故今頃になって、それらが鮮明に思い出されるのか。それらを忘れることは出来ない。それらから離れたくない。そういう思いで、それらを奪った雷鬼を仇として倒すことを生きがいにしてきたのかもしれなかった。

 しかし仇を討った今、過去の思い出を繋ぐものは何もない。

「エンマ。何ぼやっとしてんのよ。」

 いつしか夕暮れが辺りを包んでいて、蓮花がオレンジ色の夕日の中に立っていた。

「大丈夫?本当に、一体どうしたの。フータがいなくなって寂しいのは分かるけど…。」

「俺はどうしたらいいか…。」

 エンマは頭を抱えた。

「…俺は今まで、じじいの仇を討つことだけ考えてやってきた…。それが果たせたってのに…、なんだか空しいんだ…。あいつを倒したって、じじいもフータも帰ってこねえ…。そんなの、分かってたことだけどさ…。」

 蓮花は、エンマの言葉に静かに耳を傾けていた。

「…昔、じじいによく聞かされた話で、力の強い奴がいて、そいつが人間を苦しめてた鬼を退治して、英雄になったんだ。俺はそういう奴になりたいと思ってた。でもいざなってみると、なんか空しくて、一人になった気分なんだ…。今の俺には、何の道しるべもなくて、一人でゴールに立ってる気分なんだ…。」

「…ゴール…ね…。」

 蓮花は少し考えてから、深く頷いた。

「…エンマ。あんたは今、ようやくスタートラインに来た所なのよ。人間のね。今までのあんたは魔物だったの。あんたはそれを克服したのよ。そう考えたらいい。」

 そう言って微笑む蓮花を見るエンマの目が、きらりと光った。

「人間…。」

「もうあんたのことを魔物だとか言う奴はいないわ。だから、人間だとか魔物だとか、そんなことに悩む必要もないでしょ。これからは、もっと自由に生きられるのよ。あんたの前には、いろんな道がたくさん広がっているのよ。」

「俺は…じじいみたいになりたかったんだ…。」

 沈みゆく夕日が、エンマの目には、草吉の背中のように見えていた。

「じじいは、ただ力が強いだけじゃなかった。雷鬼を倒した神力も、たった一つの力だけじゃなくて、いろんなものから力を集めて…そうだ、そんな感じなんだ!」

 緑色の瞳が夕日を受けて、強く輝いた。

「蓮花!おめーのおかげで、なんか気分がすっきりしたぜ。ありがとな!」

 エンマはそう言って笑って、駆け出した。


 風は南へ吹いている。

 良く晴れた朝だった。

 蓮花と蘭丸、それにエンマと椿、楓は、全国へ結界術を広めるため、花霞の里を旅立った。

「俺、未だに伝視ってのが出来ねーんだ。」

「神力を使えるのにかい?相変わらず赤鬼君てことだねえ。」

「なにっ!?椿、てめー!」

「もう、やめなさいよ。」

「やれやれ…。蓮花と二人で旅をしたかったのに…。なんでお前らまで来るんだ…。」

「あたしたちも長老に頼まれたんだよ。それに、あたしも花霞だけじゃなく、いろんな里を見て見たかったんだ。」

「俺も色々見てみてーぜ。そうだ、蘭丸の故郷も見てえな。雪煙の里、だっけ?」

「もう。私たちは結界術を広めるために旅をするんだからね。遊びに行くんじゃないのよ。…でも、途中で雪煙の里に立ち寄るくらいならいいわね。」

 今、エンマの踏みしめる土はどこまでも広がっていて、エンマの眺める空は世界の向こうへと繋がっている。

 エンマの今は始まったばかりだった。


                                 ―終わり―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤鬼伝 夏目べるぬ @natsuberu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