あの日の渡り廊下にもう一度

南村知深

 

 あのとき、どうしてこうできなかったんだろう。

 あのとき、こうしていれば。


 そんな風に思うことは、誰しも一度や二度はあるだろう。

 まったくないなんていうヤツはただの嘘つきか、都合の悪いことは忘れられる便利な記憶力の持ち主かだ。

 何一つ、一切の後悔をしない生き方なんてできやしない。


 だから、願ってしまうんだ。


 あのとき、あの場所に戻れたら――と。



       ◇



 上司から押し付けられた書類整理が終わったのは、定時を大幅に過ぎた午後八時過ぎだった。オフィスには俺の他に誰もいない。みんな自分の仕事を終わらせてさっさと帰宅している。

 俺は要領が悪いのだろう。上司からは仕事が遅いと言われるし、同僚からも仕事ができないヤツだと思われている。

 実際、その通りだった。

 同期入社の連中はみんな役職持ちで、俺はいまだに平社員ヒラだ。今年で四十一歳になるが、昇進の話は一度もない。それどころか、俺が新人教育した二つ下の後輩が先月主任になって、そいつに顎で使われている始末だ。

 もちろん悔しい気持ちも情けない気持ちもある。

 だが、能力のなさはどうしようもない。こんな俺でもこのご時勢に仕事にありつけているだけマシだと思って耐えるしかないのだ。

 デスクを片付けて、今日の仕事は終わりだ。

 社屋を出て駅に向かい、電車に乗る。なんとなく俺と同じような顔をしたサラリーマンばかりがいて、他人なのに妙な親近感が湧いた。数十分揺られて電車を降り、暗い夜道をとぼとぼと歩いて独り暮らしをしている古いマンションに帰ってきた。単身者用のワンルームで家賃はかなり安い。


「……?」


 郵便受けを覗くと、近所に新しくできたらしい雑貨屋のチラシの他に往復はがきが入っていた。D Mダイレクトメールと請求書以外の郵便物とは珍しい。

 とりあえずそれらを回収して部屋に入る。荷物を置き、スーツをベッドに脱ぎ捨てて高校のジャージに着替えた。ダサくて最悪なデザインだが、楽だし耐久性が抜群でかれこれ二十年以上愛用している。

 腹は減っているが食欲がないので、買い置きしてあるパウチ入りゼリー飲料と固形バランス栄養食で遅い夕食を済ませ、往復はがきを手に取った。

 同窓会のお知らせだった。

 高校二年時のクラスメンバーで集まろうというような内容で、幹事の名前と連絡先が記されている。……こんな名前のヤツがいたか? 覚えがない。

 今までに何度も同窓会のお知らせは届いているが、一度も参加したことがない。中学時代は友達らしい友達がいなかったし、高校で仲がよかったヤツは仕事で大出世して今は海外支社の部長になり、妻子連れで海外在住だ。他に会いたいヤツなどいないし、俺を覚えているヤツもいないだろう。だから今までずっと不参加で通してきた。

 だが――


「高二の同窓会、か……」


 高校二年、という一文に心がざわついた。

 いまだに記憶の奥底からよみがえっては、俺の後悔を叩き起こす。

 今さら何もできないとわかっているし、気にしてもしかたがないこともわかっている。

 それでも。

 あのときこうしていたら、その後はどうなっていたか。

 そんな意味のない『もしも』を考えてしまう。

 二十年以上も前の、あのときの『もしも』を。


「…………」


 なんとなく。

 本当になんとなく、確かめてみたくなった。

 同窓会でに会うことができたら。

 そう思ったとき、俺は返信はがきの『参加』にペンで丸を書いていた。



 同窓会当日。

 休日出勤から帰りの足で会場の居酒屋に入ると、すぐに学生らしい女子店員が笑顔で挨拶しながら寄ってきた。同窓会の参加者だと告げると、すぐに奥の座敷に通された。

 会はすでに始まっているようで、テーブルには料理やアルコールがひしめいていて、十数人が談笑しながら酒を呷っていた。


「よう、遅かったな」


 『幹事』と書かれたネームプレートを首から提げている男が俺に気づくと、久しぶりだなと酒臭い挨拶でフレンドリーに迎えてくれた。俺はそれに愛想笑いを浮かべて応じる。

 名前を見てもクラスにいたかどうかがわからないし、一度もこいつと話したことがないはずだ。向こうもクラスの日陰者だった俺のことなど覚えているはずがないと思う。おそらく参加者全員に同じように声をかけているのだろう。幹事は大変だな。

