8-3 avenge or revenge(6)

「あいにく弟は、暫く外出してまして……連絡がなかなか取れないんです」

 良い声だ。

 これは、子どもも安心してしまうだろうな。

 瀬尾優聖せお まさきよの穏やかに響く声は安定しており、緊張からくる固さなど微塵も感じさせない。

 栗山は感心して、一人大きく頷いた。

「へぇ、そうなんですか。で、どちらに?」

「え?」

「弟さん、瀬尾聖尭せお きよのりは、どちらに行かれたんです?」

 栗山は瀬尾に、にっこりと笑顔を見せる。

「……ふらっと」

「ふらっと?」

「いつもふらっと、どこかへ行ってしまうものですから。居場所まではちょっと。いい加減、いい大人ですから」

「そうっすか」

 何か含みを持たせた栗山の返事。

 瀬尾は、眉を顰めて栗山を凝視した。

 しかし栗山の仕草や口調はゆったりとして、特に瀬尾や弟対して、大した関心もないように思えたのだ。

「弟が、何か?」

「いい大人でも、心配くらいするでしょ?」

「いえ、特には」

「なんか、あれっすね」

「何ですか?」

「まるで弟さんがいなくなってホッとしてる、みたいな?」

 そんな事ありえない、と。

 瀬尾は穏やかに笑って呟いた。

「刑事さんが心配されなくても。聖尭はそのうち、ひょっこり帰ってきますよ。今までだって、何回もありましたから」

「今回は、ちょっと……。本当に帰ってこないかもしれませんねぇ」

「え?」

「知りませんでした? 瀬尾さん」

「何をです?」

 相変わらず含みある表情で、栗山は右手の指を顎に滑らせる。

 栗山のに、過敏に反応することなく。

 瀬尾は腹を探るように、ゆっくりと返事をした。

 そんな瀬尾を尻目に、栗山がため息と同時に言葉を吐き出す。

「弟さん、結構な重傷で病院に搬送されてるって。ご存知ありません?」

「ちょっ……!? どういうことですか!?」

 安定していた瀬尾の口調が、顕著に乱れた。

 ところが、乱れた口調とは裏腹に、栗山から見る瀬尾の表情はどこか落ち着いている。

 栗山は警察手帳に挟んでいた手のひらサイズの紙片を取り出すと、瀬尾に向かって差し出した。

「ッ!?」

 瀬尾は思わず息を呑んだ。全身に包帯を巻かれ、ベッドに横たわる大きな男の写真。

 所々赤くシミが浮き出る包帯が、この上なく生々しく写る。

 睫毛まつげが震え、瀬尾の目が僅かに見開かれた。

 穏やかな表情が一気に崩れ、動揺を隠すことなく瀬尾が狼狽する。

「あぁ、やっぱり! その反応、絶対に弟さんですよね」

「いや、そんなに……包帯が巻かれていたら。弟かどうか分かりませんし」

「そうですかぁ、残念」

 心底残念そうに、栗山は大袈裟に天を仰いだ。

「じゃあ、仕方ないっすね」

「仕方ない?」

「瀬尾さんがわからないなら。ここにいる子ども達に、この写真を確認してもらってもいいですか?」

「それはッ!!」

「では、認めます?」

「ッ!!」

「これは、あなたの弟・瀬尾聖尭だと。認めますか?」

 栗山は瀬尾との距離を積めると、圧を込めて言い放った。

「実はですね、弟さんは連続児童誘拐及び暴行、あと俺を車で故意にねやがった轢き逃げの容疑者なんですけど。瀬尾さん、何か心当たりあります?」

「違う……違うんだ。聖尭は」

 真っ青な顔をし、浅い呼吸で膝から芝生に崩れ落ちる瀬尾の腕を栗山は強引に引く。

「何が違うんです?」

「聖尭は……あの子は、子どもなんだ。まだ子どもで……」

「はぁ? 立派な大人って、さっきあんた自身が言っただろ? 何、今更矛盾したこと言ってんだ」

