8-4 avenge or revenge(7)

「そ……んな!」

 榊は堪らず、叫んだ。

 冷や汗が、頬から滴り落ちる。

 僅かに震える自身の足を、咄嗟に半歩引いた。

 頭の中でこびりつく忌まわしい記憶が、吐き気と痛みを伴ってぶり返す。

 〝こんなところに、アイツが……バケモノがいるはずが無い! なんで、いるんだ!? 逃げろッ! わっくん、逃げろッ!〟

 榊の耳に纏わりつくその声は、現実なのか。

 それとも記憶の声なのか。

 心臓が割れんばかりに、速く鼓動する。

 湧き上がる恐怖に、手錠で拘束されている不自由な両腕を榊は懸命に動かした。

 千々に乱れ荒ぶる榊の心が、手錠に繋がる腰紐を揺らす。

 意思を持つ生き物ように暴れる腰紐を、斉藤は強く握り直した。

「来るな、来るなっ!!」

 悲鳴にも似た、狂わんばかりの榊の声が古い洋館にこだまする。

 それでも、黒い影は止まる様子を見せず。

 ゆっくりと二人へ近づいてくる。

「大丈夫、わっくん。俺がいるから大丈夫」

 斉藤はゆっくりとした動作で、榊を後ろから抱きしめるように腕を回した。

 背中を包み込まれる安心感に反して、目の前に迫る恐怖が榊の体の中で増幅する。

 恐怖が安心感を、喰らい尽くしていく。

 逃げることすら身じろぎすることすらできず、冷静な思考すらままならない。

 榊は、混乱した。

「やめろッ!! 来るなッ!! 来るなッ!!」

「わっくん、逃げないで」

「いやだ、いやだ!!」

「もう一度、ちゃんと終わらせよう。わっくん」

「終わらせる!? 私は中ではもう終わったことだ!! もう何も終わらせるものなどないッ!!」

「ダメだ、わっくん」

「うるさいッ! 離せッ!!」

 むすがる子どもをなだめるように。

 暴れる榊を強く抱きしめる。

 柔らかであるのに、力強く榊を包み込む抱擁する斉藤の腕は。

 榊がどう身を捩っても、口汚く罵っても。

 ピクリとも動かず、全く解く事ができなかった。

 そんな榊の体をグッと己の体に引き寄せ、斉藤は一つ一つ言葉を丁寧に囁いた。

「ちゃんと、終わらせないとダメなんだよ。わっくん」


* * *


「わっくん、逃げろ!」

 幼い斉藤の叫び声が、全ての引き金となった。

 斉藤が素早く体を起こしたと同時に、大きな影と連れ立って入ってきた小さな影が揺れた。

 榊の小さな肺がハッと息をするよりも早く、軽い足音が玄関の方に向かって遠ざかっていく。

 怯えて涙で視界が揺れる榊の目が一つ瞬きをする間には、勢いよくドアが開閉する音が、洋館全体に響き渡った。

 本当に、一瞬の出来事だった。

 そして、涙が榊の頬を伝う次の瞬間。

 幼い斉藤の動作に目を向けたその時には、もう。

 斉藤の手に握られた十徳ナイフが、大きな影にめり込んでいた。

 榊の呼吸が、止まる。

「ぐっ、うぅぅ」

 男は脇腹を抑え、呻き声を上げた。

 脇腹を抑える指の隙間から、赤い血が次々と滲み出るのが見える。

 低く地鳴りのような声は、この世のものとは思えないほど榊の足元を揺らし、流れ出る血が榊の床についた指先を濡らした。

 まるで、地獄のようだ。

 先生が言う地獄だ、と。

 幼い榊は、その様子に酷く恐怖を覚えた。

 〝隣人を愛せよ〟と言われていたのに、愛せなかった。

 目の前で起こったこの惨状は、そんな自分に課せられた罰なのだと。

 自分が犯した罪が引き金となり、封印されていた悪魔が土の中から這い出て足首を握っているような感覚。

 逃れたくとも、逃れられない。

 言い表すなことも難しいほどの恐怖と絶望が、榊の小さな心を押しつぶした。

「わっくん! 早く、逃げろ!!」

 斉藤が榊に向かって再び叫んだ瞬間。

 バチンという鈍く重たい音と共に、榊の視界から斉藤の姿が消えた。

「わ、わっくん!?」

 ドタン--!! 