 渡されたネームプレートに名前を書いて、座敷の隅に移動する。……いつも教室の隅にいたせいか、無意識にその位置を陣取ってしまっていた。習性というものは簡単に変わらないらしい。

 近くにいた女子(高校生に戻った気でいるのでこう呼んでおく)が差し出してくれたビールのグラスを受け取り、一気に飲み干した。美味い。仕事帰りの一杯なのでめちゃくちゃ効く。

 もう一杯いかが? と言われて、遠慮がちにグラスを差し出す。黄金色きんいろのビールがしゅわしゅわと心地よい音を立てながら注がれて、真っ白な泡が溢れて少しこぼれた。


「ありがとう、柏森かしわもりさん」

「あれ、覚えててくれた?」


 もちろん。

 

 ……ということは顔に出さないようにしないと。口に出すのもいけない。


「名前、書いてる」

「そうだった」


 あはは、と照れながら笑い、彼女は胸元に視線を落とした。

 『守川かみかわひかり(旧姓:柏森)』

 ネームプレートには落ち着いた大人っぽい筆跡でそう書かれていた。


音澤おとさわくんはあんまり変わってないね。一目でわかった」

「そうかな」

「そうだよ。私と目を合わせてくれないのも、変わってない」

「…………」


 ウェリントン型フレームのメガネの奥に覗く瞳を細めて、少しスネたように柏森さんは言う。

 しかたないだろう。

 が目の前にいて、話しかけてくれているんだから。

 会いたいと思って同窓会に来て、いきなり会えて、こうして話して。

 昔の気持ちを思い出していたところに『旧姓』と書かれたネームプレートを見て。

 なんだか気持ちがぐしゃぐしゃで、どうすればいいのかわからなくなっているんだ。


「……音澤くん? 怒った?」

「いや、別に。大丈夫」

「……ぷっ。その顔。そのセリフ。昔のまんま」


 唐突に柏森さんが笑い出した。

 昔のまんま……ってことは、覚えているのか。俺が同じセリフを言ったことを。


「体育祭で私と音澤くんが男女ペア二人三脚に出ることになって、その練習で足を縛るのに自前のハチマキを使えって先生に言われて、音澤くんのハチマキを使おうとしたらめっちゃ怒ってたでしょ」

「いや、あれは別に怒っていたわけじゃ……」

「ウソだよ。そのあともずっと機嫌悪かったじゃない。走り終わったらさっさとハチマキを解いて離れてたし」


 それは誤解だ。

 新品で下ろしたてだったハチマキがグラウンドの土で汚れるのが嫌だ、と思ったのは事実だが、競技のためとはいえ女の子と密着していることに気がついて、めちゃくちゃ恥ずかしくなったのだ。

 俺は柏森さんと身長があまり変わらなかったから、肩を組むとすごく走りづらかった。だから肩ではなく腰に手を回して走ることにした。安定した走りのためには柏森さんと体をしっかり寄せ合わなければならなくて、走るときは彼女の細い腰をぐっと引き寄せたわけだが……あのやわくて温かい感触は今でも思い出せる。それは本当に掛け値なしに、日陰者で女の子に免疫のなかった俺には刺激が強すぎた。

 だからそんな気持ちの悪いことを考えながら恥ずかしがっていることをさとられまいと、走り終わるとすぐにハチマキを解いて離れたのだ。

 それが柏森さんには怒っているように見えたのだろう。


「私たち、二人三脚の相性悪いのかなって思ったけど、本番じゃやたら息が合って速く走れて一位だったし、わけわかんなかったよ」

「思わずハイタッチしたっけ」

「そうそう」


 そのときの『やってやったぜ!』と言いたげな柏森さんの笑顔が忘れられない。

 好きになったのはその瞬間ときだ。間違いなく。


 しかし、女子に免疫のなかった俺は、体育祭以降に柏森さんと話すことはなかった。意識しすぎていたこともあるし、そもそも女子と話すこと自体が人生において数えるほどしかなくて、何を話せばいいのかわからなかったこともある。