 勝手な言い分に幾分腹立たしさを込めた栗山は、語気を強めに言い放った。

 「あの子は……あの子は何も知らない。だから……」

 か細く、覇気のない。

 振り絞るように発せられた瀬尾の掠れた声。

 縋り助けを求め、揺れる眼差しで瀬尾は栗山を見上げる。

 そんな瀬尾を、栗山はため息をつきながら呆れた眼差しで見下ろした。

「仮に弟さんが、あんたの言う子どもだとしても。だからって、何の罪もない子ども達を弟さんの玩具おもちゃにしていいわけないよな?」

「そ、うじゃない。そうじゃないんだ!」

モンスターさんを誰がそこから解放したから知らないが、明るみになって、あんたも弟もかえって良かったんじゃないのか?」

「違う! 違う!!」

「正直、の子ども達だけじゃないからな? モンスターが解放されてようやく、やっと繋がったよ。な余罪とがね」

「ッ!」

 〝あんたが、見て見ぬふりして放置した結果だ--。そろそろ、報いを受ける頃合いなんじゃないのか?〟 

 瀬尾の耳元で紡がれる、栗山の静かで圧のある声。

 瀬尾にはその声が、天使が吹く黙示録の喇叭ラッパに聞こえてならなかった。

 それは決して揺らぐことがない。

 全ての裁きの始まりを告げる喇叭ラッパなのだ、と。

 わかっていた。

 わかっていた、のに。

 最愛にして、最悪の弟を戒めることも、止めることもできなかった。

 そして、開きなおった。

 全ての罪は、自分が背負えば良い。

 簡単なことだ、と。

 そう瀬尾は思っていたが、現実はそう甘くもなかった。

 瀬尾の耳にはいつも、子ども達の悲鳴が纏わりつく。

 それは弟である瀬尾聖尭か忽然と姿を消しても、穏やかな時間を過ごしていても、決して耳から離れることはなかった。

「やめて……! 痛い……痛いよ、助けて! やだ、やめて! お願い」

 特別な日、と言って。

 住宅街の奥まった場所にある洋館へ子ども連れて行く。

 連れて行くと洋館の奥の部屋に無理矢理押し込んで、外から鍵をかけた。

 扉の向こうから、子どもの悲鳴が聞こえる。

 瀬尾優聖せお まさきよはたまらず耳を塞いだ。

 何度聞いても、この声だけは慣れることができない。

 胸が引き裂かれるようだった。

 純真無垢な子どもに、隣人を愛せと説く自分は、人にあらざるその隣人を無理矢理〝愛せ〟と言う。

 愛せるわけがない。

 そこには、愛のかけらなどないのだ。

 どうにかしなければ、といつも思っているにも拘らず。

 助けることも、現状を覆えすことも。

 壊すこともできない。

 どうすることもできず、ただただ。

 何もできなかった罪の烙印が子どもの数と等しく刻まれた。

 そして、救われたい一心で、神に懺悔する毎日。

 罪が胸を圧迫し、呼吸をすることすらままならないのに、己が救われたいという矛盾した気持ちは微塵も変わらない。

 その隣人を……手放さなければ。

 しかし、瀬尾は。

 そのバケモノを、どうしても手放すことができなかった。

 血を分けたバケモノを、手放すことができなかったのだ。

 そうか、とうとう喇叭ラッパが鳴ったのか--。

 瀬尾は、虚な眼差しで子ども達の賑やかな声を追った。

 右手で顔を覆うと、弱々しい声で呟いた。

「私が全ていけないんです……!」


 甘さを含む風の音に紛れて、イヤホンの奥がガサッと擦過した。


『引き当たり支援・栗山から各局。瀬尾優聖を確保。繰り返す、瀬尾優聖を確保』


 栗山のはっきりとした力強い声が、無線を通して斉藤の耳を震わせる。

 思わず、斉藤はハッと短く息を吐いた。

 いよいよ終わらせることができる--! 