 榊が叫ぶのと同時に、床が割れんばかりの激しい音が空気を震わせる。

「何、しやがんだ……! このクソガキ!!」

「うぅ、っ」

 男に殴られた斉藤が、床に激しく叩きつけられる。

 男は、弱々しく呻き声をあげる斉藤の腹を蹴り上げた。

 腹を刺された苛立ちと怒りを抑えられない男の声が、榊の震える心臓を撫でるように響く。

「ふざけんな……! このクソガキ、ぶっ殺してやる!」

 蹴られた体を守るように蹲り、なかなか立ち上がることができない斉藤へ、男がゆっくりと近づいた。

 --大事な友達が! このままじゃ、わっくんが……! 

 そう思った瞬間、榊の体が沸騰するほど熱くなる。

 そして、頭が真っ白になった。

 今までに。

 これほど人を……憎いと思ったことなどない。

 多分、これから先もずっと。

 ボクはこの人を、きっと、ずっと。

 憎みを抱き続けて生きていくんだろう。

 先生も神様も何もしてくれなかった。

 そうか、そうなんだ。

 すでにボクは、地獄に落ちているんだから。

 だから、誰も助けてはくれないんだ。

 だったら、もう。

 ボクは、何も怖くはない。

 幼い榊は、憎しみを小さな胸に刻み込む。

 そして、今まさに。

 親友を殴らんとする男の背中に向かって、小さな体を突進させた。


* * *


 背後から榊を抱きしめていた斉藤は、榊が着用している深い青色ベストのチャックに手をかけた。

 そして、ゆっくりと下げる。

「俺はあの時、死ぬんだろうなって思いました」

 掘り起こした記憶の断片を正確になぞり、斉藤は榊の耳元で呟いた。

 ベストの下から露わになる、手錠に囚われた榊の白く骨ばった手。

 斉藤は、己の手をそっと重ねる。

 汗ばみ小刻みに震えるその手は、異様に冷たく感じた。

 重ねた斉藤の手から伝わる冷たさは、身体の芯まで凍えてしまいそうなほどで。

 それでも、その手に。

 斉藤は、古びた十徳ナイフを無理矢理握らせる。

「榊さん--わっくんが、アイツを突き飛ばしてくれなければ。俺はあの時、確実に死んでいた。なのに、俺はちゃんと。わっくんにお礼を言えずに……あろうことか、その大事な記憶に蓋をしていた」

「う、るさい! 黙……れ!」

「わっくんは、動けない俺を抱えて洋館ここから連れ出してくれた」

「違う! やめろ!」

「裏口から走って、めちゃくちゃ走って。愛宕神社の階段をひたすら登って」

「黙れッ!! 黙れッ!!」

「でも、は捕まった」

「ッ!!」

 斉藤の言葉に、榊は言葉を詰まらせた。

 途端に呼吸が浅く、早くなる。

 呼吸の乱れが伝播したのか、十徳ナイフを握る榊の手が異様に激しく震えている。

 その震えも動揺も。

 全て包み込むように、斉藤は榊の冷たい手を覆った。

「子どもの足じゃ、大人には敵わない。ましてや、二人とも怪我をしていたし、万全じゃなかった。よく考えれば、無謀な逃亡だったよね。でも、必死だった。生きるために、逃れるために必死だったんだ」

「もう……もう、やめろ!」

「アイツの手が、の腕に触れた。もうダメだって思ったんだ。でも、わっくんは咄嗟にの背中を押してくれたよね」

「っ!!」

「その反動で、は神社の石階段の外へと放り出されて。愛宕神社の急な山を転がり落ちた。木々の間を落下していく。痛かったけと、ボクはだんだん小さくなるわっくんの顔を見たんだ。それが、最後のボクの記憶」

「や、めろ! それ以上……言うな!」

「わっくんは、涙を流しながら笑ってた」

「うるさい!! うるさいっ!!」

「決して嬉しい笑顔じゃない。全てを捨てた、全ての感情を憎しみに変えた、そんな笑顔だった」

 斉藤は十徳ナイフを握る榊の手を、さらに強く握りしめた。

「その時、ボクは思ったんだ。このままじゃ、本当の意味でわっくんを救えない。だから、ちゃんと殺さなきゃって……。わっくんとボクとでアイツを殺さなきゃ、終わらないって」

 耳の奥に深く響く斉藤の声。その声に流されてしまないように、榊は大きくかふりを振った。

「違う!!」

「ごめんね、わっくん。そして、ありがとう」

「謝るな! 礼なんて言うな! なんなんだ! 買い被るなよ! おまえはもう関係ない! 私はもう解放された!! 私は大人になって、アイツに復讐したんだ!! 私の中では終わったことだ!! もうぶり返すな!!」

「違うよ、わっくん」

 その斉藤の言葉が、榊の胸にグサリと刺さる。

 長い間、榊の中心にあったあの感情がパリンと割れた気がした。

 間違い、だったのか? 

