水平線をふたりで見てる
瑞葉
第1話
朝の日差しってまぶしい。こんな山間まで、平等に照らしてくれて好き。わたしは毎朝六時に起きて、我が家(客観的に見て、ボロ家ってくらいの粗末な茶色い木造の家)から徒歩二分の神社に行く。神社へと続く急な坂道には、つかの間、海が見られる場所がある。朝の光を浴びた神々しい海。そして、わたしのお父さんとお母さんを呑み込んだ海。
森嶋神社はうちの家系の管轄。おばあちゃんとわたしと、妹の真央で守っていかなきゃならない。
わたしは小学生の時、不幸な海難事故から奇跡的に生還した子だ。おばあちゃんと妹はその時、船に乗らなかった。でも、あの海難事故では、わたしの父母含む大勢の人が亡くなった。同じフェリーに乗っていた中で、生還者はわたしを含めた十人だけ。
だめだ。ざわざわとしてはならない。心を清く穏やかに。丁寧に箒で、境内を掃き清めよう。今この瞬間、日本中で、少なくとも「あの人」は、同じ時間に「清掃」をしているのだから。
わたしの名前は森嶋(もりしま)歌帆(うたほ)。
十歳の妹、真央はさっき、布団をけとばして豪快に寝てた。いずれは、真央にも「このお勤め」の番がくるのかな。それとも、長女のわたしがずっと、「このお勤め」をするのかな。
わたしは今日、十七歳の誕生日。妹とかおばあちゃんには内緒だけれど、今日は「あの人」とカフェで放課後に会う。
朝のお勤め(掃除)がない真央は、わたしが境内を掃き清めている三十分くらいの間に、毎朝、いつの間にか起きて、ご飯を作ってくれる。メニューは、目玉焼きに納豆、ほかほかのご飯とナスやキュウリの漬物、それから味噌汁。真央のつくってくれた味噌汁はどんなものよりもおいしい。
朝の寒気で冷えていた体があったまっていく。わたしの中に、エネルギーが満ち溢れていく。
一時間に一本のバスから降りると、小学校入り口で真央と別れる。真央の周りにはすぐに友達何人かが集まってくる。わたしはここから、高校までさらに徒歩十五分だ。でも、今はそのひとときが何より至福。
「さくら川」と言われる、春には桜並木が見事な川の橋を渡る。朱塗りの禿げた橋の欄干に寄りかかって、「あの人」がいる。
周りには他の生徒だっているはずなのに。
あの人を見た途端、急に体が甘く火照る。おはよ、と声を出そうとするけれど、できない。亜麻色の髪は生まれつきだとあの人は言う。もしそれが本当ならば。こんな気持ちにさせるなんて、どうしたって罪深いことだ。
目の色も少し青みがかって見える。それでも、外国人の血は引いていないという。
「自分が知らないだけで、遠い遠い祖先が海の向こうから来たんじゃない?」
わたしは無邪気に聞いた。二週間前。
くぐもった笑い声をあげて、あの人はわたしの髪についていたゴミをはらう。いや、そういう名目で、前髪にそっとさわる。女の子の扱いに慣れてるのかな、とは感じるけれど、わたしはそれが嫌いではなかった。
「そだね。でも、俺の親父と母さんは、俺の見た目が原因八割くらいで、離婚しちまった。俺が小学校五年生の時。外国人の子じゃないのかって思われたんだ」
蒼くんはわたしから目を離すと、遠くの電柱にヒヨドリが止まってるのを静かに見ていた。
「そして、家を出た親父は船に乗って、死んだ。あの事故の起きたフェリーで、横浜に渡ろうとしてたんだ」
それって。聴こうとしたわたしは、ヒヨドリがはばたいたため、聴く機会を逃してしまう。わたしがお父さんとお母さんを失ったフェリー。あの海難事故の記憶がよみがえりそうになって、わたしは首をぶんぶんと振る。
覚えてるよ。あのおそろしい水。凍るように冷たかったこと。
「聞いてる? 森嶋」
蒼くんが、わたしの額をデコピンする。わたしははっと我に返る。
「今日もしたよ。うちのクリニックの前の掃除」
蒼くんは言って、わたしの隣を自然に歩く。わたしの「過去の呪縛(フラッシュバック)」もとける。