 長い間。

 恐ろしく長い歳月を経て。

 自分も榊も、記憶を支配し縛していたしがらみから解放される。

 榊の腰縄を握る斉藤の手に、一層力が入った。

 緩やかで、長い坂道を榊と並んで歩く。

 歩調に合わせて揺れる視界には、あの洋館の断片が、写り込みはじめた。

 斉藤は大きく息を吸う。

「あの時、わっくんは俺を助けてくれようとしてくれた」

「いつの話です?」

 先ほどまでかなり感情的で、乱れていた榊も大分落ち着いて。

 その受け答えも、冷静に戻っていた。

 しかし、硬い声質と返事は。

 乱れた榊の心を隠そうと、必死に体裁を取り繕うとするのが、斉藤には手に取るようにわかる。

 斉藤は、榊に微笑んだ。

「その答え合わせです」

「え?」

「さっき、俺は、暴行を受けている記憶は、異質な記憶だって言ったでしょう?」

「えぇ、言いましたね」

「多分、わっくんと俺。リンクしちゃったんだと思うんです」

「斉藤さん、本当に。あなたは、何言ってるんです?」

「暴行を受けている恐怖の記憶と、それを見て動けないでいる恐怖の記憶と。俺には何故か両方あって。どちらが正しい記憶なのか、さっきまで俺には全く分からなかった」

「だから?」

 冷たく放たれた榊の短い単語は、物理的にも心理的にも斉藤との距離を広げる。

「俺は強い武器があれば、大人でも、悪いヤツでも。どうにでもなるって思ってました」

「だから、なんですか?」

 不審極まりない、と。

 視線を歪める榊に、斉藤は記憶のパズルを嵌めるようにゆっくりと口を開いた。

「あの日、俺は。祖父の工具箱から十徳ナイフを持ち出したんです」


* * *


「トモダチヲ、ツレテクル」

 そう言って。

 斉藤湧水さいとう わくみに覆い被さっていた大きな影は、重たい足音を立ててドアの向こう側へ消えていった。

 瞬間、斉藤の強張った体から力が抜け、今まで味わったことのない鋭く強い痛みが斉藤の心身を蝕んでいく。

「わっくん、わっくん……?」

 体中が痛くてたまらない。

 親友の声にすら、上手く応えることができない。

 熱が籠り、体の表皮を、覆う不快さに体の中から吐き気が込み上げる。

 着衣は破かれ、乱れ。

 ポケットに忍ばせていた祖父の十徳ナイフでさえ、どこかへ転がってしまって見当たらない。

 〝こんなはずじゃなかった--!〟と。斉藤は、声のする方に視線を泳がせた。

 この日斉藤は、意を決して親友を苦しめていた〝バケモノ〟と対峙した。

 いざとなったら、祖父の十徳ナイフをチラつかせれば、どうにかなると踏んでいたが。

 その考えは甘過ぎたことを痛感する。

 瞬きをしているうちに殴られ、動きを封じられた。

 あっという間に床に張り倒され、体の中まで切り刻まれるような痛みに襲われる。

 あまりにも強い力。

 そして死を意識するほと酷い暴力に、ろくに抵抗もできなかった。

 これは、夢だ。

 夢なんだ、と。

 今の自分が、自分じゃなければよかったのに、とさえ強く思ってしまうほど、辛かった。

 怖かった。

 そして、全てが悲しかった。

「わ……くん、ごめ……」

「ごめん、ね」

 斉藤を見下ろす声の主の顔は、薄暗くてよく見えなかったが。

 発する声は涙を含み、湿っていて嗚咽が混じる。

 至る所で痛みの悲鳴を上げる体を無理矢理起こし、斉藤は啜り泣くわっくんの小さな背中をゆっくりと摩った。

「泣かな……で。泣か……ないで」

「ボクが、ボクがあんなこと……あんなの見せた、から」

「大丈夫、ボクは……わっくんも、怪我してる……だろ?」

「わっくん、立てる? 今のうちに、早く逃げて!」

「わ、くん……?」

