秘密の恋に誘われて花が散る

藤崎 柚葉

禁断の蜜の味

 会社からの帰宅途中、僕らは再会した。

「久しぶりだね! 私が辞めてからもう三ヶ月かあ。元気だった?」

「はい、お陰様で。先輩もお元気そうで安心しました。一段と綺麗になりましたね」

「ありがとう。君も顔がシュッとして格好良くなったよ」

「相変わらず手強てごわいなあ」

 僕がわざと先輩に聞こえるような声の大きさで呟くと、案の定、先輩は何のことか聞き返してきた。

 こちらを見上げる先輩の瞳にネオン街のあかりがゆらゆらとあやしく映り、雲一つない夜空に浮かぶ星のようにきらめいている。それは吸い込まれそうになるほど綺麗で、僕の理性は簡単に揺れ動く。

 先輩は昔から、自分への好意に対して鈍感だ。せっかくのチャンスを逃したくなかった。ここで何か決定打がほしい。

 僕は咄嗟にきょとんとした顔の先輩の手を掴み、有無を言わさず路地裏へと引っ張る。僕が壁に片手を付けて迫れば、にこやかだった先輩がおろおろし始めた。見下ろした先にいる先輩は緊張しているのか、小さな身体を隠すように自分の鞄をギュッと抱きしめている。

 僕の身体に毒が回り始めた。酒なんかちっとも飲んでいないのに、身体の芯が熱を帯びて、かあっと燃え上がる欲望の炎が全身に広がっていく。先輩の何気ない仕草に魅了され、僕は危ない衝動に襲われていた。

 今この時ばかりは心ごと五感の全てを先輩に奪われたようだった。僕は立っているだけで庇護欲をそそる彼女の雰囲気に酔っている。

「ちょっと……。こんな所に連れてこられても困るよ」

 淡い桃色の唇で紡がれたのは、可愛らしい文句だった。潤んだ瞳の上目遣いが、僕の心臓を鷲掴みにする。

 この美しい花に触れてはいけない。頭では分かっていても、僕は抗い難い欲望の大きな波に飲まれそうだった。

「先輩、ずるいですよ」

「えっ? 何? もしかして具合が悪かったの?」

 鈍くて優しい先輩は、自然な動作で壁についていない僕の腕にそっと手を添えた。

 僕は予想していなかった彼女の行動につい反応してしまい、ピクリと体を揺らした。それが、彼女の次の行動へのきっかけだった。先輩はそのまま僕を追い立てるように、僕の汗ばんだ肌をするりと軽く撫で始めた。僕はたまらず小さな手から目を逸らす。

 なけなしの理性にじりじりと迫ってくる欲を吐き出したい。僕は先輩の顔に息がかからないように、彼女の耳元で溜息混じりで呟いた。

「そういう所ですよ……」

 甘い花の香りが僕に近付く。

 美味しそうな色を乗せた蕾が、ゆっくりとやって来る。

 身体が痺れて動けない。

「知ってる。だって、わざとだもの」

 僕の唇に花弁が触れた。

 彼女の鞄がドサリと音を立てて離れたのを合図に、僕たちは高ぶる熱に流されるまま、お互いを強く抱きしめた。まるで足りない何かを埋めるように、互いに何度も唇を重ね合わせる。絡まる舌から蜜の味が濃くなっていく。キスの合間に呼吸する時間すら惜しい。

「ねえ、もう二人きりだよ。知らないフリは終わりでいい?」

「もちろん。僕だって、ずっとあなたに触れたかったんですから」

 今日この場所で会おうと言い出したのは彼女だった。

 本当の彼女は、貪欲で打算的だ。そんな彼女の秘密を僕だけが知っている。

 高嶺の花の秘密を暴いてしまっては、元の清い関係にはもう戻れない。

「先輩。彼氏さんには、僕たちの関係は秘密のままですか?」

「当然だよ。彼が知ったら私たち殴られると思う」

「ですよね」

 苦笑いを浮かべた僕とは違い、僕の背中に腕を回したままの先輩は随分と余裕だ。口元には笑みさえ浮かべている。

「今日は来てくれてありがとう。前回プレゼントでもらった口紅ね、とても気に入ったよ」

「良かった。先輩が喜んでくれて嬉しいです」

 彼女のことだ。どうせとっくの昔に、男が女に口紅を贈る意味も知っているんだろう。

「彼が言ってくれたの。その口紅も似合っているって」

 天井から急降下とは、まさにこのことだと思った。先輩は僕を煽るのが本当に上手だ。

「へえ……。それじゃあ、口紅はどんどん使ってください。彼氏さんに見せつけてやりましょうよ。『あなたの恋人はこんなに綺麗なんだ』って」

「いいね、それ」

 濡れた唇が僕を再び捕食する。

 僕は一生、先輩には敵わないだろう。

「でも困ったな。私がこれを使う度に君に会いたくなっちゃうよ。私は君との秘密が増えて嬉しいけどね。……ねえ、今夜はこれからどうするの?」

「……悪いひとだ」

 僕の初恋は永遠に叶わない。

 せめて一瞬でもいいから、先輩が僕の色に染まればいいのに。

 禁断の蜜の味を知った僕は、愛する花に口付けで毒を注いだ。

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秘密の恋に誘われて花が散る 藤崎 柚葉 @yuzuha_huzisaki

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