まほろば星のクマとサギ
坂水
★
まほろば団地の住民のことならおもしろい。まほろば団地は巨大な団地だ。近隣工場の従業員の半分はまほろば団地から通っている……
──これはパロディだ。幾度となくせがまれて読まされた童話の。覚えて改変してしまうぐらいに。
振り返るに、まほろば団地はおもしろいというか変なところだった。きっと住人の半数以上が〝まほろば〟の意味を知らない。やまとはくにのまほろば、たなづくあおがき……いや、たたなづく、だったか?
かように純国産の人間ですらうろ覚えなのだから、無理はない。ともかく〝まほろば〟とは〝いいところ〟という意味らしい。まあ、悪くはなかったと思う。
夕暮れ時に香る多様なスパイス、立ち話する大人と走り回る子ども、ベランダに吊されたドロップじみた明かり……
そんな、見飽きた光景を懐かしいと感じるのは、仕事でヘマして僻地に飛ばされたからだろう。満天の星を見上げながら、柄にもなく俺は思い出に浸っていた。
俺がまほろば団地にやってきたのは十歳の頃。両親が離婚し、母方の祖母と同居するためにやってきた。
戸建てに住んでいた俺にとって、灰色の分厚いぬりかべが何十も連なる団地は、未知の惑星か、未来の景色に思えた。もちろんディストピア寄りの。
住人の半分が高齢者、もう半分は外国人。地方工業都市のありがちな様相だったが、唐突な環境の変化に途方に暮れた。
だが、俺には大望があった。
──アサギ家は詐欺師の家系。
父親は常日頃、そんな与太話をよくしていた。M資金を持ち逃げしたのは曽祖父だとか、大叔父はクヒオ大佐のパイセンだとか、かくいう俺も三億円の隠し場所の地図を託されている、とか。そんなふうだから、母親に別れ話を突き付けられたわけだが、俺はその言葉を真に受けていた。
目指すのはクールでスマートでインテリジェンスな次世代型信用詐欺師。
なぜだか俺は立派な詐欺師になったなら、また家族三人で暮らせるのだと考えていた。結果的に父親を一人にしたことを後ろめたく感じていたのかもしれない。
ともかく詐欺師を目指すにしても、小学生だった俺のフィールドは学校と団地ぐらい。学校は教師の目が厳しい。俺は団地のガキ共をカモと定め、計画を練った。
転入したての小学校の印刷室から藁半紙を拝借し、団地の案内板を真似て絵地図を描く。一か所、王冠マークをつける。そして微妙に王冠の位置を変えた絵地図をコツコツ五十枚ほど作成した。
『宝地図1枚100円、海ぞく王におまえはなれる!』
スーパーで図画工作用としてもらったダンボールにでかでかと書き、棟と棟に挟まれた谷底じみた広場で店を開いた。
読み通り、暇を持て余したガキ共が群がってきた。
宝地図を手にしてそのまま持ち逃げしようとするのを押し止め、ヒャクマネープリーズ、ノードロボー! と叫ぶ。
と、俺と同年ぐらいの奴が「百円は高い、勉強してくれ」と言ってきた。瞬時、俺は固まった。一見してそいつの容貌は浅黒い肌で顔立ちも日本のそれとは違っていたから。そして言うところの〝勉強〟の意味がわからなかったから。ここには教科書もノートもない。
俺の日本語の程度を察したのか、安くしてれってことだと耳打ちされ、なんだと交渉に応じた。九十円、七十円、八十五円これ以上はまけられない──結局、七十五円で落ち着いたが、釣銭を用意していなかった。しゃあない一枚でいいんだけど二枚買ってやるよと相手は鷹揚に言い、百円玉一枚を置いていった。ほっとして、わるいなと言えば、奴はすでに広場を後にして背を向けたまま手を振ってきた。惚れるだろ。
地図は二枚一組で順調に売れた。しかしなぜか売り上げは想定の半分以下。騙されたと気付いた時には遅かった。
まあ、元手はゼロなのだ。もちろん宝なぞ隠していない。クレームが入ったとしても、捜し方が悪い、あるいは誰かに先を越されたんだろと返せばいい。完璧な詐欺だ。まあ、五十枚の地図を手書きしたわけで時給換算すると……人気のなくなった広場で計算機を叩き、店仕舞いを始めた。
