口は、災いの元
yolu(ヨル)
口は、災いの元
『エキノコックス症とは?』
朝の会で配られたプリントに、太字で書かれている。
エキノコックスという言葉は、テレビで聞いたことがある。
寄生虫で、一度体内に入ると死んでしまう。そんなことを言っていた気がする。
「小春、気にしすぎ。それ、北海道の話でしょ?」
母は笑いながらポテトチップスをつまんだ指をべろりと舐めた顔が浮かんでくる。
てらてらと濡れる唇が、エキノコックス──線虫の蠢いたあとみたいで、気持ちが悪かった。
「──はい、静かに。このエキノコックス、ニュースで見た人もいると思いますが、北海道だけの話ではなくなったので、特別授業にしました。でも、みんな中学生になって半年も経ってるもんね。学校の帰りに花の蜜を吸ったり、氷を食べたり、なんてこと、もう、ないかな?」
小さい愛想笑いが教室に響いたが、すぐに静かになる。
プリントのかわいいイラストが示しているのは、感染経路だ。
ネズミが虫卵を食べ、幼虫に育て、そのネズミをキツネや犬が食べることで成虫に。成虫が含まれた糞にはもれなく虫卵も含まれる。
それを何らかの方法で経口摂取することで、人間に寄生する、というのが、一連の流れのようだ。
「ここの周辺でも、最近だけど、ネズミや犬に噛まれる事案が少なからずあるんだって。やっぱり、予防が大事だから。まず、プリントにある通り」
私は思わず腕をさする。
昔に見た、魚のブリに寄生していた線虫を思い出したからだ。
イトミミズといってもいい。血合と身の間ににょろりと挟まっていた。
それがブリの体内で育ちながら、筋肉のなかでゆっくり、ときに激しく蠢いていたのだ。
もし、自分の皮膚の下も、コレがいたら────
おぞましさに鳥肌が立ち、自分の腕をさすってみる。
そんな私に、母は包丁で私を指さし、笑っていた。
「小春、大丈夫。これ、死んだ虫だし。人間には寄生しない虫なんだから」
母はひょいとそれをつまんで、流しに捨てた。
赤く、丸々とした寄生虫が、跳ねる。
「……ひ」
慌てて水で流して、排水溝に押しやった。
母は鼻歌混じりにブリを焼いている。
あれ以来、私は魚が苦手だ。
「──プリントの続きね。感染経路は色々あるけれど、基本は手洗いで予防できるんだって。それで」
嫌な記憶がフラッシュバックし、私は先生の話を聞き流すことにした。
また気持ちが悪い光景を思い出したくない。
なのに、プリントには寄生された肝臓の写真が大きく載せられている。
私は静かにプリントを裏返した。
ふと、窓際でぽっかり空いたままの席に視線が止まる。
もう10日になる。彩綾は欠席したままだ。
長い艶やかな髪を背中の真ん中まで流し、何かするたびに右耳に髪の毛をかける癖がある彼女は、私の親友であり、……恋人だ。
連絡は毎日している。
それこそ、毎日絶対に一度でいいから会おうって約束したのに、私は約束を果たせていない。
風邪だからと遠慮していたけれど、本当は会いに行ったほうが絶対いい。
今日にでも、会いに行こうかな。
いや、でも──
「ねぇ、小春ん
前の席の那月だ。
いきなり振り返ったと思ったら、主語のない話に私は固まった。
すでに休み時間になっていたようだ。
茶色い癖っ毛をいつものように指に絡めながら話しかけられる。
せっかく彩綾を眺めていたのに、意識を戻されたことに腹が立つ。
「ねえ、小春、聞いてた?」
一語一語を区切って聞かれた質問だが、主語がない。
私は苛立ちながら、
「……ごめん。もっかい、聞いていい?」
「だからぁ、野良犬系、いるって話」
系って、なに。
すっかり気分が萎えてしまった。
それでも那月は私にぐるりと体を回したまま、動こうとしない。
私は仕方なしに、家の周りをイメージで歩いてみた。
家と家がかなり近い、普通の住宅街だ。
ざっと見渡しても、外で犬を飼っている家すら見当たらない。
「……うん、いない、と思うけど?」
「だよねぇ? なんで先生、こんな授業したんだろ」
「そうだね。なんでだろうね」
那月は『なんで』と聞いてくることが多い。
だけど、それに答えを求めているわけではない。
同意を求めているだけだ。
他のクラスメイトたちと差がないかの、確認行為でしかない。
本当につまらない女子だと思う。
「知ってる? 寄生されたカタツムリはね、鳥に食べられるように、隠れないんだって」
意味がわからない。
「エキノコックスもそういうの、あるのかなぁ」
真顔で言われて、私は言葉が出てこない。