わたしと歩いてるときの蒼くんはいつも、少し、口角を上向きにしている。そればかりでなく、鼻歌まで歌ってるときもあった。わたしにしか聞こえないくらいのハミング。
蒼くんは隣のクラス。進学文系で、将来は英語教師を目指している。亡くなったお父さんも、いま蒼くんと暮らすお母さんも産婦人科医なので、周りからは理系に進まないのがもったいないという声もあったらしい。それをガン無視しての、「英語の先生になる」夢。わたしは結構、応援してる。
中学時代はモテてたらしいけれど。
高校に入ってから、浮いた話のひとつもなくて、二年間過ぎて。最近、わたしとこんなふうに話をし始めた。
わたしたちは通りすがりの他人に過ぎなかった。九月までは。
わたしは夏休みにした「ひどい失恋」から立ち直れなくて、二学期に入ってから毎日、泣きながらこの「さくら川」あたりを通って登校していた。
朝のお勤めや朝ごはんの時、家を出る時だって元気なのに、真央と別れて一人の時間になると、ぽろぽろ涙が出るのだ。
蒼くんはその時、スマホを見ながら誰かを待っていた。九月中旬の晴れた日だった。今にして思えば、蒼くんの待ち人は多分、親友の光くんだった。けれど、わたしが前を通った時、この人はスマホを見るのをやめて、まっすぐな目でわたしを見た。
こわい目だった。問いかける目。責めるでも笑うでもなく。
「なんで、朝から泣いてんの」
抑揚のない言い方。第一印象は「冷たい人」。
「君なんかには関係ない。失恋したんだから、話しかけないで」
思い出すたびに青ざめてしまうけれど。わたしは蒼くんにひどい口調で言った後、溜まりに溜まっていた他の人に向けるべき怒りをその時、リアルな言葉でぶつけてしまった。傍から見たら、陰湿な女がイケメン男子に絡んでるように見えたろう。
一通り言い終わって、はっと頭の冷えたわたしは、蒼くんの顔をもう見られない。うつむいてしまったわたしにとどめを刺すように、蒼くんは耳元でささやいた。
「毎朝、ここで待ってる。明日もその話、聴かせてくれよな」
さらりとした言葉で蒼くんは言い捨てて、ちょうど来た光くんとふざけ合いながら歩き出してしまった。
蒼くんは次の日も、約束通り、さくら川で待っていてくれた。その次の日も。
わたしは「別れた元カレ」の話はもうしなかった。そのかわり、頭の中が猛烈に沸騰して、「この人の前にいると恥ずかしい」という思いで胸がいっぱいで。
毎日、黙って、さくら川のほとりを蒼くんと歩いた。
五日間が過ぎて、蒼くんは静かに聞く。
「元カレのこと、もう言わないんだ」
わたしは蒼くんをまっすぐ見る。
「好きな人が他にできたんです」
蒼くんは「そうか」と静かに笑う。誰を、とかそういう野暮なことは一個も聞かなかった。
さくら川の前での「登校前のひととき」は、九月から十月、一カ月間続いた。その間に、わたしの「朝のお勤め」の話を聞いた蒼くんは、「えらいな。じゃあ、同じ時間に、うちの母さんのやってる産婦人科の前の掃除、俺もする」と言ってくれた。
そして、わたしは一昨日、蒼くんに言った。
「わたしの誕生日を祝ってほしい」と。
蒼くん。でも、わたしは「わたしの気持ち」を君にちゃんと言ってない。だから、君にもし、「この思い」が伝わってないなら、本当に苦しい。
今日は誕生日会だけど、もう一つ、別の目的がある。
蒼くんと帰り道、校門のところで待ち合わせる。穏やかな雲がすっきりした空に流れていて、日差しが暖かい午後。「青色のレモネード」が飲める店があると、蒼くんが調べてくれた。バス停を一個だけ、わたしの家側に行けば、徒歩十分で着くらしい。
いつも乗るバスだけれど。地元なのに、そのバス停、「ハトの海」ではわたしは降りたことが一度もなかった。そこは海辺の岩場のような場所が間近にあって、ハトどころか、トンビが高く高く旋回している、寂しい場所。本当にこんなところにあるの、と思うけれど、蒼くんが調べてくれたんだもの。