と、視線を感じて顔を上げる。
犬が蹲ってこっちを見ていた。いや、ずんぐりむっくりまるまるの小熊。いや、違う、子どもだ。四、五歳ほどの、への字口で白目がないんじゃないかというぐらい真っ黒な目をした。そしてうっすら毛深い。
「……ほしかったのか?」
あまりな圧に、子ども(俺だって子どもだったが)の前にしゃがみ込んで訊くが、微動だにしない。顔立ちは日本人とあまり変わらないが、言語が違うのか、無反応。俺は嘆息して立ち上がった。
初冬の夕暮れは早く、棟と棟の間に太陽がとぷんと沈み、細い残照にさらされる。大人たちが仕事を終えて帰ってくるには少し早い時分。
歩き出したものの、肩越しに見やれば子どもはまだいる。地図は売り切れ、あったとしても金を持っているとも思えない。
俺はダンボール看板の端っこを破り、油性マジックで略した絵地図を描いた。適当な位置に王冠マークもつけてやる。
そいつを渡すと、小熊の顔は輝いた。笑った、とは少し違う。無表情に意思が灯ったように、ぱっと明るく。
小熊は何事か呟き──カム・オンと聴こえたが意味はわからない──ダンボールのかけらを胸に抱いて転がるように駆けて行った。
その丸こい背中を見送り、俺は祖母がパートから戻る前に帰るべく、家路を急いだ。
その夜はやたら騒がしかった。団地に住んで一か月、外で人がたむろっている気配は常にあったが、今夜は少し趣きが違う。
ベランダから見下ろすと大人たちが声を上げながら走り回っていた。言葉はわからねど切羽詰まっている様子は感じられた。何かを……誰かを捜している。時に姿勢を低くして、茂みや車の下を覗き込んで。
嫌な予感がした。
夕食が済んだ午後七時半。母はまだ仕事から帰っておらず、祖母は居間でテレビを観ている。
俺はランドセルにキーホルダーで括り付けていた自宅の鍵をポケットに入れ、足音を忍ばせて玄関に向かった。スニーカーは三和土においたまま、下駄箱に仕舞ってあった長靴を履き、外へ出る。そして元通り施錠し、俺は長靴をがっぽがっぽいわせながら走り出した。
精一杯急いで団地の東端にある給水塔へと向かう。こけしのようなフォルムで、ディストピアっぽい演出に一役買っていた。
たしか、このあたりに王冠マークを描いたはず……辺りを見回すと、給水塔を囲うツツジの茂みから短い脚が飛び出ており、悲鳴を上げかけた。死んで──ない。それはもそもそと後退して、脚から尻、尻から背中そして頭と姿を現す。あの黒目勝ちの小熊じみた子どもだ。
色々な意味で安堵して、みんな捜してる帰ろうと言って腕を掴んだ。が、子振り払われた。そして再び、茂みの中へ突入していく。何度かこのやり取りを繰り返し、勝手にしろと怒鳴りそうになった時、地面に落ちたダンボールの切れ端が目に入った。インガオーホー──最近、国語の授業で知った四文字熟語が過ぎる(漢字は思い出せない)。
母親が仕事から帰ってくる時刻が迫っていた。祖母だけならともかく、母に家を抜け出したのがばれるのは避けたい。ポケットに突っ込んできた鍵を握り締める──と閃いて、鍵をつけていたキーホルダー──昔、父親がくれた北の大地の土産──を外して、それを地面に落とした。
あ、なんだこれは、もしかしてお宝なんじゃね!?──そう大袈裟に騒ぐ。子どもはキーホルダーを拾い上げしげしげ眺め、ふんふん匂いを嗅くが、ピンときていないようで、放り投げようとしたその手を止める。
「熊だよ、木彫りの熊。ナンバーワンホッカイドーミヤゲ!」
子どもは不思議そうにクマと繰り返す。俺はかくかく頷き、イエスクマ、ユーアークマ、ベリープリティークマ!と盛り上げる。
クマ? と疑問符をつける子どもにクマ! と断言したところ、子どもはようよう納得したらしかった。
頷き、キーホルダーを握り締め、反対の手を繋ぐ。その小さな手は驚くほど熱い。顔を覗き込むと、夜目ではわかりにくいが赤いようだった。目も潤んでいる。