いつもの勘違いや、ふざけた雰囲気ではなかったからだ。
私は思わず目の前の裏返しのプリントを叩くように指さした。
「……それはないんじゃない? 仮に寄生されて、その人は、何をするの?」
チャイムが鳴った。
那月は何も言わずに、くるりと前に向き直る。
答えない那月にまた腹を立てながら、私はプリントを鞄にしまいこんだ。
「宿題やりなさいよ、小春」
母の声が背中を横切っていく。
風呂上がりにリビングを抜ける際にかけられた。
母は重そうな体をソファに預け、ポテトチップスを袋ごと抱えて食べている。
大きな声で笑いながら、私の方にすら向かない目は、死んだ魚みたいに濁って見える。
ああ、吐きそう。
あんな大人、いや、あんな女に、私はなりたくない。絶対に!
「小春、ちゃんと聞いてたぁ?」
私は無視して部屋に走った。
逃げた私を追いかけてこない母に、なぜ、残念な気持ちになるのだろう。
意味がわからず、私はベッドにダイブした。
ブルルルル──
彩綾だ。
ベッドに置いておいた型番遅れのスマホを開く。
いつものトークルームに、彩綾からきたメッセージがあることを未読の赤い文字が教えてくれる。
377通、未読。
実は返信に困っている。
少し前まで、
『会いたい』
『はやく学校にいきたい』
だったのが──
『ほっぺにさわりたい』
『手に触れたい』
『指をからめたい』
そう変化していて、どう返信していいのかわからないのだ。
本当に風邪で休んでいるのかと本人に聞いても、風邪としか返ってこない上に、一度返信をすると、10倍になってメッセージが届いてしまう。
日中も頻繁に連絡がくるため、学校にはスマホを持っていけないし、仮に持ち歩いたとしても、古いスマホなのもあり、すぐに充電が切れてしまうだろう。
「……ひっ」
勇気を出して久しぶりに開いたメッセージに、私は思わず起き上がり、スマホを投げていた。
『舌をからめたい』
彩綾の考えていることが、全くわからない。
ずっと既読無視もできないのに。
なのに、このメッセージの意味が……
意味はわかるけど、笑い飛ばしていい言葉にも感じない。
私はただ、ただ男子はキモいし、母親もキモいし、どうにか綺麗なままでいたくて、彩綾と恋人になっただけなのに……
そんな汚い関係にはなりたくない──!
バンッ──!
窓に何かがぶつかった。
机の前のカーテンを恐る恐る開くと、窓にべっとりと白っぽい液体がはりついている。
さらにそれが何かを証明するように、窓枠に引っかかっていた。
夜に見ても、それが何かはわかる。
保健の授業で見たヤツだ。
「コン……ドーム……?」
ブル、ブル、ブル、ブル───
タイミングが良すぎる電話に、体が凍る。
投げたスマホを裏返すと、……彩綾だ。
名前に、つい通話を押したとき、
『会いに来てくれないからだよ』
ぶつりと切れた。
叫んだ笑い声が外から聞こえた気がして、そっとカーテンの隙間を開ける。
路地の街灯。その下に、人がいる。
目が合った気がした。
だけど、瞬きをしたときには、人影は消えていた。
でも、あの背格好は、彩綾に似て────
「……全部、勘違いだよ、絶対」
どこからか反響する笑い声を掻き消すように、強く私はカーテンをひきなおした。
彩綾にはミニテストの予習のため、返信があまりできない旨を送っておいた。
学校まで一直線の歩道で、騒がしい声を聞きながら、私はため息をつく。
メッセージの内容は嘘じゃない。
彩綾に問題を送ってあげるという、メッセージをする約束もしたけれど、全て、私の一方的な連絡だ。
彼女から送られてくる内容に私は返信を書けない。
いや、書きたくない。
指が、汚れる気がする……
「めっちゃ眉間にシワすごーい」
おはよ、と言いながら、俯いた顔をぐるりと覗き込んできたのは那月だ。
私はそのままの態度でおはようとぶっきらぼうに挨拶をした。
「小春ちゃん、今日も彩綾ちゃんいないね。通学、寂しくない?」
「……うん、寂しい」
この回答は用意済みだったのですぐに答えられた。
仲良しなのは、みんなもわかっていることだ。
……やっぱ、恋人、だしね。
耳元で囁かれた那月の声に私の足が固まった。
那月は屈託のない笑顔で、人差し指を口元に当てている。
二人だけの秘め事に、泥を叩きつけられた気分だ。
胸が痛い。
目の前が真っ暗になる。
那月はあははと笑って、小走りで離れていった。
引き止める言葉も見つからない。
聞いてどうする。
なんで、知ってるの?
