8-2 avenge or revenge(5)

「一度……見せてくれた、ですよね? 榊さん」

 斉藤は榊の心中を探るように言った。

 今の状況を忘れ、過去を反芻はんすうしていた榊は、ハッとして斉藤を見る。

 少し困ったように眉尻を下げて静かに微笑む斉藤の顔は、榊の記憶に残るあの笑顔そのものだ。

 幼き自分がその笑顔に抱いた様々な感情。

 羨ましい、好き、嫉み、怒り。

 腹の底からせり上がり渦巻く感情。

 瞬間、胸が鋭く痛んだ。

「何を、見せましたっけ?」

 榊は歯切れ悪く答えた。

「……背中の」

「背中の?」

「背中の傷です」

「……いや、見せてないですよ。私には、そんな傷すらないです」

 榊の意外な答えに、斉藤は目を丸くした。

「おかしいな」

「何がです?」

「嘘はダメですよ、榊さん」

「嘘なんか」

「留置場に入る時、身体捜検しんたいそうけん(※逮捕後、その身体に凶器等を隠して所持していないか、身体検査すること)したでしょう、榊さん」

「だから何です?」

「あの時に、既往症を含めて、元々身体にある傷等を詳細に記録するんです」

「斉藤さん、それは」

「ちゃんとありました、。だから、俺。榊さんが〝わっくん〟だって、確信したんです」

 まさか、そんなことで。

 と、榊は大袈裟に首を横に振る。

「そんな傷なんて。背中に傷がある人なんて、ごまんといるじゃないですか?」

「違う、違いますよ。榊さん」

 斉藤は、俯く榊の顔を覗き込むようにして言った。

 今自分は、とても余裕がない顔をしている、と。

 榊は下唇を強く噛み締める。

 そうだ、動揺なんてしない。

 感情は全て、切り離したんだ。

 何の記憶にも縛られず、何も覚えず。

 今までのうのうと生きてきた斉藤に、を与えられたら。

 それで、それだけで、よかったはずなのに。

 --罪悪感。

 榊の脳内に、一つの単語が反響する。

 何が救えただ! 

 何がよかっただ! 

 それは……その感情は、おまえのエゴだろう!! 

 手錠を嵌められた手が、小刻みに震える。

 熱くなった目を見開いて、榊は斉藤を睨みつけた。


『違う!? 何が違うんだ? それを見たからっておまえは何をした!? 何もしてないだろう!! 何が救えただ! 何がよかっただ! おまえの中では完結してるかもしれないがな! 何も変わってないんだよ!! 全く何も! 何も変わらなかったんだよ!!』