暖冬が進んでいるとはいえ、夜は冷える。俺は子どもを負ぶって、指差しナビに従い、外観が同じのぬりかべ棟を縫い歩く。
しばらく歩き続けて、通り越しちゃったんじゃないかと不安になってきた頃、道先がやたら明るいことに気付いた。
最奥のぬりかべとぬりかべの長辺の間──棟のベランダ側に入り、目を瞠る。
最初に連想したのは色とりどりの
後で知ったのだが、それは中に光源を入れたランタンで、彼らの国ではランタンを吊るして邪気を払う風習があるそうだ。その国の世界遺産古都でも観光名物となっているランタン祭りがある。
彼らというのは子どもの親や同胞のことだ。棟と棟の間で、布地を通した滲むようなぽったりした光に包まれ、浮遊感にぼうっと突っ立っていた俺と子どもに駆け寄ってきた大人たち。
大柄な男が勢い良くやってきて、すわ殴られるかと身を硬くすれば、背中の子どもごと抱き締められる。三十代ほどの女性もやってきて、連れ帰ってくれてありがとう、と少しだけぎこちなさの残る日本語で言った。
ランタンは子どもの捜索のために彼らが吊り下げた照明だった。抱き締められていることも含め、この夢のような一夜から、俺と
クマというのはあの子どものことだ。勿論、本名は違うが、なぜか子どもは俺に〝クマ〟と呼ばせた。呼ばないと噛み付いてくるのだからしようがない。
俺はその後も偽宝地図を売り捌いたが、ありもしない宝を捜して行方不明になるガキが増えるのを防ぐため、必ずちゃちな玩具を仕込んでおいた。わりに盛況だったが、経費がかさみ、収支はとんとん。
広場で商売していると、クマの母親やら親戚やらに声を掛けられ、度々食事に招かれた。饂飩や粥、揚げ物には初めて口にする香草がたっぷり使われていたがおおむね美味で、団地での暮らしは悪くなかった。
たまに団地内の集会所に設置された持ち寄り図書コーナーで詐欺の参考になりそうな漫画やら本やら物色していると、よくクマが現れた。そうしてこれ読んでと言わんばかりに絵本を持ってくる。クマが出てくるものばかり。ウーフ、パディントン、プー、しろくまちゃん……その中でもしょっちゅう読まされたのが宮沢賢治の『なめとこ山の熊』という作品だ。前述したとおり、パロディできるほど。古びて角がへにゃへにゃで、絵も内容も渋かったが、クマはよくせがんできた。
猟師の小十郎と熊の話で、殺すものと殺されるもののはずなのに、不思議と二者の関係は友情にも似た清廉さがあり、一方で小十郎は荒物屋の旦那には軽んじられている。やりきれない、でも不思議な読後感の物語で、もしも本屋や図書館に行ったなら、ぜひ手に取ってみてほしい。
★
十数年が経ち、俺は高校を卒業後、奨学金でそこそこの大学に入り込み、日々小金を稼いでいた。サークルの人材斡旋、イベントのチケット委託販売、テスト前の情報提供、等々。つまりは何でも屋だ。
大学に入ったのは目的あってのこと。俺が目指すべき相手を信用させて
実は団地の同級生であるカルロス──偽宝地図の値下げ交渉をしてきた──が相棒候補だったが、今、奴は地球の裏側にいる。この国の経済は停滞しており、一昔前のように稼げるわけではなく、弱い立場の者から切り捨てられる。賢い奴だから、切り捨てられる前に見切りをつけたのだと思うが、だったらどうして旅立つ前に会わなかったのか。高校卒業後すぐのことで、彼が〝帰った〟のか〝行った〟のかわからず、俺は親友ときちんと話もしないまま別れていた。
「アサギ、どうかしたの? お腹痛い?」
給水塔の前で座り込んでいた俺に柔らかな声がかかった。
長い黒髪の若い女が、俺の前にしゃがみ込む。影と共に、花のような香りが降りかかる。
最早、熊とは似ても似つかなくなったクマだった。もさもさはつるつるになり、おまけに女だ。
彼女は呼び名とは裏腹に年々ずんぐりむっくりまるまるの小熊からかけ離れていった。若木のように手足が伸び、今ではすらりとした印象すらある。そしてだんまりクマが演技だったのではと訝るほど今は日本語も母国語も流暢に話す。すでに地元の縫製工場に就職していて、俺よりもよほど納税していた。