 自分がやったことは、全て間違いだったのか? 

 混乱し言葉を失う榊に、斉藤は優しく言葉を紡いだ。

「大丈夫、ボクが一緒だから」

「……一緒?」

 斉藤は榊の冷たい手を握り直す。

「うん。だから、一緒にアイツを殺そう」

 斉藤は小さく息を吐くと、榊の体を動かした。

 榊は堪らず、目を瞑る。

 目の前に迫る大きな影にあたる、ドンという衝撃音と振動。

 同時に、心臓が止まってしまうような感覚に苛まれる。

 一瞬の出来事を打ち消すような沈黙が、榊の耳を痛いくらいに刺激した。

 その刺激に耐えられず、榊は目を開く。

「ッ!?」

 斉藤と榊の握りしめた十徳ナイフ。

 それは、その影の真ん中を逃さず捕えるように、深々と突き刺さっていた。



 バタバタと革靴が、床にぶつかる音が響く。

 洋館の薄暗く静かな廊下が、賑やかだと思えるほどに。

 池井の頭の中は、スッキリと軽くなっていた。

 終わった、と。

 事件の細々としたことは、まだこれからではあるけれど。

 池井の中のもやが晴れた今、後悔という記憶に終止符が打たれた気がした。

 自身の中にポツンと置かれたコールドケースにもなりきれなかった事件が、ポロポロと崩れて無くなっていく。

 床に倒れて動かない男を見下ろして、池井は深く息を吐いた。

「いい加減に起きてくださいよ」

 池井は、洋館の廊下に倒れている男に手を伸ばした。

「終わったか? 池井」

「はい」

「そうか」

「遠野先輩ののおかげですね。俺も見ていて、背筋が凍りそうでしたよ」

「馬鹿いうな、池井」

「いや、本当ですって」

「しかし、相手のトラウマを呼び起こすのは、いい気分じゃないな」

「それを難なくこなしてしまうのが、先輩の凄さですよ」

 差し出された池井の手を握り返し、遠野はゆっくりと体を起こした。

「ったく。老体にこんなことさせんなよ」

「またまた! まだまだ現役のくせに!」

「現役って……。おい、池井。耐刃防護衣だって、痛くないわけじゃないんだからな」

「先輩だって、途中からノリノリだったじゃないですか」

「うるせぇよ」

 遠野は床に残された古びた十徳ナイフを拾うと、うんざりした顔で池井を見上げた。

「榊は、大丈夫そうか?」

「はい、今ポツリポツリとですが。瀬尾聖尭せお きよのりに対する傷害・監禁について吐いているところです。そのうち、瀬尾聖尭が関与する児童誘拐についても、詳しく話してくれるはずです」

