8-1 avenge or revenge(4)

「ねぇ、お巡りさーん」

 K署Y交番。西の空がわずかにオレンジ色を帯び、一日の終わりを告げようとしている。

 ぼんやりと遠くの空を眺めながら立哨りっしょうしていた池井は、足元から響く声に少しドキリとした。

 視線を下ろすと、小学校中学年くらいの少年が池井を見上げている。

 真っ直ぐ、池井にむけらている少年の輝く瞳。

 見下ろした池井の視線と、少年のそれがかちあった。

 あれだけ憧れた警察官の制服に身を包んでいるはずなのに。

 少年の瞳に反射するのは、想像以上に草臥れた眼光のない自分の姿であり。

 ハッとした池井は、短く息を吸って気合いを入れた。

「ん? どうした? もう家に帰る時間だろ?」

「うん。今から帰るところだよ」

「じゃあ、気をつけて。真っ直ぐに帰れよ」

「あのね、お巡りさん。ボク、聞きたいことがあるんだよ」

「なんだ?」

「友達がね、何か辛そうなんだ」

「辛そう?」

「うん」

「どう、辛そうなんだ?」

 少年は池井の問いに「それが、何も言わないから……。

 ちょっと、うまく言えないんだよね」と言って、苦笑いをする。

 困ったように頭を掻く少年の、その小さな頭に池井はそっと手を乗せた。

「でも、気づいてあげたんだろ?」

「うん」

「そんな変化に気づくなんて、大したもんだ」

「そ、っかな?」

「なんでもいいんだよ。やり方はたくさんある」

「やり方?」

「一緒に遊ぶとか、話を聞いてあげるとか。その子と一緒に笑ってあげな。ちょっとでもいい。力になってあげな」

「笑う? 力に、なる?」

「それが、その子の辛さを軽くしてあげられるはずだよ」

「そんなことでいいの?」

「それで、その子の辛さがちゃんと見えて。君の手から溢れるくらいの辛さだったら。また、お巡りさんのところにおいで。お巡りさんの力が必要だって思ったら、すぐに来るんだ。俺は、いつでも待ってるから」