行こうよ、促されて立ち上がる。ごく自然に腕を組まれて、より濃く花が香る。俺とクマは給水塔のところで落ち合って、共に並んだ棟へと帰る習慣ができていた。
初夏の風が快い。まだ薄い闇と残照が混ざり合った淡い藍色の夜。最後の団地の谷間へ繋がる角を曲がると、そこは一面、滲む光の点描画。各ベランダから橙、赤、青、緑等々のランタンが鈴なりに吊り下げられていた。
眺めていると、宙に浮いているような心地になる。クマも同じことを感じたというわけではなかろうが、ふいに手を繋がれた。
と、シャッター音が響く。若い女性の二人連れが携帯端末を棟に向けていた。あの日、クマの捜索のために一棟のベランダに灯されたランタンは、今や映えスポットとなっていた。毎月一度は団地全体で『まほろばランタン祭り』が催され、県外から訪れる者やメディアの取材もやってくる。
ランタン祭りでは、ゴミ、騒音、プライバシー、交通渋滞などが危惧されたが、住民同士の雰囲気は昔より柔らかくなったという。これだからよそ者はと、団地ぐるみの清掃は連帯を育んだ。そして、よそ者はお金を落とすわけで、祭りの収益から、老朽化した設備の修繕ができていた。
まさか偽宝地図からの小熊捜索がこんなふうに繋がっていくなんて思いもよらなかった。それは、あの日繋いで、今日も繋がっている手も含めて。
しばらくぼおっと立っていたが、またあした、という声に我に返った。クマは朝が早く、絡めた指はすんなりほどかれる。ひるがえり、光の点描へと吸い込まれる後背は、胸を衝いた。また、あした。
クマほどではないが、俺とて、毎日を無為に過ごしているわけではなかった。
午後から大学に行き、混雑のピークを過ぎた学食を訪れると、その男はいた。日替わりスープとお代わり無料の白米だけを注文し、自家製漬物と生卵を持参して。
色々な講義や研究室に顔を出して相棒たる人物を探していたが、ついにこれぞという逸材を探し出した。
無精ひげに眼鏡、もさもさ癖毛、だが頭の回転は速く、博識だった。そして何より、磨けば光るタイプで眼鏡をとったら実はイケメンだ。
よお、イヌイと軽く挨拶すれば、白米を頬張った口は開かず頷き返してきた。
元々声を掛けてきたのは俺ではなくイヌイだった。社会学科の学生で、研究のために巨大団地の取材をしたいと住人である俺を人づてに紹介されたそうだ。
「週末あたり、団地を案内してもらいたいんだが」
もちろんと言いかけて。
――何名か、住人も紹介してほしい。
続いたイヌイの言葉に俺は一瞬黙った。
その一瞬に過ぎったのが誰で、どうして間が空いたのかわからないわけではなかったが、任せろと胸を叩いた。
週末休みだったクマにイヌイを会わせると、俺に団地外に友達がいたのかと驚かれた。クマの両親は、俺の友人は息子の友人と言わんばかりにイヌイをもてなした。
「……この団地は稀有だな。古くからの住民と、新しい住民が融和し、さらに外の人間との交流もある。古い住民が新しい住民の文化を受け容れて共通文化を構築するのはよほど珍しい。つまりはインターカルチュラリズムが自然に発生している。普通、言語や文化だけでなく、世代やライフスタイルが妨げの要因となるが、それらを飛び越えさせたのはランタンという、見た目の美しさと手軽さ、そして元々外灯が少なく必要とされていたことが要因と思われる。そもそも彼ら自身、移民でありながらベトナムの古都ホイアンのランタン祭りを故郷の風習として模倣するのは――」
送りがてら団地の出入口に向かう途中、イヌイはまほろば団地について熱っぽく、興味深げに語った。
折しも今夜はランタン祭り。多様な人々が入り乱れ、影絵じみた人波が俺たちを追い抜いてゆく。
出店の喧噪に紛れ、ふとイヌイは、〝クマ〟さんは本名ではないよなと呟いた。
「ベトナム語では恋人のことを、〝クマ〟を意味するところの〝gấu〟と呼びかけるスラングがあったそうだが」
──そういう意味で呼んでいるのか?