「そうか。あんなに混乱した後だからな。あんまり無理をさせるようなことはすんなよ」

「今、斉藤と花井先生が榊についてますから、大丈夫ですよ」

「しかし、こんな無茶苦茶なこと。下手したら、榊の自我をやりかねんぞ。榊が早々に壊れなくて、むし幸運ラッキーだったな」

「本当に。斉藤が側にいてよかったです」

「それで終わりじゃないぞ、池井」

 さも体が重たいと言わんばかりに、遠野はわざとらしく池井の手を強く引っ張り立ち上がる。

 突然のことに少しよろけながらも、池井は遠野の力に応えるように体を引き上げた。

「斉藤だって、かなりのストレスを抱えているはずだ。おまえは、ちゃんと斉藤の側にいてやれよ。記憶を無理矢理こじ開けた斉藤こそ、一番ヤバいからな」

「分かってます、先輩」

 もう、なかったことにしてはいけない。

 俺も、斉藤も。過去に縛られ、記憶に翻弄された。

 まるで、見えない何か。

 そう〝死神〟に操られていたかのような、苦しく辛いそれらを。

 ずっと胸に抱き生きてきた。

 しかし、過去を、記憶を。

 全て消化していかなければならない。

 池井はハッと息を吐くと、真っ直ぐに池井を見る遠野を射抜くように見つめ返した。

 強い意志が含まれるその眼差しに、遠野は堪らず苦笑する。

 心配は無用だったな、と。

 池井の手を離した遠野は、ポンとその肩を叩いた。

「斉藤の側にいてやれよ、池井」

「もちろんです。それに……」

「それに?」

「もう斉藤には、記憶を支配する〝死神〟は存在しない。だから、もう大丈夫ですよ」



『一連の児童誘拐事件に終止符か?』

 その見出しは、関心がある人でないと目にも止まらないほどに。

 新聞の地方欄の端に小さく、とても小さく掲載されていた。

 事件に大小などない。

 それでも、小さな事件は風に舞い上がる木の葉のように。

 あと一週間もすれば、忘れさられていくのだろう。

 そう、記憶に蓋をしない限り、忘れ去られてしまうのだ。

 斉藤は小さく息を吸うと、小さな新聞の記事に目を落とした。

『F県警人身安全・少年課は、児童誘拐及び強制性交の容疑で瀬尾聖尭をF地検に書類送検した。また県警は、同事件の従犯並びに隠匿の疑いで、瀬尾聖尭の兄である瀬尾優聖から任意で事情を聞いている。この事件に関連して、瀬尾容疑者を監禁し、暴行を加えたとして男性を逮捕している。この男性は、瀬尾容疑者の被害者とみられており、警察は余罪があるとして、さらに瀬尾容疑者の捜査を進めている』