 ガサッと不快な摩擦音と共に、無線から流れる榊の叫び声。

 鋭利な刃物のように、池井の耳を貫いた。

 池井は咄嗟に体を翻す。

 榊が暴走してしまうのも想定の範囲内だったが、斉藤がそれに耐えうるかが池井の懸念材料だった。

 斉藤の元に一歩踏み出そうとした、その瞬間。

 榊の死角にある斉藤の右手が、小さく上がった。

 動きを制する、その合図。

 斉藤から発せられるひどく強い圧に、足を止め池井はグッと息を飲み込んだ。


『やっと、本音が聞けた』

『ッ!?』


 池井はハッとした。

 震えて、自信のない斉藤の背中は、今はもう、それが夢だったかのように、強く揺るがない。

「ずっと。大事な何かを、誰かを無くしていたって思ってた。だから、かな。全く記憶がないのに、公園と洋館を行ったり来たりして。俺は何かをずっと探してた」

「はぁ!? 今更……今更、綺麗事なんか言うなよ! 全てなかったことにしていたヤツに、そんな事なんか言われたくない!」

「そうなんです。だから俺……。誰かを裏切ったような気がしていて。それが分からなくて、凄く怖かった」

「なっ……!」

「俺は、あなたを見つけたくて、行ったり来たりしていたのかもしれません。記憶は無くても、湧き上がる不安を消したかった。安心したかった」

 手錠を嵌められた榊の手元を隠す深い青色のベストが、小さく震えている。

 少し膨らんだベストの部分に、斉藤は軽く手を置いた。

「今から、行きましょう」

「いや、何言って……。本当、斉藤さんの言ってる事がわからない」

 苛立ち、うんざりしたような態度で、榊はベストの上に乗せられた斉藤の手を振り払う。

「倒しに行くんです」

「は?」

 目を見開き、榊は理解し難いといった表情をした。

 斉藤はそんな榊に、にっこりと微笑んで答える。

 力のある、揺るがない声音が榊の胸を抉った。

「〝月の死神〟をやっつけに、行くんです」

「斉藤さん……?」

「revenge(恨みある復讐) 、いやavenge(正義の復讐)かな?」


* * *


「〝わっくん〟の怖いものに会わせて」

 最初にそう言ったのは、斉藤湧水さいとう わくみの方だった。

 交番の警察官に言われたとおり、一緒に笑って、遊んで。

 多くの楽しい時間を共有したある日、幼い斉藤湧水は、親友の秘密を知ってしまった。

 わっくんという少年の、小さな背中にある、深く目を背けたくなるような無数の傷。

 斉藤は目が離せなくなったのだ。

 斉藤の申し出に、わっくんは小さく首を横に振った。

「ダメだよ……絶対無理だ」

「どうして?」

「敵わない、よ。相手は大人だ。ボクたち子どもが挑んでも、絶対敵わない」

「敵わないって思ったら、もっと強い大人を連れてくればいい!」

「そんなこと無理だよ!」

「どうして?」

「アイツはたまに、意外にも痛い事をするんだ! オモチャで誘って! 痛い事をして、泣かすんだよ!」

「オモチャって、もしかして」

 斉藤の問いに、わっくんが小さな肩を振るわせ、今にも泣きだしそうに顔を歪ませた。

「盗られた……」

「まさか」

「わっくんから貰ったカード……盗られちゃったんだ」

 悔しいそうに、悲しそうに。

 わっくんの瞳から、涙がポロポロと溢れ次々と頬を伝う。

〝このままじゃいけない、このままじゃ--会わなきゃ! 会ってボクの手が溢れたら、あのお巡りさんとこに行かなきゃ!! 大丈夫! できる!!〟

 斉藤は、強く拳を握りしめた。

「やっぱり、会わせて。わっくん」


「だから、ダメだって……言ったのに」

 和気大志わけ たいしは、膝から崩れ落ちた。

 虚な、光を失った目に。

 痣だらけの体が洋館の埃っぽい床に横たわる。

 親友の痛ましい姿を目の当たりにして。

 和気大志の心がミシミシと音を立てて、亀裂を生じさせた。

 瞬間、和気大志の耳に、先生の声が響き渡る。

 今の生活の全てである、先生のあの言葉がこだました。

『あなたは、仇を返してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなた自身のように隣人を愛さなければならない』

 先生の嘘つき--! 

 一番大事なの友達を傷つける隣人は、いらない!!


 先生は、いつも子どもたちに優しかった。

 穏やかでゆったりとした先生の声は、耳に心地よく安心する。

 突然両親を失って笑顔を忘れた和気大志に、新しい心の拠り所となっていた。

 まだまだわんぱくな子どもたちが喧嘩をしても、先生は静かに決して声を荒げる事なく諭すのだ。

「あなたは、仇を返してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなた自身のように隣人を愛さなければならない」と。

 和気大志は、そんな先生が好きだった。

 和気大志が〝ここ〟に来て一か月が過ぎた頃にそれは起きる。

「え?」

 おやつの時間に和気大志の目の前に出されたのは、甘い香りのするホットケーキだった。

 誕生日でもないのに何故、と。

 不思議に思って、和気大志は周りを見渡す。目が合った瞬間、他の子どもたちの顔が一瞬引きり、その後ほっとした表情をする。

 凪な水面に石が落とされた様に、和気大志の胸が不安の波紋を広げていく。

「今日は大志の新しい日だよ」

 不安な表情をした和気大志に、先生は優しく声をかけた。

 少しづつ不安を取り除くように、強張った小さな背中をゆっくりと摩る。

「新しい、日?」

「そう……新しい、新しい友達を作るんだよ」

「新しい友達?」

「いいかい、大志。何があっても。抵抗してはいけないよ? 恨みんでもいけない。自分を愛するように、新しい友達を愛さなければならないよ」

「先生、それ……どういう意味?」

「そのうち分かるよ」

「え?」

「さ、早く食べなさい。先生が友達のところに連れて行ってあげるよ」

「……はい」

 それが、和気大志の地獄の始まりだった。


* * *


瀬尾優聖せお まさきよさん、ですね?」

 教会の横にある脇道を進み、栗山は白い屋根の建物にたどり着いた。

 教会の離れだろうか。

 豊かな芝生が敷かれた庭。そこを所狭しと走り回る子どもの賑やかな声が響く。

(なるほどな。池井補佐の言ったとおりだ。)

 栗山はその隅で、子ども達の様子を穏やかな表情で見つめる、白髪の男性に声をかけた。

「はい。私は瀬尾ですが……何かご用でしょうか?」

「えぇ、まぁ」

 栗山は少し声のトーンを落とし、胸ポケットから警察手帳を取り出す。

 瞬間、瀬尾と言う男性の顔が引き攣った。

「F県警察本部、人身安全・少年課の栗山といいます。弟さん、瀬尾聖尭せお きよのりさんのことで、少し……いや、大分お話を伺いたいんですけど。お時間、いただけます?」

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