蔓薔薇の先に

紅瑠璃~kururi

ダマスクローズの香

柱と柱の上部をアーチ形に連ねた回廊の外にはほの暗い庭が見える。ロマネスク様式の回廊で四方を囲まれた中庭、その庭の片隅で白く光っている花群れは小振りの薔薇のようだ。


マドリードからレンタカーで走ること約300km、スペインの古都、サラゴサの有名な修道院を目指したものの、どこで道を間違えたのか、ふたりが朽ちかけた修道院の前に降り立ったのは黄昏時だった。


「どうやら、イスラム風の建造物だな、これは」

回廊の天井模様を見上げて男が言う。暮れなずんだ薄い光の中でイスラム建築特有の幾何学模様が何とか確認できる。白昼に見れば、きれいに彩色されているのだろう。


「これは何かしら」女が足元を指さす。

回廊の石畳には飾り文字のような模様が刻まれていた。デザインされた図形のようでもある。

「何か意味があるのかな」と男が立ち止まって眺めていると、白い鳥が頭上をかすめた。


天井を見上げると、白いコウモリがぶら下がっていた。

「逆さまにぶら下がった天使みたい」女が言ったとき、途切れ途切れにピアノの音が聞こえてきた。

風の音か、あるいは水の流れる音を模したような口ずさむことのできない複雑な無調の音階だった。


「スクリャービンのピアノ・ソナタかしら」と女。

ピアノを趣味とする友達に誘われたコンサートで演奏された曲に似ているという。


「黒ミサと白ミサという曲があるけれど…多分これは黒ミサかな」


「ミサということはやはり修道院か、それとも教会か…」男が呟いたとき、回廊で立ち止まっているふたりの視界の先で白い影が横切って消えた。闇から現れて一瞬白く光り、闇に消えたような感じだった。


「修道服のシスターみたいだった。ついて来なさいってテレパシーのように聞こえたわ」と女。


ふたりは白い女が消えた回廊の曲がり角までやって来た。

そこに人影はなく、回廊の手すりには群生する白いつる薔薇が巻きついていた。


「薔薇の蔓の先には人外境がある」

男とも女ともつかぬ声が男の頭の中で囁いた。


「この先は異世界らしい」男は立ち止まり、振り返って女を見た。

いつの間にかピアノの音は止み、静寂がふたりを包んでいた。


回廊沿いにはいくつかの入口があった。

ふたりは引き寄せられるようにして薄明りの見える入口から建物の中へと入って行った。白い女が消えた入口なのかどうかは定かではない。


室内は天井の高い礼拝堂のようだった。

中央奥の祭壇には銀色のキャンドルスタンドがあり、その蠟燭に灯された複数の灯が天井に揺らめく影を投げかけていた。


男が天井から視線を下ろすと、そこに白い女がいた。服装からして修道女のようだ。深く被ったウィンプルでその表情はうかがい知れない。


「あれをご覧なさい」修道女が上方を指さすと、そこには白い男女がねじれるように抱き合った姿がホログラムのように浮き上がって見えた。ロダンの「接吻」を思わせる蠱惑こわく的な姿態だ。


やがて、空中で狂おしく求め合っていたふたりは彫像のように白く固まり動かなくなった。そして、そのままの形で美術館の特殊なディスプレーのようにゆっくりと宙を回転し始めた。

肉体の生々しさは消え去り、もはや芸術品のように美しく、神の清らかな作品のようにも見えた。


「これはあなたたちの欲望を可視化したもの。美しいと思う?醜いと思う?」修道女が問いかけてきた。


神聖な場所で何を見せられているのだろう、神聖な身分の女性がなぜそんなことをたずねるのだろう…男が返答に窮して黙っていると、

「神聖さと俗っぽさは紙一重」

修道女が言った。


ふたりが黙っていると、いきなり修道女が目の前で白いウィンプルを取り去った。

同時に、女が悲鳴を上げて、男の背中に顔をうずめた。

そこには、あるべき顔がなかった。


震える女を背中にしがみつかせまま、男は辛うじて修道女の顔があった辺り、修道服の襟の辺りを凝視した。

これは夢に違いないと自分に言い聞かせるものの、脳に送られる五感のデータは現実的に心拍数を上昇させ、手足を小刻みに震わせる。


「怖がらなくっていいのよ、怖くないのだから」そんなことを言いながら、今度は白い修道服を脱ぎ捨てた。

高い天井目がけて放り投げられた衣類がユラユラと闇の中へ吸い込まれると、修道女が元いた場所には何もなかった。

透明人間なのか、ただの幻なのか…考えあぐねる男の背後で声がした。


「私はここよ」


振り返ると連れの女がいた。

「さぁ、行きましょう」

先ほどまで恐怖で震えていた女が、謎めいた笑みを浮かべて男の手を取った。


女に手を引かれるまま、礼拝堂を出て再び中庭の見える回廊に出た。

最初に見たときよりも月は低く大きくなっていた。


「あの月の光が満ちた部屋に行きましょう」


この建物の勝手を知っているかのように話す女には、ひょっとして修道女がのりうつっているのではないかと思いつつも、男は喉元に感じた恐怖をすぐに飲み込んだ。この先にはとんでもない快楽が待ち受けているのかもしれない…恐怖と快感もまた紙一重だった。


回廊沿いにはいくつかの部屋があり、そのうちのひとつの古びた重い木のドアを開けると、正面には天井まで届く格子窓があった。大きな月が窓の向こうから惜しみなく光を投げかけている。


「これが月の光の部屋か」つぶやいた男をやさしく手招きするのは、いつの間にか窓辺のベッドに腰かけている女だった。


女を抱きしめて目を閉じると、先ほどの男女のホログラムが見えてきた。

女の半身を起こし、あの彫像のポーズを真似てみる。

窓からの月明かりの中、男が腰をねじって女の唇を求めたとき、不意にふたりの身体が宙に浮き上がり、そのままアラベスク模様の美しい天井に近づいたかと思った途端、身体に異変が起こった。


二人はまさにあのエロチックな白い像そのものだった。意識はあるのに身体は石膏で固められたかのように動かなかった。


「あなたが望んだようにしてあげたわ」耳元で修道女の声が聞こえた。


「ずっと永遠にこのまま」


これは苦痛なのか快感なのか…口づけする瞬間の興奮はそのまま持続している。けれども、女の口元を見ている視線を上げることもできない。


この状況から抜け出したいと思った男は、女の名前を心で叫んでみた。


「わたしはここよ」頭の上の方から声が聞こえた。


「あなたが抱いているのは、多分あの白い女よ」


不意にどこからともなく甘い香りが漂ってきた。

濃厚で華やかな薔薇の香りだった。


「ダマスクローズよ」と女が言った。


「だます?」と男が聞き返すと


「言葉遊びじゃないんだから」と女が言った。


https://kakuyomu.jp/users/rubylince/news/16817330648700890955

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