 はぁ、と長いため息を吐いて。

 斉藤は新聞から目を離した。

 天を仰ぐと、果てしなく続く青空が視界いっぱいに広がる。

 時折、体を撫でる心地よい風を全身にうけるように、斉藤はぐーっと大きく伸びをした。

「よう、斉藤」

 突然、心地よい風に乗って自分を呼ぶ声に。

 斉藤は目を見開き、声のする方へ顔を向けた。

「栗山係長」

 雲一つない青空のような笑顔を炸裂させ、栗山は斉藤に右手を上げて「おう」と返事をする。

 相変わらず、無駄にイケメンだな、と。

 斉藤は苦笑した。

「元気か? 斉藤」

「おかげさまで。相変わらず忙しそうですね、係長」

「おう。おまえが急に辞めちまったからな。池井補佐をはじめ大忙しってヤツだよ」

「それはそれは。お忙しい中、わざわざいらしていただき、本当に申し訳ないです」

「本当に。斉藤のそういうとこ、変わんねぇよな」

「栗山係長の前だからですかね。本音で喋れるんですよ。それに警察官時代はとお世話になりましたから」

「うっせぇな。色んな含みを持たせんなよ」

 栗山は居心地悪そうに頭を掻くと、斉藤につられるように苦笑いを浮かべる。

 そして、縁側に腰掛ける斉藤の横にドカリと腰を下ろした。

 榊の逮捕から一ヶ月。

 斉藤は、警察官を辞職した。

 事件捜査の途中であったにも拘らず「警察官を辞めたい」と、斉藤は池井に意思を伝えたのだ。

 中途半端に辞めること、ましてや事件捜査の真っ只中で全てを投げ出すことになるのは、斉藤自身、なるべく避けたいと思ってた。

 しかし、目の前に浮上したあまりにも、大きな問題に斉藤は意を決する。

 あまりにも急で、潔い。

 「辞める」と言い放った斉藤の言葉が、かなりの衝撃で池井に突き刺さった。

 最初こそ目を丸くした池井であったが、斉藤の意志に反対はしなかった。

 「斉藤は、そう言うと思ったよ」と。

 斉藤の頭を、まるで幼な子を愛しむように優しく撫でて言葉を返してくれた。

「どうだ? は忙しいか?」

「はい。まだ、慣れなくて。一日一日が目が回るようなバタバタさです。子ども達のおやつも作ってるんですよ、俺」

「へぇ、すげぇな」

「でも、寒天ゼリーしか作れなくって。それがイマイチ評判悪くて。寮母さんに色々教えてもらってるところです」

「寒天ゼリー? なんだよ、それ」

「俺の〝おふくろの味〟みたいなもんです」

 斉藤のあまりにも平和な言葉に、栗山は声を出して笑った。

 住む世界が、違うのだと。

 手の届く距離にいたはずの斉藤を少し遠くに感じた。

「どっちかっつーと、斉藤は警察官よりこっちの方があってるかもな」

「自分でもそう思います」

 思いきりよく警察官を辞めた斉藤が、今立っているその場所。

 そこは瀬尾優聖が運営していた児童養護施設だった。

 責任者が不在となった施設、そこにいる子ども達をまた不安にさせたくない。

 その一念から、斉藤は瀬尾から児童養護施設を引き継いだのだ。

 当然、斉藤にとっては右も左も分からない世界だったが、そこに救世主が現れる。

 H市職員の永井浩史だ。

 彼は斉藤に様々なノウハウと官公署から受けられる助成等、たくさんの助言と支援をしてくれたのだ。

 彼は「ようやく、本当に助けられた感じがします」と笑って言った。

 斉藤がこうして、児童養護施設を切り盛りできるようになったのは、永井の多大なる尽力のおかげだと言っても過言ではないだろう。

 その影には、斉藤のために人知れず東奔西走した池井の姿があったことを、斉藤は永井から聞いた。

 苦手な印象しかなかった臨床心理士の花井も、自身の空いた時間に環境の変わった子ども達のケアをボランティアでしてくれている。

 ウザくて仕方がなかった栗山ですら、こうしてたまに顔を出しては、何かと文句や雑談を言いながらも斉藤の様子を気にかけている。

 そうだ。

 人は一人ではどうにもならない。

 隣人は無理矢理、愛するものではない。

 無条件に愛してくれるからこそ、隣人なのだ。

 だから、同じだけ愛を返すのだと。

 斉藤は、改めて実感する。

 わっくん、も--榊も。

 一人ではない、と。

 榊を思う人が、こんなにもたくさんいるということを。

 その隣人を愛することは怖くないということを。

 榊に伝えなければならない。

 斉藤は深く思いながら、再び青い空に視線を移す。

「どうだ? 保育士の勉強捗っているか?」

「目下、通信制の大学で猛勉強中です」

 「そうか」と、短く返事をした栗山は、澄み切った空を見上げた。

「榊が、おまえに謝りたいってさ」

「え?」

「瀬尾に復讐する。そして、おまえにその罪を着せる予定だったらしい」

「……」

「ゆっくりだがな。榊が少しづつ自供してる。斉藤が関わった一件以降、そのままにしておくといずれ捜査の手が及ぶと判断したらしい。瀬尾優聖は弟をずっと施設で監禁していたそうだ。次第に瀬尾が歳をとり制御が敵わなくなった矢先、再びモンスターが解放されたんだと」

 何とも言えない、といった表情をする栗山は、眉間に皺を寄せて、言葉を続ける。

「ヤツは、玩具をちらつかせて再び子どもを誘拐しはじめた。榊は機会を窺ってモンスターに近づいたらしい。それこそ、子ども達を逃すために、と話してた」

「そんな……」

 榊が自分を許せない理由がわかる。

 自分だって、榊の立場だったら、同じことをしたはずだ。

 斉藤は、言葉を詰まらせた。

「そんな最中さなかにおまえと出会ってしまったんだって。全てを忘れてのうのうと生きてる。〝自分はずっと苦しんでいるのに〟って。そんな斉藤が許せなかったんだと。おまえに近づいて、鞄に盗聴器を仕掛けて、おまえを追い込む」

「そう、なんですね」

「はじめは内通者なんて思ってたけど。盗聴器とはな。そりゃ、筒抜けだよな。警察こっちの動きなんて。あやうく、俺は殺されかけたけどな」

「……巻き込んでしまって、申し訳ありません」

「ま、俺は不死身だから、心配すんな」

「また、それですか」

「〝また〟とはなんだ〝また〟とは」

「栗山係長のそういうとこ、俺は好きですよ」

「うるせぇ。好きなんて言葉、おまえに言われても微塵も嬉しくないっつーの」

 斉藤と栗山は、顔を見合わせて笑った。

 真実を知ることは、時に信じられないほどの苦痛を伴う。

 一人でいたならば、また記憶に縛られ深く闇に落ちてしまうところだった。

 栗山に救われる。

 花井にも、そしてあの時から全く変わらない池井にも、救われる。

 そして、今度は自分がちゃんと救うのだ。

 死神はもういない。

 未だ死神から逃れられないのなら、共に戦う隣人がいることを。

 それを榊にもわかってほしかった。

「榊に伝えてください」

 斉藤は、頬を撫でる一陣の風に目を細めて言った。

「〝待ってる〟と。榊に伝えてくれませんか?」

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