「アイツが帰ってこないうちに! 早く!!」

「そ、んな……ボクがいなくなっ、わっくんが……!」

「ボクは大丈夫だから!! 大丈夫!! だから、早く逃げて!!」

「やだ、よ。わっくんと、いる……」

「早く!! 今のうちに裏口から、逃げて!!」

 互いの体を支えるように、二人の〝わっくん〟は肩を抱き合った。

「ダメだ、わっくん……一緒に、逃げよ」

 斉藤が固くわっくんの手を握りしめた、その時。 

 ギシリと、洋館が悲鳴を上げた。

 間髪入れず、ドアがバタンと開閉する音が響く。

 瞬間、わっくんが大きく体を震わせて、斉藤の手を振り払った。

 未だ体を思うように動かせない斉藤をそのままに、わっくんは部屋の隅へと走り出し身を隠すようにうずくまった。

 ミシ、ミシ、ミシ--。

 重たい足音と、軽い足音が斉藤のいる場所へと近づいてくる。

 斉藤は堪まらず、身を固くした。

 本能が体をドアから後退させる。

 その刹那、ガクンと体から力が抜けた。

 床に投げだされた斉藤の指先が、冷たい何かに触れる。

 --十徳ナイフだ!!

 キィッ。

 ドアが不快な音を立て、大きな影と小さな影が現れた。

 瞬間、大きな影が斉藤の目の前で揺れた。

 斉藤は、咄嗟に十徳ナイフを握りしめ叫んだ。

「わっくん、逃げろ!」


* * *


 斉藤は、目の前にそびえる古びた洋館を見上げた。

 あぁ、なんてことだ。

 ここは、ここだけは--一切、変わらない。

 昔の忌まわしい記憶を孕んでいるせいだろうか。

 記憶から随分と時間が経過しているにも拘らず、ここだけは、斉藤の記憶どおりすぎて。

 胸が少し、苦しくなった。

「確かに、俺が。榊さんの言うとおりだ」

「え?」

「俺がアイツに刺した十徳ナイフの傷、まだ残ってましたよ。榊さん」

 斉藤は横を歩く榊に視線を落とす。

「なんで、アイツを。俺の目の前に寄越したんですか? 榊さん」

「何のことですか? 斉藤さん」

 声に苛立ちが含まれる榊に、斉藤は苦笑いをした。

「俺に捕まえて欲しかったんでしょう? アイツを」

「本当、何言ってるかわかんないなぁ。斉藤さんは」

「榊さん……わっくんが、アイツを引っ張り出してくれたことには、とても感謝しています」

「……」

「でも、違う。わっくんの中では、終わってない」

「何、言ってるんですか? 斉藤さん。終わってない、とか。そんなの正直どうでもいい。あなたは、何がしたいんですか?」

 未だ斉藤の腹の中が読めない榊は、苛立ちながら強い語気で言い放った。

 そんな榊に、斉藤は優しく微笑むと、一歩踏み出すのを躊躇する榊の背中に手を添える。

 そして、踏み締めるように。

 目の前に聳える洋館へ足を踏み入れた。

 ギシリ、ギシリと劣化した洋館の廊下が悲鳴に似た音が上がる。

 一歩、また一歩。

 忌まわしい、あの奥の部屋が近づいてくる。

 二人は何も語ることなく、真っ直ぐ進み、斉藤は何食わぬ顔をしてドアノブに手をかけた。

 こいつは、平気なのか? 

 榊は隣を歩く斉藤を睨んだ。

 ギィという音ともに、封印されていたあの部屋が解き放たれる。

「もう一度やっつけましょう」

「さっきから、なんなんですか? 斉藤さん」

「ほら、アイツが来ました」

「え?」

 今きた廊下を振り返る斉藤につられて、思わず榊も振り返った。

「なっ!?」

 堪らず、榊が声を上げる。

 薄暗い廊下の先にぼんやりと浮かび上がる、影。

 幼い榊こと、和気大志わけ たいしが、最も恐れたあの男がゆっくりと近づいてきていたのだ。

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