「うん! ありがとう! お巡りさん!! ボク、やってみるよ!!」

 池井の言葉に、少年は満面の笑顔で「頑張る!」と言った。

 吹っ切れた、そんな表情をする。

 少年は踊るように駆け出すと、池井に大きく手を振りながら、住宅街の坂道を駆け下りていった。

 まさか、その少年と二度と会わなくなるなんて。

 この時の池井は、全く夢にも思っていなかった。


 あの時の少年は、ひょっとして……と。

 あの日から今まで、池井の頭の隅にこびりついていた。

 何かが引っかかるのに、何も関連付かない。

 何もできなかった自分が、幾度となく嫌になる。

 池井も、斉藤と同じだった。

 終わらない事件、終わらない記憶。

 そして、ようやく今。

 池井の中で、終止符を打てるかもしれない。

『いつまでも、こんなとこで立ってるのもなんなんで。斉藤さん……いや、わっくん。あの場所に行きませんか?』

 斉藤の無線を通して、榊の冷静な声が池井の耳を震わせる。

 体温が一気に降下したかのように。

 冷たい緊張が血管を巡り、全身に伝播した。

『あの場所、ですか?』

 榊の提案に、緊張しているのか。斉藤が少し固い口調で答えた。

『ほら、よく行ったじゃないですか?』

『ごめんなさい、堺さん。よく行ったって……どこでしたっけ?』

『あぁ、まだ記憶のパーツがバラバラなんでしたっけ?』

『あはは、そのとおりです! さすが榊さんには隠せないな』

 軽快に笑う斉藤と榊の声が、人気のない小さな公園に響く。

 イヤホンからの笑い声と、ダイレクトに耳に響く二人の声。

 池井は耳を澄まして、榊の発する次の言葉を待った。

『じゃあ、あの洋館って、言ったらわかります?』

「ッ!?」

〝きたーー!!〟

 斉藤の返事により反応するより先に、池井が鋭く反応する。

 しかし、その行動や口調は、ここにいる誰よりも静かで、冷静だった。

「引き当たり・池井から、各局。榊が……動くぞ--!!」



「あ、あぁ! あの洋館! まだなんですか?」

 鋭く冷静に響く池井の声に耳をくすぐられながら、斉藤はバラバラに散らばった記憶を呼び起こす。

 純粋に懐かしむような斉藤の反応に、榊は機嫌良く答えた。

「えぇ、まだありますよ」

「この辺、良く来るんですか?」

「え?」

「あ、他意はないんです。詳しいなって思って」

「……」

「祖父母が亡くなってから、俺、この辺全く来てなくて。いや……違うな」

 榊に繋がる腰紐を握り直した斉藤は、困ったように笑う。

 甘い香りとサワサワと木々の揺れる音。

 それが、二人を一気に現在から過去へいざなう。

 公園の真ん中を横断して、斉藤と榊は住宅街のこぢんまりとした道路に出た。

 蓋をしていた子どもの頃とは異なる、劣化したアスファルト。

 時間の経過と少しの後悔が、斉藤の胸の中で大きくなって未だ燻る不安定さを刺激する。

 何個もシミュレーションした榊との会話ですら、手先が冷たくなるほど緊張していた。

 お互いの記憶をぶつかり合わせ、蓋をした苦しい記憶のを暴露させることは、果たして正しいことなのか? 

 それにより、歪みが生じたら? 

 新たに傷つく人がいたとしたら? 

 明らかにする事が正義であり、それ以上でもそれ以下でもないと分かっていても。

 この事件の結末の落下地点が、想像できなくて。

 斉藤は思わず、腰紐を握る手に力を込めた。

「違う? 違うって何です?」

 穏やかに放たれる榊の言葉が、未だ迷いの消えない斉藤の胸を打つ。

 瞬間、斉藤の頭が、記憶が。霧が晴れたように明瞭になった。

--大丈夫だ。やれる!

「俺、以降、何回も公園とあの洋館に行ってたんです」

「え?」

「記憶を解放する前は、何で公園と洋館を行ったり来たりしてたんだろう、って。俺自身、不思議でたまらなかったんですけど」

 榊と並んで登る、緩かな坂道。斉藤は榊の目を、真っ直ぐに見る。

「今は、とりあえず……よかったって思う」

「何言ってるんですか? 斉藤さん」

「無事でよかった……!」

「……」

「わっくんが、生きててよかったって。救えて、よかったって……思うんです」

〝生きていてよかった、救えてよかった--〟

 斉藤の言葉が榊の胸を強く穿つ。

 鼓動が、突然大きくなった。

 息苦しささえ覚える圧迫した鼓動と、熱を含んだ全身の血液が急激に落下する感覚に榊は、震えが止まらなくなる。

 瞬間、榊の視界が、現在から過去へと。

 大きく歪むのを感じていた。


* * *


 和気大志わけ たいしに、両親の記憶はあまりない。

 うっすらと脳裏を掠めるのは。

 母親とおぼしき若い女性と、重い油の匂いが染み込んだツナギをきた若い男性の笑顔だった。

 今ではその笑顔も、ハッキリと思い出せない。

 大分時間が経過した時。

 中学を卒業し、高校進学だった。

 奇跡的に連絡のついた祖父母の所持していた写真により、消しゴムで消されたようにザラついた記憶がようやく補完された、といっても間違いではない。

 そうだ、は。

 幸せだった頃の記憶を消してしまわないと、生きてはいけなかった。

 幸せだった記憶を消してしまわないといけないほどに。

 絶望と恐怖と復讐が、あの頃の和気大志の生きる気力を支え、そして全てであった。

 音信不通だった祖父母と連絡がつくまでの、和気大志の人生は。

 これ以上無いほどに、辛く悲惨なものだったのだ。


 ある日突然、和気大志は土地勘のないこの住宅街に連れてこられた。

 三角の屋根のこぢんまりとした教会が、目に飛び込んでくる。

 その小さな建物に反比例する屋根についた大きな十字架が、空を裂くようだ、と。

 就学前にしては大人じみた感想を抱いていた。

 あぁ、これが。

 児童養護施設というんだ。

 和気大志は、全てを理解して教会の門をくぐった。


 そこにいた〝大人〟は、皆優しかった。

 穏やかで優しい神父と、いつも甘いホットケーキを作ってくれる元気で明るい寮母と。

 和気大志は、少し安心した。

 しかし、その安心は直ぐに打ち砕かれる。

 和気大志は、気づいたのだ。

 ここには比較的、華奢な男の子しかいないということを。

 そして、いつも悲しく、何かに怯えるような目をしているのだ、ということを。

 和気大志は、気づいたのだ。

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