 何より、俺は恥ずかしさを隠すために体育祭が終わるまで……いや、終わった後も素っ気ない態度でいたから、柏森さんを嫌っていると思われていただろう。


 ――そうじゃない、気にしすぎてぎこちなかっただけなんだ――


 そう言えればどれだけよかったか。

 だが、言えなかった。

 それは柏森さんを異性としてめちゃくちゃ意識している――『好きです』と告白するに等しいと思っていたから、言えるわけがなかった。


 それどころか、決定的に柏森さんを避けたと思われるようなことをしてしまったのだ。

 その後悔を

 我ながらバカだと思う。

 多分、柏森さんは覚えていないし、俺がそれをいまだに引きずっているなんて想像もしていないだろう。

 体育祭の数日後のあの日、早朝の渡り廊下で交わした数秒足らずのやり取りを、いまだ覚えていて後悔しているなんて。



       ◇



 高校二年生の俺は、早朝の校舎の廊下を歩いていた。

 混雑する通学路を歩くのが嫌で、かなり早めに登校するようにしていたのだ。部活の朝錬あされんには遅く、通常の登校には早い、エアポケットのような空白の時間で、当然のように教室にはいつも一番乗りだった。

 

 俺が二年のときの教室は、本校舎ではなく隣接する棟の二階にあった。その棟と本校舎は渡り廊下でつながっていて、下足室から教室に行くときは必ずここを通ることになる。

 いつもは誰にも会わずに教室に入るのだが、その日だけは違っていた。


「おはよう。早いんだね」


 渡り廊下にクラスの女子が一人いて、挨拶してきた。

 柏森さんだった。

 まさか俺より早く来ている人がいるなんて思っていなくて、しかも挨拶されるなんて、完全に不意打ちだった。

 普通に考えれば、体育祭では二人で協力して一位を取ったのだし、それを差っ引いてもクラスの顔見知りなのだから挨拶くらいはするものだ。

 だが、当時の俺は人づきあいが苦手でそんな社会常識すら希薄だったし、クラスで存在感のない俺が女子から声をかけられるなんて思いもよらなかったのだ。

 だから、をした。

 彼女は『俺の後ろにいる誰か』に挨拶したんだということにして反応せず、さっさと教室に向かった。

 もちろん、そんな『誰か』なんていない。いれば足音でわかるくらい、早朝の廊下は静まり返っているのだ。

 俺はんだ。

 体育祭で好きになった彼女を。

 俺が立ち去った後、彼女がどんな顔をして、何を思ったのかはわからない。知ろうともしなかった。ただ、傷つけてしまったかも、という罪悪感で目の前が暗くなった。


 それ以降、柏森さんと会話することもなく――三年になり、クラスが別れ、卒業を迎えた。



       ◇



 あの朝、あの渡り廊下で柏森さんにきちんと挨拶を返していたら、今とは違う未来があったのだろうか。

 そんなことばかりを考え、そのたびに風化しそうな後悔を塗り固め直して、二十年とちょっと。

 今日はその後悔を清算するために、この同窓会に来たんだ。


 溢れんばかりに注がれたビールをぐいっと一気に飲み干し、柏森さんの目を見る。


「柏森さん」

「ん?」


 アルコールが入っているからか、柏森さんの目が少し潤んでいる。メガネの加減かもしれないが、そう見えた。


「あのときは、その……ごめん」

「え? なんで?」

「覚えてないかもしれないけど、二年の体育祭が終わった少しあとの朝、渡り廊下で柏森さんが『おはよう』って挨拶してくれたのに、俺、無視して……それをずっと謝りたかった」

「…………覚えてない。そんなことあった?」


 柏森さんの眉根が寄って、怪訝そうな顔でじっと俺を見ていた。

 その答えで自分に気づく。

 もし彼女が覚えていたら、彼女も二十数年のあいだ不快な気分を抱えていたことになる。それは俺の罪悪感を数倍、数十倍に増幅してしまうだろう。

 自業自得とはいえ、それに耐えられる自信はまるでなかった。


「覚えてないならいいんだ。なんというか、俺が気にしていて謝りたかっただけだから」

「覚えのないことで謝られるって、なんだか変な感じ。でも、よくそんな些細なことを覚えてるね。律儀というか、気にしすぎというか」

「ずっと後悔してたことだから。バカみたいだけど」

「ホントにね」


 くすくすと笑って、柏森さんは甘い匂いのする酒を飲んだ。


「ごめん。素っ気ない態度だったのは、女の子と接するのが苦手で恥ずかしかったからで、柏森さんのことが嫌いというわけじゃない……って、いまさらだけど、一応言い訳させて」