確かな足取りで蒼くんは狭い路地を歩く。すると、エメラルドグリーンのドアに白い壁の、おしゃれなカフェが確かにあった。蒼くんが静かにドアを押す。
店の中には大きな窓があり、水平線が遠く遠く見渡せた。見かけよりもずっと広くて、十人くらいのお客さんがまばらに店内でお茶を飲んだり、新聞を読んだりしている。高校生はいなそうだ。
蒼くんとわたしは、黒い制服を着た小柄なお姉さんに案内されて、窓際の隣同士の椅子に座れた。白い椅子は丸い形で、等間隔におしゃれに並んでた。
窓を閉めているのに、潮の匂いがするのは気のせいかな。
蒼くんとわたしは「青いレモネード」だけ頼んで、ふたりで水平線を黙って眺めている。見晴らしが本当にいい。紺碧の海は今日は穏やか。やがて来たレモネード。目の前の海みたいに鮮やかなブルー。見立ててるんだね。味はちゃんと甘酸っぱいレモンで。
でもね。蒼くん。わたしは海が好きだけど、嫌いだ。わたしを呑み込もうとした海。お父さんもお母さんも、蒼くんのお父さんまで呑み込んだ海。
「蒼くん、わたしね」
今日言おうとしてたことは、こんなことじゃなかった。わたしは蒼くんに、誕生日にかこつけて「告白」しようとしてた。
「わたし、あの海でおぼれたことがあるの。フェリーの事故で。お父さんとお母さん、その時に亡くなったの。前に、両親がもういないって話したけれど、そういう事情なの」
じわじわと涙があふれてきて、止まらない。
「なんで、わたしだけ生き残って、この世にいるのかな」
「妹やばあちゃんがいるじゃん。スマホで写真みせてくれたろ」
蒼くんはふふ、と笑って言う。
「今は愚痴をこぼせる相手だっている。俺に頼れよ」
そう言われると、ますます泣くんですけれど。下を向いてしまったわたしの顎を、蒼くんが人差し指でつんつんとした。
「だめだよ。くすぐったいよ」
わたしが泣きべそをかきながら蒼くんを見ると。
青みがかったこの人の瞳に、思いがけず、涙みたいな膜がかかっているのが見えて、言葉をうしなう。
そう。蒼くんの脳裏にも今、お父さんがいるのかな。
「俺たち、ずっと友達だよな」
蒼くんは泣かない。いたずらっ子みたいに笑う。わたしは黙って水平線を見る。だんだんと西日が射してきて、海が茜色に反射してる。昔、龍が住んでいたという伝承のある、この土地だけの眺め。
「ずっと見てたいね」
「そうだな」
店内の照明もちょっと薄暗くなる。バータイムが始まるのが午後五時のはず。今は四時五十分。もうわたしたちは退席しなきゃならない。
蒼くんがすっと伝票をとった。
「帰り、気をつけろよ。誕生日だから、俺がおごってやる。ここ、いい場所だな。また来ような」
蒼くんはそう言って、わたしを少し寂しそうに見てた。
帰りのバスはお互い逆方向に乗る。バス停はひとつしかなくて、バスを待つ場所は同じだった。ふたりきりで、古くて錆びた青色のベンチに座っていた。蒼くんはペットボトルのウーロン茶をぐいぐいと飲み干して、一メートル離れたゴミ箱に器用に放る。
「真似するなよ。歌帆はこういうことしたら、外すから」
歌帆、と初めて、名前で呼び捨てられた。
ベンチに座ってるから、いつもよりも距離がずっと近いことに気づく。もじもじしていると、蒼くんは自分の肩に、わたしの頭を一瞬だけ、軽くもたれさせた。温かみが切なかった。
「俺もさ、さびしいよ。親父が亡くなったの」
蒼くんは静かに言って笑う。
「安易に、気持ちわかるよ、なんて言わないけど、俺たち、すごく通じ合えると思わないか」
わたしはうなずく。山間の早い夕暮れは、もう迫っている。
水平線をふたりで見てる 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro
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