老婆は杖を片手に散歩に出た。早朝五時すぎのことだ。

 老婆は朝が好きだった。どこもかしこも騒がしくなっていく世界で、唯一朝は穏やかに感じられるからだ。

 周辺の住民は大体寝ている時間で、犬の遠吠え、鶏の声、鳩の鳴き声、新聞配達のバイクの音。ときどき救急車のサイレンが、透き通った町の空気に響く音さえも、どちらかというと気に入っているほうだ。

 杖があると幾分か歩きやすい、と思いながら、老婆は目的を果たす。毎朝歩くのはもちろん足腰を鍛えるためでもあるが、一番の目的は異なる。

 教会が見える山の麓。そこに少女はいる。毎日同じ位置から教会を眺めているのだ。

 老婆は声をかけるべきか否か逡巡したのち、尋ねてみる。


「あんたは毎日、何をしにここにきているんだ」


 教会のすぐ近くならまだしも、こんな遠くから眺める意味がわからなかった。


「お婆さん」

 少女は初めて老婆に口を開いた。それは予想していたよりも、とても幼い声だった。


「私、願いを叶えてもらいたいの」


 老婆は彼女をじっと見つめた。


「私はあの教会の迷信を知っている」

 老婆はまだ何も言わなかった。


「あの教会の鐘が鳴るとき、不老不死の力を手に入れることができる」


 老婆の顔はすぐに険しくなった。


「私は不老不死を願うにはまだ若い」


 少女の表情は微動だにしない。整った眉はぴくりとも動かない。


「そもそもあくまで迷信だ。根拠がない」

「いいえ、そういうことではないの。私はただ、ずっと、若さを保ちたいだけなの。科学的かどうかは重要じゃない」


 老婆は呆れて息をついた。理由はどうあれ、この町で教会の迷信を試す者は多い。だが皆失敗しているのだ。一日二回、魔法みたいにポンポンと老いず死なずの人間を生み出してたまるものか。それに少女はまだ十分に若い。そういうことは、人生を半分くらい終えた、少し気取った女性が考えることだ。


「だったらなぜ、あんたは教会を遠くから眺めているんだ? 鐘が鳴る時間は知っているのだろう」

「それはタイミングを計っているだけ。そう簡単に、力が手に入るとは思っていないから」


 老婆は意外と賢い子だなと思った。この子なら、もしかすると、本当に、叶ってしまうかもしれない。馬鹿みたいにそんなことを思ってしまった。

  


 ――まったく、あの少女は昔の私に似ているな……。


 まだ十数年しか生きていない少女が不老長寿を望むなんて早すぎるが。

 その日、雨が降っていた。雨粒が、サッシにあたる音がする。ゴロゴロと鉛色の雲の上で雷が鳴っていた。それでも老婆は散歩に出た。ジメジメした空気が充満していた。雨のせいか寝起きが悪く、頭痛がした。おかげで散歩に出たのは朝の五時半すぎだった。

 麓までくると、老婆は思わず目を見開いた。

 少女が、ビニール傘をさして、山に向かって歩いていくのが見えたのだ。

 タイミング。老婆はその単語を頭の中で反芻する。まさか、今日なのか。今日が彼女のいうタイミングなのか。老婆は半分以上諦めていた、彼女を救うことを。

 少女の後ろ姿を見送り、老婆はもう、その姿を見ることはなかった。

  


 人口の少ない過疎地域。深緑の屋根の家に、多くの人が集まっていた。その地域の住人以上の数だった。

 そこには、しくしくと泣いている者や手を合わせて目を伏せている者などがおり、それぞれが悲しむなか、車いすに座った貧弱でまさに骨と皮のような手足をした白髪の老婆が現れた。まわりの人たちが老婆に気がつくと、端に寄って老婆に道をつくった。

 老婆は枝のような手で電動車いすのレバーを前に押す。老婆が白い棺桶を覗くと、そこには、十代の若さを保ちつつ、ドラマの主役や雑誌の表紙を何度も飾った可憐な少女が静かに眠っていた。

 だが彼女は八十七歳だ。人並みに寿命が尽きただけである。


 ――よかったじゃないか。私のようにならなくて。

 老婆は手を合わせて黙祷を捧げた。

  

 翌日、自宅で眠るように息を引き取った老婆がいた。


 <了>

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ツヅクモノ 絃琶みゆ @Itowa_miyu1731

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