「だろうね。音澤くん、モテなさそうだったし」

「…………」


 ぐうの音も出ないほど事実だし、負い目もあって言い返せない。

 そんな俺を楽しげに見て、柏森さんはニヤニヤしていた。


「苦手と言うわりに、今は普通に話せてるよね?」

「そりゃ、まあ、社会に出たら仕事で女の人とも話さなきゃならないし。二十年も会社員をやってれば、多少はね」

「あはは。音澤くんが進化してるー。すごーい」


 あからさまにからかう調子で言って、眉をハの字にして笑う柏森さん。

 腹が立つようなくすぐったいような、何とも言えない気分になった俺は黙り込むしかなかった。


「……怒った?」

「いや、別に。大丈夫」

「またそれ?」


 今度はおなかを抱えて笑い出す。

 俺の口癖なんだ。勘弁して。


 ひとしきり笑い、滲んだ涙をお手拭きで拭って、柏森さんは空になった俺のグラスにビールを注いだ。


「……ね、音澤くん。どうしてこの同窓会に参加しようと思ったの? 今まで一度も出てないよね」

「それは……」


 俺をじっと見ている彼女の目が『ごまかしても無駄』と言っているような気がして、観念して正直に話そうと思った。


「柏森さんに謝るため」

「それだけ?」

「…………」


 彼女は絶対に

 直感でそう思った。


「私に言いたいこと、他にもあるでしょ」


 酒で紅潮した柏森さんの頬が笑みの形に変わる。

 俺にと、絶対に気づいている。

 それを言わせようとしている。

 ……なんて女だ。


「別にないけど」


 言えるわけがない。

 を持っている彼女に、いまさら「好きです」と言って何になる。グラスを持つ彼女の左手の薬指に光る、銀色の指輪を前にして何が言えるというのか。

 そのセリフは、あの日の渡り廊下で柏森さんに挨拶を返して初めて言うことができるんだ。

 だが、その資格は二十年以上前に自分で捨てた。

 だから、言えることなど何もない。


「そっか……ないんだ」


 柏森さんは残念そうに呟き、グラスに残っていた酒を飲み干した。



 それから柏森さんは旧友とおしゃべりに花を咲かせ、俺は会場を後にしていた。

 幹事に帰る事情を聞かれたが、仕事の呼び出しがあったと嘘をついた。柏森さんに謝ることができて、もう用は済んだからとは言えなかった。そんなことを口にしたら場の空気が悪くなる。日陰者でもそれくらいの配慮はできるのだ。


 店を出て駅に向かう道中、何気なく夜空を見上げてみた。

 ここが色とりどりの光に溢れる繁華街だからか、ただ空が曇っているのか、星一つ見えなかった。


「はあ……」


 ため息が漏れる。

 同窓会に参加してよかったのかどうか、わからなくなった。

 柏森さんに謝ることができた。

 彼女が覚えていなくてよかった。

 二十年も引きずり続けた後悔を一つ消化できた。

 今まで避け続けた同窓会に参加した意味は、間違いなくあった。

 それなのに、このモヤモヤした感覚は何なのだろうか。

 ――わかっている。

 柏森さんの残念そうな顔を見たからだ。

 彼女のからだ。

 それがまた俺の中で後悔として残り、心の奥底に刺さっていつまでも忘れられなくなるのだろう。


 今度の後悔は、何年引きずることになるのか。

 五年? 十年? それとも一生?

 冗談じゃない。

 ただでさえというだけのつまらない人生なんだ。これ以上後悔や心残りを増やされてたまるか。


 ――もし、あの日の渡り廊下にもう一度戻れたら。


 そんなことを何度考えたかわからない。

 わからないほど考え、そのたびに行きつくのは――自分は何も変わらないという現実。

 何度戻ろうとも、俺は柏森さんの挨拶を無視するだろう。彼女のことがいまだに好きだという気持ちがある以上、目を合わせるだけで気持ちがうわずってしまい、絶対に挨拶を返すことはできないという確信がある。

 俺は二十年経っても全然変わっていないのだから、今の俺なら言える、なんてことはまずない。

 仕事と同じで、要領が悪く、何をするにも手が遅いし覚悟もない。

 そういうヤツなんだ。俺は。


 ……忘れよう。

  社会人を二十年もやっていれば、都合の悪いことは忘れられる便利な記憶力の持ち主になれてしまうんだ。それが処世術というもの。

 今日は女子に注いでもらったビールの美味さだけを記憶に残して、他のことは全部忘れることにしよう。

 同窓会に参加した理由は、それだけだったのだ。

 そういうことにしておく。



 明日も仕事だ。

 作業が遅いだの要領が悪いだのと、同僚や年下の上司に言われながら働く日々はこれからも続いていく。

 早く帰って寝よう。





       終




※この作品はフィクションです。

 実際の人物・団体等とは一切関係ありません。

 筆者の体験談とかそういうものでは決してないです。

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あの日の渡り廊下にもう一度 南村知深 @tomo_mina

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