なんで……
那月がいつもいう『なんで』が頭のなかにいっぱいになる。
ただのつまらない女子、じゃなかったのか?
クラスから浮いた、ただの女子じゃなかったのか?
私と彩綾のことを、どこまで知っているの──?
立ち止まったままの肩を誰かが叩いた。
私は振り返って、さらに絶望する。
彩綾の、元カレの、悠真先輩だったからだ。
「なん、ですか」
突き放した発音に、自分でも驚いた。
だが悠真先輩を見ると、焦った顔をしている。
何より、目が赤い。
ぐるんと黒目が上下に踊る。
「彩綾と連絡取ってる?」
「……え、あ、そりゃ、取ってますけど.....」
「なんか、あいつ、変じゃないか」
それは同意しろと言わんばかり言い方で、私はどう答えていいのかわからなくなる。
「なぁ、変じゃないか……」
でも、もっと変なのは、悠真先輩だ。
私に語りかけたり、自分に問いかけたり、悠真先輩の言葉の行き先が定まっていない。
「あいつ、呼び出して、いきなりキスしてきて……」
肩を握られる。
ありえない。
彩綾がそんなことするわけがない。
男は汚いから、二人だけで、綺麗な体と心を大事にしようって、言った、、、
「唾液が、さ、こう、舌を伝ってはいってきて……」
聞きたくない。そんなこと聞きたくない。
なんでそんなこと、私に話すのッ!
「そしたら、口の中も、目も、痒くて痒くておかしいんだ……」
いきなり寄せられた目鼻立ちの綺麗な顔。
だが、唇がガサガサに荒れ、血がにじむ。しゃべる端々で見えた歯茎が熟れた苺みたいに真っ赤にただれ、口の端に溜まった泡は桃色だ。
鼻の先がくっつきそうになったとき、目が合った。
いや、合っていない。
黒目が、左右を逆に向いている。
何より、目を充血させていた赤い血管が、目の中でのたのたうち回っている────
「……ひぅっ」
私は先輩を突き飛ばし、走り出した。
目の前の人は突き飛ばし、走って走った。
胃袋がひっくりかえろうとしてる。
全てが、全てが、キモチ悪い。
おあっ……はっ……うぇ……」
吐いても吐いても、まだ出る気がする。
悠真先輩の目が、昨日のプリントの肝臓に似ていた。
何より、彩綾が悠真先輩とキス……
「うぇ……」
裕真先輩の動作と言葉のせいで、まざまざとイメージできてしまう。
辛い。気持ちが悪い。汚い。
汚すぎる。嫌だ!
……もう嫌だ!!!!」
自分の声がトイレのなかでこだまする。
「だいじょうぶ、小春ちゃん」
ドアごしに聞こえた声に私は肩をふるわせる。
だけど、このあまったるい間延びした声は、間違いない。那月だ。
「お水、持ってきたから、口、ゆすがない?」
那月の優しい声につられて、私はトイレから這いでると、しゃがんで待つ那月がいる。
「はい、どうぞ」
ペットボトルを渡され、私はいろんなものを伝いながら、手洗い場で口をすすぐ。
那月は黙って私の横に並んで見ているだけだ。
「……ありがと」
「ううん。お水、おいしかった? 私の家、井戸水なんだよ」
「え、あ、そうなんだ。……へぇ、珍しいね。味は、ごめん、わかんなかった」
「いいのいいの」
ペットボトルで家の水を持ってくる……?