問われて、黙した。俺はその意味を知らなかったが。
人波に揺られているうちにイヌイとはぐれ、答えの出口も見失った。
イヌイはその後も足しげく団地に通ってきた。クマ一家の紹介で馴染むのも早い。一方の俺は暇をもてあまして、大学生らしい振る舞いに手を出してみた。
季節が夏から秋、秋から冬、そして『まほろば春らんまん祭り』のポスターが貼り出される頃、自転車で出勤しようとしているクマと鉢合わせた。
「仮装大賞?」
クマが言うのも無理はなかった。俺はリクルートスーツ姿だったのだから。
大学生らしいこと──就職活動真っ最中のため。俺をしげしげと眺めて、先輩社会人は全然似合ってないと笑う。
「今日の帰りも会える?」
その〝会える〟には多様な意味が含まれていると気付いてしまったからこそ。
俺は、帰ってきたら、という実に曖昧な返答でごまかした。
俺は駅に向かい、東京へ行き、最終面接を受け、そのまま就職した。
東京には親父がおり、そのアパートに転がり込んだ。
ちなみに親父は詐欺師とはなんら関係のないタクシードライバーをしていた。でも、俺は親父の生業にがっかりなんてしなかったし、そういうものだよな、と思う。
ともかく一度真面目に働いてみようと決めた。そうして、いつか、帰ったなら。
一年後、母親が再婚することになった。当然、相手は親父ではない。祖母はすでに亡く、まほろば団地の部屋を引き払うこととなった。
引っ越しの手伝いに行き、世話になった面々に挨拶をすべきだったろう。けれどその時、俺は感染症に罹ってしまっていた。
都会での独身男二人暮らしは無味乾燥だった。起きて仕事をして週末寝溜めする、その繰り返し。一年後、俺は親父の知人の会社に誘われて転職した。
やばい会社だった。住宅コンサルティング会社を名乗っていたが、関連の不動産会社や工務店とぐるになって詐欺まがいの営業をする。多分、反社なお友達もいる。
すぐ親父に問い質そうとしたが、出張と言って姿を消していた。その後、親父が知人とやらに金を無心していたことを知り、数年は雲隠れするであろうことを悟った。自分が人質――というより質草にされたことも。
あの野郎と思う一方、肩の荷が下りた。これできっぱり決別できると(数ヶ月後、南国リゾート背景の親父の写真が送られてきた時にゃその決意を新たにした)。
コンサル会社では綱渡りの日々だった。口は達者な方だったが、ドジっ子を演じて客の不信を煽り、交渉決裂、会社に戻って殴られる。
質草がポンコツだったことに、社長はおかんむりだった。なんとか元ぐらいは取ろうと、これならおまえにもできるだろうとある仕事を振られる。団地に住んでたっていうんなら、勝手がわかるだろう――老朽化したマンション・アパート・団地などの集合住宅のリフォーム詐欺だった。
多分、できる。できてしまう。高齢化した自治会の人間を取り込めばちょろい。そして俺はもう殴られたくなかった。これ以上、顔が歪んで俺だとわかってもらえなくなったら切ない。
だが、これは三流の詐欺だ。貧乏人ではなく、後ろ暗い金持ちをカモにしてこそ通報のリスクも低い。
鈴なりランタンのベランダ、給水塔の待ち合わせ、たっぷり香草の昼食、手書きの偽地図に群がるガキ共、繋いだ手に灯ったぬくもり――一斉に再生されて。
俺は尖った靴先で顔を蹴られながらも提案した。
「もっと、わりのいい商売があるんすけど」
さて、ここで冒頭、満天の星の下に戻る。
俺が提案したのは、リゾート地の売買――つまりは原野商法だった。昔取った杵柄で、偽のリゾート開発計画やら地域公共交通計画やらアクセスマップを作成して、いかに将来性に満ち満ちた土地であるかをアピール、つまりは団地のガキ共相手に売りつけた偽地図と同じ詐欺だった。
実際は何もない場所だ。広大な自然の中、安普請の営業所一つ。俺はその
ひどい田舎で、公共交通機関もなく、会社に〈売れなきゃ絶対帰れない土地〉に閉じ込められて早や三年が経過しようとしていた。
通信環境は整っていたものの、孤独はしんしん降り積もり、心を狂わせていく。
そんな時、俺はよくまほろば団地の古き良きブログを覗いた。春らんまん祭り、住民一斉避難訓練、納涼お化け屋敷、限界ウォーキング、年越しカウントダウン……折々の行事の記事が掲載されており、そして見つける。滲む光を背景に、赤ん坊を抱く若い母親の画像を。
クマは母親になっていた。父親は写っていない。きっと撮影してばかりなのだろう、赤ん坊のもさもさ癖毛から色々と察せられた。
俺は胸がいっぱいになる。嫉妬がないかといえば嘘になるが、それ以上に安堵した。俺がまほろば団地で詐欺師を目指していたのはこのためだった――なんて図々しく言わないが、それでもこの無為な日々が慰められた。
四年目に入り、人恋しさはますます募る。個人の端末は取り上げられており、貸与されたパソコンはリモートにて監視されており、滅多なことは書き込めない。
だから、音声入力がオンになっていて『クマのガキの頃そっくりだ』という呟きをコメント欄に書き込んでしまったのは不可抗力だった。
――アサギなの? 今どこにいるの?