ふわっと浮かんだ疑問が、一瞬にして、真っ白になった。
「あたしね、彩綾ちゃんと恋人だったの」
正面に映るのは私の顔だ。
その後ろで、にったりと顔を歪めて、那月はしゃべる。
「小学校のとき。やっぱり、男子ってキモいから、ふたりで同盟を組んだの。女の子のキレイを守るって」
彩綾が私に言った言葉と同じだ。
「よく週末デートしたんだよ。手も繋いで、もちろん」
目と口をくっつけて那月が笑う。
「キスもしたの」
私はまた吐いていた。
手洗い場に吐き出されたのは、さっきの水だ。
吐きすぎたのか、血がにじんでいる。
「唾液と唾液がね、すごいんだよ? ぬるぬるして、」
聞きたくないッ!!!
吐きすぎたせいだ。
喉が熱い。
頭も痛い。
ただただ苦しい────
もう一度吐いて顔を上げたとき、那月の顔が真顔になる。
「……女の子はさ、結局、結婚しちゃうんだよ。男の人のものになる。あたしがどれだけ好き、大好きっていっても、彩綾の心はかっこいい男性アイドルに、かっこいい先輩に移っていったから」
だからね、そう言った那月の目が見開いた。
いつも笑って細い目が、何倍にも大きくなった。
「二人の愛の結晶をつくることにしたの!」
那月の声が頭に突き刺さる。
頭が痛いせいと、何より意味がわからない言葉が並びだす。
私は聞き取ることを放棄したが、
「……卵が孵ったの!」
この言葉だけは、理解できた。
流しの
「彩綾がママ。あたしがパパ」
「……孵化するんだ。目とか口のなかとか、」
「子どもたちが内臓を食べるから、そこは傷つけないけど、血管が」
「そしてね、卵を産みつけるためにね、新しいママも大胆になるの」
「キスするためにね、寄生虫に、操られちゃうんだ」
爆笑する那月の顔が歪んでる。
人間だが、人間には見えてこない。
まるで、残虐な人が那月の着ぐるみを着ているみたい。
「その人の都合のいい理由でね、操られるの。小春ちゃんは、どんな理由かな? かな?」
喉が熱い。
口が痛い。
口が痛い。
口が痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
……痛いッ!
この痛みを取りたい!
ああ、そうか。
痛みを取るには、口移しで痛みを移さないといけないのか。
くちうつしくちうつしくちうつし……
くちびるくちびるくちびるくちびる…………────
「え、小春、学校じゃないの?」
リビングで出迎えた母は、またポテトチップスを食べていた。
袋を抱えて、私を見つけて、呆然と立っている。
指を舐めた唇は、ぎっとりとした油が塗られ、高級な口紅を塗ったように薄紅色に染まっていた。
ぼってりした唇はいくつか言葉を紡いでいるが、とても美しく、形容し難い魅力がある。
とにかく、その唇が、私には魅力だった。
「お母さん」
私は母の唇に吸いついた。
暴れ、叫ぶ母を押し倒し、貪った。
そして、唇に似合わない、分厚く、汚い舌を噛み切った。
静かになった母を見下ろすと、母は口を押さえながら白目を剥いて、赤い泡を吐きながら失禁している。
私はそのシミを踏まないように、美味しそうな唇が見えるよう、手を剥がした。
赤黒い穴をかたどるように、華麗に濡れた唇が広がっている。
キレイ。そう言おうと思ったが、口の中の舌が邪魔だ。
私はそれを勢いよく流しに吐き捨てる。
乾いた流しに転がった不恰好な舌は、小さく痙攣し、まるで今まで繋がっていた相手を探すように縮まった。
私は流しの排水溝へ、無理やり水で押し流しながら、頭を抑える。
また頭痛が、脳みその奥を叩く頭痛がはじまったからだ。
「もっと、口移ししないと……」
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