おそらくはクマだろう、すぐに返信が来た。そこからは質問攻めだった。
――なにしてるの、どうしていなくなったの、アサギのお母さんも捜してた、みんな心配してる、お正月帰って来られないの――
無視するのが一番賢かったのだろう。けれど俺は人肌に飢えていた。文字だけだとしても。
……不動産関係の仕事をしていて、今はリゾート地にいる。綺麗なところだ。いつか子どもと遊びに来るといい。イヌイにもよろしく――
末尾に分譲地のリンクを貼る。これで会社には営業活動の一環と言い張れる。場所がわかったところでおいそれと来訪できない遠隔地だ。
俺は未練を断ち切ってブログを閉じた。それからしばらく、ブログへのアクセスを己に禁じ、せめてと星空を見上げてはランタンの光に思いを馳せた。
あと一週間もすれば師走というある日、がりがりと不穏な音がした。幻聴かと思った。近くに民家はない。人が訪ねてくる予定もない。
俺はネットニュースを思い出す。今年は山の実り不足で、冬眠前の熊が空きっ腹を抱えて人里に下りてきていると――
がりがり、がりがり、がりがり
どおん、どおん、どおん
続く重たいものが体当たりするような音にびびった。何をしていいのかわからず、混乱して、ジャージを脱ぎ捨て、スーツを着た。
どおん、どおん、どおん――どんっ!
営業所の戸が破られ、黒い巨体が現る。
誰も来るわけがないと高を括っていたから、お茶っ葉もなけりゃ、武器もない。初来訪者が熊なんて。荒い息で熊は歩み寄り、俺は壁際に追い詰められて――
「アサギ、久しぶり」
片手を挙げる熊からは懐かしい花の香りがした。ほとんど白目がない、つぶらな真っ黒な瞳には見覚えがある。この毛質にも。
馬鹿な。だってここは。ひしゃげた戸からのぞく漆黒の宇宙の彼方には母なる青い惑星が小さく見える。
「……地球外だぞ」
「元々、地球外星人だし」
言ってなかったっけ、と相手は首を傾げる。
外星人との接触事例は、いくつかニュースで聞き知っていた。とある地球外星人が、東南アジア某国の探査船の宇宙飛行士とファーストコンタクトし、地球に迎え入れられたことも。そうして某国民となった彼らがさらに日本にやってきて隣人として暮らしているとは想像していなかったが。それにしたってなんで熊。
「危険があるところではこの形態になって身を守るの。紫外線強いし」
アサギは
早く帰ろう、皆迎えに来たよ、イヌイは子どもとお留守番してるけど――腕を引かれて外に出れば、何頭もの熊がランタンをぶら下げ、粛々とやってくる。その連なりは光の帯となって遙か彼方の灰色の棟にまで続いているように感じられた。
アサギは星を売る仕事をしていたんだね――熊、もといクマに言われて泣きそうになる。この星、なんて名前?――問われて、まほろば星とぶっきらぼうに呟いた。〈了〉
まほろば星のクマとサギ 坂水 @sakamizu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます