七つの鉄槌 2

明日出木琴堂

第二打 人格無き学識

 「はじめまして。✕✕百貨店の田中太郎と申します。この度はお時間を頂き誠にありがとうございます。」丁寧なお辞儀と共に茶色のファイロファックスから取り出された名刺。名刺を挟むピアニストのような白く長い真っ直ぐな指。そして、その名刺には「✕✕百貨店 商品部バイヤー 田中太郎」と、誇らしげに記されている。


 まだ肌寒い3月の上旬。ポートアイランドにあるオフィスビルの高層階のワンフロアにある私たち家族の会社。 その一室の応接室。

イデー(IDEE)の白のイスと白の天板のテーブル。シングルラックに掛かるインポートのサンプルの数々。

応接室の南側に開かれた窓からは神戸港の埠頭が一望できる。ゆっくりと船が動いている。部屋には装飾品は何ひとつ無い。ここには港が見渡せる窓だけ有れば他は何も必要ない。


「はじめまして。株式会社ユーロフィットの久遠寺(爪川)キャロライン洋子でございます。」

声がうわずる。名刺を取ろうとする指に無意識に力が入ってしまう。 名刺を差し出す手が思うように伸びない。


 この男に会うのは、多分初めてじゃない。

田中太郎という人物は、関東屈指の百貨店の本部からやってきた仕入れ担当者。

英国製ハケットのベージュ色のナチュラルショルダーのシングルジャケットに同素材のノンプレス、ノータックのパンツ。レーステープのあしらわれた生成りのポケットチーフ。

ベイビーピンクのオックスフォードのクレリックシャツ。暖色系のレジメンタルのネクタイ。ピカピカに磨き上げられた飴茶色のプレーントゥ。ベルトも靴と同色のものをチョイスしている。季節に合わせた柔らかく暖かみある隙のない上品なコーディネート。堅苦しくなりがちなスタイルを上手に着崩している。

ニュートラ発祥の地、港町神戸でさえお目にかかれない程の洗練されたプレッピースタイル。

『流石に東京の方。アルマーニスーツなんてもう着てないわね…。』

大阪辺りでは、オーバーショルダーのルーズジャケットにアルマーニタックを真似たダボダボパンツ、アルマーニスーツのパチもんがサラリーマンの間では相変わらず主流。

『世界へ流行発信の地、東京。流石…。』としか、言いようがない。


 亜麻色の髪を無造作に分け、筋の通った鼻。切れ長の目。尖った顎。

今はスクエアタイプのメタルフレームの眼鏡を掛けてはいるが、面影はある…。成長して面長にはなったけど、特徴的な頭の形…。

偶然なのだろうか、私の記憶の奥底にしまい込んでいた同姓同名のある人物と符号する。

そう思った瞬間に当時の記憶が朧気に蘇る。


 


 罪を罪と思わない、幼い時の記憶。

無意識の罪を犯す事によって叶えた願望。他人を踏み台にする意味とその効果を学ばせてくれた環境。他人が私に求める人間像。稚拙ではあったが計画通りに推移した事に対する子供なりに得た快感。

これらをあの時、身をもって経験した。 多分、あの時期に今の私は出来上がったのだ。

全てはここに居る田中太郎のおかげ。 この男には感謝しかない。

貴方あなたのおかげで私はたくましく成れましたわ。ありがとう。』


 この男には、私が誰か分かるまい。彼との接点は少年時代の3年間程…。

私は結婚で姓は変わっている。あの頃は、ミドルネームは晒していない。

何か、こちらだけが一方的に個人情報を知っているのはとても面白い。とても優越感。

またこの男が私の踏み台になってくれるかも知れない。

商取り引きを優位に進められる手札になるかも知れない。

彼の勤める百貨店は、日本でも有数のコンツェルンの一部門。優位に商談出来るのであれば、パパの会社の更なる飛躍が望めるかもしれない。こんな好機はまたと無い。




 田中太郎という人物に出合う事になるのは、パパの仕事の都合で日本へ戻った,私が10歳の時。

幼い時からママの祖国のイギリスで育っていた私は、日本の風習もマナーもルールも全く知らなかった。

日本人と言えばパパしか知らない。だから日本に住むこと、日本の学校へ通うことに、とても不安を感じていた。沢山の日本人に接することを、とても怯えていた。


 ママの故郷イギリスで私たち家族が住んでいたのは、イングランド南東部に位置するブライトンという都市。地理的にイギリス国内のなかでは温暖な気候の街 。イギリス有数の海浜リゾート観光都市。私はそこで10歳までの幼少期を過ごした。


 物心ついた頃には『私はみんなと違う。』と、感じていた。

時代は1970年になるかならないかという頃、イギリスに於いて、東の果てのアジア人と大英帝国たるイギリス人の混血の子供は物珍しかった。

日本とイギリスの混血の私は、幼い頃より周りから奇異の眼差しを向けられていた。観察されていた。

髪は真っ黒で肌は黄色。真っ平な顔、それなのに瞳は緑…。あの当時のイギリス人には到底受け入れられない容姿の子供…。

初等学校に通うようになると、それは顕著に表れた。彼等と違う私は直ぐに仲間外れにされた。今日で言う【イジメ】にあっていたのかも知れない。

学校の休憩時間にみんながよくやるかくれんぼや、なわとびや、泥遊びや、粘土遊びや、ストリングスゲームに、混ぜてもらえることはなかった。まるでばい菌のような扱いを受けた。誰一人私には近づいてはこなかった。

全ての原因は、私が混血であるから…。


 幼くして私は、私がこの国で置かれている自分の立場を明確に知った。

だから奴等に負けないように、奴等にこれ以上馬鹿にされないように、勉学に励んだ。学問を習得した。乗馬、バレエ、ピアノと言った習い事に勤しんだ。マナーを身に付けた。綺麗な英語を喋れるようにした。

これらの努力は全て、まだ混血に許容のある大人たちを味方につける為。沢山の心許せない者から身を守る技。敵前から逃げ出してしまいそうになる自分の弱さを抑え込むための術。

いつもいつも小さな体に鎧兜を着込んで虚勢を張る虚しさ。一度たりとも素の自分をさらけ出せない辛さ。

これが、この国が、この国の人々が、混血の私に植え付けてくれたもの…。


 この努力の甲斐あって、成績はクラスで一番になった。学年で一番にもなった。同年代では、私に勝る奴はいなくなった。

大人は私を賢いペットの様に褒めた。それに奴等も従わざる得なかった。

私を奇異の目で見ていた奴等を、陰口を叩いていた奴等を、1人ずつ黙らせることに私は成功した。


 しかしながら、この矢先にパパの仕事の関係で日本への引っ越しが決まる。


 


 イギリスでは4歳から義務教育が始まる。4歳から11歳までが初等教育と呼ばれ、日本でいう小学校にあたる。

イギリスの1年間の学校のスケジュールは、9月に1学期が始まり、翌年の7月末で1年が終わる。日本と同じ3学期制となっている。

日本では6歳から小学校に通うようになるのが通常だ。それに、日本は1学期が4月から始まり3月で終わる。

 

 私たち家族の引っ越しは、私の1年間の学校のスケジュールが終わった後の8月に行われた。

私はこの段階でイギリスでは初等教育を6年間の 履修を収めていることになる。

日本では小学5年生の2学期から編入することになった。

彼等は1学期の間に仲良くなっただろう。人間関係を築いただろう。そんな中に、また一人ぼっちで入っていかなくてはならない。考えただけで気が重くなる。

日本でインターナショナルスクールに通う事にすれば、こんなちぐはぐな事にはならなかっただろう。

しかしながら、私はイギリスではごく普通に公立の初等教育学校に通っていた。だから、パパもママも日本でも公立の小学校に通わせる事に決めた。イギリスと同じ様に一日でも早く日本の生活に馴染むようにと考えた上でのことらしい。

だけど、パパやママの思う私への想いは、私にとっては恐怖以外の何ものでもなかった。見知らぬ人に囲まれる恐怖。受け入れられない孤独。混血である事での見世物的存在。沢山の奇異の目で見られる不快。

間違いなくイギリスと同じ事の繰り返しが待っているだけだ…。


 9月。2学期の始業式の日に私は新たなる戦いの場に放り込まれた。私たち家族はパパの生まれ故郷である日本の神戸という都市に引っ越していた。

この日、パパもママも仕事の都合で私に付き添う事は出来なかった。

登校初日から、全てを一人で行うしかなかった。前日にパパが小学生の子供を持つ近所の幼馴染のお宅に「明日の始業式、うちの娘を一緒に連れていって欲しい。学校に着いたら職員室で5年生の先生に預けて欲しい。」と、頼んでいた。そして今朝、様々な年齢の子供たちが私を迎えに来た。


 私は全然知らない道を、全然知らない子供たちについて行くことになった。

ついていきながら、視線をあちこちに動かす。目に入ってくるものは何故か色彩の少ない風景…。私の目に残るはっきりとした色は、私を案内してくれている子たちが背負っている硬そうなバッグの赤色…。初登校の緊張からか、何もかにもの記憶が曖昧だ。

もう一つ、私を緊張させたこと。それは、日本では子供たちだけで通学することだった。大変ショックを受けた。

イギリスでは必ず親と通学しなくてはならない。帰るのも親と一緒でなければならない。治安上、安全上の理由からだ。

もう、この段階でイギリスとはこんなにも違う。気が滅入る。


 家を出て5分と歩いてはいないうちに学校らしい建物に着いた。

しかし、私にとって、黙々と見知らぬ子供たちついて行く道中は、十字架を背負わされゴルゴダの丘を目指し歩かされたイエスの光景を思い浮かばせた。

学校も見たことのない建物だった。敷地への入口には両サイドに石の柱が立っているだけ。ぐるりは金網フェンスで囲われている。

【学校】と言うよりは【監獄】と言う印象を受ける…。

石の柱の一つには漢字の書かれた縦長の木の看板が掛けられている。

入口を入って直ぐの校庭はフラットな土の地面だけ。芝生もガーデンも無い。

気持ちを落ち着かせて見直してみると、校庭には、色のはげた鉄製の運動具らしきものがあちこちに設置されていた。

やはりここは【監獄】に違いない…。

校舎は焦げ茶色の木造の3階建て。何かおどろおどろしい感じがした。

校舎内は何故だか鼻をつくオイルの臭いが充満している。床がベタベタする。私は鼻腔が痛くなった。


 気がつくと職員室で私の担当教師に引き渡された。担当教師は若い女性だった。

「初めまして、爪川洋子さん。担任の横山です。よろしくね。」

「おはようございます、横山先生。爪川です。よろしくお願いします。」と言って、頭を下げる。パパに教わった様に挨拶をする。

「じゃあ、チャイムが鳴ったら一緒に教室に行きましょう。みんなに紹介するね。」

とうとうこの時がきた。緊張が高まる。心臓の鼓動が今迄以上に激しくなる。体温が上昇する。

『混血だと言っても、私の見た目は日本人としての要素の方が色濃く出ている。イギリスにいた頃よりかは馴染みやすいはず。違うのは、目の色だけ…。』


 横山先生の後をついて行く。薄暗い廊下。高い天井には薄汚れた白い金魚鉢のようなガラスカバーの付いた照明が延々と真っ直ぐに並ぶ。床は相変わらずベタベタして歩きにくい。

ギシギシと音の鳴る階段を上る。踊り場の壁にはガラスにひびが入った丸い形の大きな窓。果てしないところを目指して上っているような感覚に陥る…。

3階で目的地のある教室に向かう。

「少しここで待っててね。」と、教室の前で横山先生に言われた。その教室の扉の上に「5―4」と、書かれたプラスチックの白い看板。『私のクラスは5年生の4組なのね…。』


 「…それじゃあ、今日から転校してきたお友達を紹介しますね。」私が廊下で待っている時から、中の生徒たちはガラス窓越しに廊下を伺う素振りをしていた。

「誰?誰?」無邪気に騒ぐ男子の声がする。騒ぐことがお約束のようである。

「爪川さん、入って。」

「はい。」返事はしたが、引き戸の取っ手に手が伸びない。

暫く動けないでいると、中から引き戸が開かれた。

「緊張しなくていいから。さあ…。」と言って、横山先生が私の手を取り半ば強引に教室の中へ引き入れた。

心の準備が整わないうちに場に放り込まれた私は、顔を上げることも目を開けることも出来ない。

私の後ろで横山先生はチョークで黒板に何かを書いている。

それが終わると「転校生の爪川洋子さん。みんな、仲良くしてあげてね。爪川さん、ご挨拶を…。」

私は顔を上げ、目を開く。刹那「うわぁ!」と言う、驚きの声が上がる。


 この後の事はよく覚えていない。焦げ茶色の部屋の一段高い所からあやふやな挨拶をして、指定された焦げ茶色の机の席につき、知らぬ間に下校していた…。

ただ一つ、私の脳裏に焼き付いていた映像は、私の顔を見た瞬間の驚きの表情と、その後におとずれた無表情…。沢山の黒い瞳…。息を吞む程の衝撃が引いた後の重苦しい沈黙…。まるで深い海の底に落ちていくような感覚…。ただこれだけ…。


 翌日、仕事の用事を終えたママと一緒に小学校へ向かうことになった。

想像していた通り、登校中、道行く人が私たちを見る。いくら港町神戸と言っても、この当時、外国人を日常で目の当たりにすることは滅多にない。

特にママは、170センチを優に超える身長にプラチナブロンドの髪、青い瞳。絶対に日本では日常的にお目にかかることのないタイプの人種だ。

それに私も、日本の小学5年生の男子の平均身長を軽く超える身長だ。完全な西洋人の女性と背の高いアジア系の少女のペア。当時の日本人なら誰でも不思議に感じるだろう。

そんな2人が一緒に小学校へ入って行く。小学校は生徒たち喧噪によって興奮の坩堝るつぼと化す。


 私が5年4組の教室に入った途端「爪川さん、あの人、誰?」「あの外人さん、何しに来たの?」「爪川さんの知り合い?」と、フラワーシャワーの様に、矢継ぎ早に言葉が降り注ぐ。

私は昨日の今日で、この強引さと厚かましさにかなり面食らったけど、これ程までに興味津々だとは思ってもいなかった。てっきり、私と距離を置くものだと思っていた。


 「ママだよ。」「横山先生にご挨拶に来たの。」と、私は淡々と返す。

すると…。

「だからかぁ~。」と、彼等から一斉に声が上がる。

私はには全く意味不明な反応に「だから、目が緑色なんだ。」「ハーフなんだ。」「きれいな目の色。」「病気じゃなかったんだね。」と、あちらこちらから安堵を含んだ声が上がる。『私が目の病気だと思ってたんだ…。だから昨日は沈黙したんだ…。』

この時、この瞬間、私の肩の荷が降りた。『ここはイギリスとは違うんだ…。』

私のストレスはこの一瞬で弾き飛んだ。体も心も瞬時に解れた。

この気持ちの緩みがこの後、私に新たなる鎧兜を着せることになる…。


 私が転校した時期は2学期だったので、始業式の翌日から普通に授業が始まった。

期の途中からの編入のため、私の教科書や教材は間に合っていなかった。

そのため、暫くの間は隣の席の子に教科書を見せてもらっての授業となった。

私に与えられた席は、廊下側の一番前の席。自ずと、私に教科書を見せてくれる子は1人だけとなる。

昨日は茫然自失で隣に誰が座っているかなんて気にする事も出来なかった。

そして、今日の1時間目に、彼に初めて対面した。


 「田中太郎くん。爪川さんに教科書見せてあげてね。」横山先生の指示通りに隣の席の男子が私の席に机を寄せる。合わせた机の合わせ目の窪みに、背表紙を差し込むように開いた教科書を置いた。

『なにか変った男子…。几帳面なのかなぁ…。』

初めて遭遇する同年代の日本の男子の行動が、何か不思議であり何か面白くもあった。私の心はこの時点でかなりリラックスしていた。

私は「ありがとう。」と、言おうと彼に振り返り、彼の顔に焦点を合わせた。


「おにぎり!!」


 瞬間、私の口をついて出た言葉は「ありがとう。」ではなく、大きな声で「おにぎり。」だった。

田中太郎くんは、見事な逆三角形頭の持ち主だったのだ。

逆三角形の坊主頭。生っ白い顔色。顔の中心に寄った目、鼻、口。

昔、パパが握ってくれた胡麻塩の【おにぎり】そのものだった。


 瞬く間に、教室は大爆笑の渦に巻き込まれた。

腹を抱えて笑う男子。飛び跳ねながら大声で笑う男子。口を押えて笑い声を殺すのに必死な女子。指差し、膝を叩きながら大口を開けて笑う女子。両手で顔を隠しながら笑う横山先生。

教室のみんなが笑っていた。

いや、みんなじゃない。私と田中太郎くんを除いて、みんなが笑っていた。


 私の悩みは杞憂に終わった。

この一件で、私は直ぐに学級の人気者になった。クラスの中心人物になっていた。

勉強はイギリスで学んできた事の方が、日本の授業よりも進んでいた。今、授業で教わっていることは全て理解出来た。逆に理解出来ないクラスメイトに教えてあげるほどだった。

日本では、英語は中学生になってから学習するらしく、イギリスから来た私に「英語を教えて。」と、お願いしてくる気の早いクラスの優等生もいた。

音楽室で遊びでピアノを弾けば「今度、家に来て弾き方教えて。」と、頼まれ、体育の授業で少しばかりバレエを舞って見せれば「休み時間に教えて。」と、せがまれた。

イギリスでは、イギリスの奴等より勝る為だけに意地でやってきた事が、日本では羨望の眼差しで迎え入れられる。

不思議な感覚だった。しかし、気分は悪くなかった。

そして私は、どこでも中心に居ることが当たり前の事だと思い出した。そしてそれはその通りになっていった。

小学5年生の3学期には学級委員長に選ばれ、小学6年生になった時には学年代表に選出されていた。

みんなが私を持ち上げる。みんなは私のもとに居たがる。面白い…。




 私は中学一年生の夏休みにまた、パパの仕事の関係でイギリス引っ越す事になった。しかし、今回の私は、過去の私のようにおどおどすることはなかった。

日本で得た自信を持ってイギリス戻る事が出来た。

時代もタイミング良く、日本というアジアの小さな島国がヨーロッパ諸国から認められようとしていた時期だった。

それ故か、イギリスの学校に転校しても、過去のように奇異の目で見られるというよりは、日本人の血が流れている私に興味を抱くクラスメイトが多かった。

それは進級しても進学していっても状況は変わらなかった。

特に、大学生の頃は、日本経済が世界第2位に躍進する程の目覚ましい発展を遂げていて、私にとっても、日本人の血が流れている事が誇りに思える程だった。時代までもが私に味方していた。

この当時、私の周りにいたイギリス人たちの私を見る目は、興味から羨望へ変化していた。

おかけで私は、辛酸を味わったイギリスでの幼少期とは打って変わったイギリスでの青年期を謳歌していた。


 不思議と何をやっても上手くいく。何をやっても好評される。

私のこの才能は、高い学識とたゆまぬ修練によって獲得したのだと、みんなが勝手なことを口々に言う。みんなが好き勝手に私の事を吹聴してくれる。

結果、イギリスでも私は人々の中心にいる人間なのだと再度確認出来た。私が恐れるものなどもうなかった。

しかし、本当の私自身は、成長したふり、大人になったふりをしているに過ぎない。

幼き子供の頃から何も変わっていない。子供の時に身につけた身を守る術を今も実行しているだけに過ぎない。

それが有効である事を身をもって私に教えてくれたのが「田中太郎」という人物。

「田中太郎」との出会い。「田中太郎」と言う踏み台。この経験が今の私を作り上げた。


 本当は周りの人間たちが私を勝手に過大評価している過ぎないのだ。

そうは分かっていても、何もかも上手くいく楽しさ、評価がどんどん上がる嬉しさは、私に懺悔をさせる暇など与えなかった。


 そんな折、私の順調な成長を確認したパパとママは、私たち家族の将来、パパの独立起業、等を見据え、今日こんにち、世界で一番景気の良い国、世界で一番安全な国である日本に拠点を移す事を画策していた。

当時のイギリスは長引く不況の真っ只中。失業者は増加する一方で、都市の治安も悪化していた。

パパとママは、これらを踏まえイギリスを離れ、これを機に日本で家族経営の会社を起こし、日本をベースに心機一転を図る事を決心した。

 

 イギリスでの仕事の残務整理が残っている両親より一歩先に、私はまだ肌寒いイギリスの地を離れる事となった。その際、パパから「神戸に着いたら早々にこの御方にご挨拶をして下さい。パパも神戸に戻ったら直ぐにお伺いすると伝えて下さい。」と、頼まれ事を受けた。



 

  「こちらが目的地になります。」タクシーの運転手さんが、青い空と高い石の壁しか見えない外を手で指し示す。

『芦屋市…、奥池町…。有料道路を通らないと入れない町…。閑静な高級住宅街…。瀟洒な豪邸ばかり…。いったいここはどういう所なんだろう…。』

「ありがとうございます。」礼を述べタクシーを下りる。

表札は…、「船場」。パパから指示されお宅はここで間違いない。

神戸市のお隣、芦屋市の六甲山中腹の高台にある高級住宅街に建った、よりいっそう大きそうなお屋敷…。青、赤、黄の自然石(宝殿石)の大きなタイルが張り巡らされている高い塀に囲まれているので中の様子は全く計り知れない。が、高い塀は終わりが見えない程、続いている。

御影石の門柱につけられた呼鈴を恐恐ごわごわ一度押してみる。「ピンポン」と、押した呼鈴が小さな音を立てた。

暫く待ったけど、呼鈴から反応が無い。もう一度押すか逡巡した。

とりあえずもう一度押す事に決め、指をボタンに当てようとした瞬間「どちら様でしょうか?」と、男性の声。

私は驚きながらも「爪川と申します。本日は船場美津彦様にご挨拶に参りました。」どうにかこうにか言葉を絞り出した。変に声が上擦る。初夏なのに冷たい汗が額に滲む。

「…。はい。少々お待ち下さい。」

何の音もなくゆっくりと重厚な大きな門扉が左右に開く。映画の【十戒】の海が割れるシーンを彷彿とさせる。その開かれた間を私も映画の中のイスラエルの民のようにゆっくりと歩を進めた。


 両サイドに多様な木々が植えられている。その真ん中を通る道は、色々な色石が敷かれた軽い登り勾配の広い砂利道。そこを道なりに暫く歩くとロータリーになった車寄せが現れる。

そのロータリーの奥にある玄関階段に黒い服の若い男性が立っていた。

小走りに近づくき、挨拶をすると、黒い服の若い男性は船場美津彦の息子だと名乗った。その彼に案内されて邸内に。

太陽光の筋が降り注ぐ邸内。それに煌めくちり。何か違う世界にでも迷い込んだような感覚に陥る。

ふんだんに大理石の敷かれた床。ウイリアム・モリスのクロスが惜しげもなく貼られた壁。様々な意匠を施された艷やかに磨き上げられた木製の装飾。

こだわりにこだわり抜かれた邸内を歩くこと暫し…。

「少々、ここでお待ち下さい。」と、急に歩みを止められ、廊下に整然と列べられたアンティーク椅子を勧められた。

彼は私が座っている所から少し離れた場所にある、やはりしっかりと磨き上げられた黒色の木製の扉をノックした。

「コンコン。コンコン。失礼致します、お父様。爪川様がおこしになられました。」

暫くして、遠くからの落ち着いた声で「どうぞ。入ってもらってくれ。」と、了解を示す返答が返ってきた。

彼は私を呼び、堅牢そうな扉の中に招き入れ、ゆっくりとその扉を閉じた。

何の気無しに部屋へ入ったが、何故だが薄ら寒い感覚を覚えた。


 中は10坪程の小部屋。この部屋は、私から3メートル程先にある頑丈そうな大きな机に座る男性の書斎のようだ。この男性が「船場三津彦」氏なのだろう。

「船場三津彦」という人物の事は、パパからは60代だと聞いていたけど、どう見ても30代後半にしか見えなかった。何故だか生々しい強い生命力を感じた。

「はじめまして。この度は貴重なお時間を頂き、誠にありがとうございます。爪川の娘の洋子と申します。」緊張する。

「これはこれは、丁寧なご挨拶、ありがとうございます。私が、船場美津彦でございます。」優しい語り口。たいして口を開かないのに言葉がはっきりと聞き取れる。船場氏は座ったまま、ほんの少し会釈した。何故か背中を冷たいものが走る。

「本日は、神戸にて会社を起こすに当たり、ご挨拶にやって参りました。」

「わざわざ、ありがとうございます。」

言葉はとても柔らかいのだが、何故かとても冷たく感じる。何か言いしれぬ得体の知れない怖さを感じる。

「父も日本に戻り次第、ご挨拶に伺いますと申しておりました。」

「重ね重ね、ご丁寧にありがとうございます。」

「それでは今後ともよろしくお願い申し上げます。」

「何か困った事があれば、直ぐに言って下さい。必ず、お力になりますので。」

ありふれた社交辞令のような言葉なのに、本当にどんな頼み事をしても解決してくれそうな言い難い重みを感じた。

「ありがとうございます。」

「是非、頑張って、神戸を盛り上げて下さい。」

「はい。精進致します。」

「それでは。」と言うと、すっと堅牢な扉が開いた。帰れということらしい。

そこには案内してくれた息子さんが立っていた。阿吽の呼吸とはこういうことなのか…。

 

 何も問題無く、無事に船場氏への挨拶は終えたと思う。ただ、彼の…、彼等の…、なんとも言えない掴みどころの無さ、ある面の不気味さだけが私に強く印象を残した。




 この後、イギリスでの仕事の残務整理を終え神戸へ戻ったパパは、直ぐに会社を起こした。この地で家族総出で会社を一から経営していく。不安いっぱいだった。

しかし、日本経済の好調や時代の需要にも相まって、業績は直ぐに右肩上がりに伸びていった。

業績の好調に伴い、起業当時の手狭な高架下の事務所から半年足らずでポートアイランドにあるオフィスビルへの引っ越しも出来た。

この時、オフィスの内装打ち合わせの際に知り合ったインテリアデザイナーの久遠寺という男性と私は意気投合し、短い交際期間を経て結婚する。

この結婚も私たちの会社にとってはプラスに働く事になる。


 久遠寺との結婚から程なく、地元のタウン誌から私たちの会社の商品を紹介したいという話が持ち上がった。

嬉しい話だが、単なる地方の小さなタウン誌。どうしてもセンスを疑ってしまう。

商品の扱かわれ方によっては、私たちの会社は汚点を残すことになる。どんな些細な事であっても、間違った情報を発信する事は命取りになってしまう。安易な判断は出来ない。

なので掲載商品のコーディネートを私の夫である久遠寺が担当するならば、という条件を出した。タウン誌側からは「問題ないどころか是非ともお願いしたい。」と、回答をもらい弊社の商品のタウン誌への掲載を了承した。

ところが、このタウン誌に掲載した久遠寺のスタイリングが地元のみならず、関西、西日本、全国と、いった具合にメディアに取り上げられ、消費者から注目されることになった。

瞬く間に久遠寺の感性は「時代の寵児」の如く扱われ、暫くの間、毎日のように彼はメディアに取り上げられていた。

この後数年、私たち会社はまるで何かに守られているかのように、後押しされているかのように、操られているかのように、一切滞る事無く、猪突猛進に突き進んでいった。

その結果、私たちの会社の業績と名声は東京にも知れ渡る事になり、こうして東京の有名百貨店からバイヤーが訪ねて来るまでになれた。


 パパが神戸で起こした私たち家族経営の会社は、いわゆるインポーター(輸入業者)。パパが商社のサラリーマンだった時のノウハウとネットワークを基に会社を始めた。

当初、私たちの会社は、主にヨーロッパから、食品や飲料、衣料品、雑貨、インテリア、…等々の、多種多様な物を可能な限り独占販売権などを取得して買い付け、日本へ輸入して卸しているだけだった。

しかし、久遠寺の加入で勢いづいた会社は、久遠寺の助言でターゲットをヤング、ヤングファミリーに絞り込んだ事が功を奏して、今では、新進気鋭のファッションブランド、一点一点がハンドメイドの小物や雑貨、日本では認知度の低い老舗のインテリア、インディーズ音楽や新しいカルチャー、…等々を、世界中から買い付けられるようにまでに成長した。

久遠寺の考えは、これらを単体で売るのではなく、コーディネートされたライフスタイルのパックとして日本の消費者へ届ける事にポイントを置いた。

おかげで、私たちの会社は、ライフスタイル提案を重視した輸入卸業者に特化していけた。


 日本のバブル期のこの当時、高級ブランドによるライフスタイル提案はあったが、余りにも、高級志向、大時代的であり、当時の消費者のライフスタイルとは大きな乖離があった。

特に身の回り品のブランド商品においては、何でもかんでも「これでもかっ。」と、言わんばかりにブランドのロゴマークをでかでかと入っていたため、若い人たちからは敬遠される傾向があった。

「お客様は神様【紙(幣)様】。」という時代。消費者が好き勝手に自分自身でチョイスする時代。ベンダーの意見を聞いてトータルでまるまる買うなんて考えられない時代。

当時はまだ、若い消費者の望むライフスタイルをリサーチし、マーケティングが出来る輸入卸業者は、日本にはなかった。

世界中からトレンド商品の買い付けが出来るパイプを持ち、最新の海外のライフスタイルの情報発信出来る。こんな事を地方のいち輸入卸業者がやってのける事など考えられなかった。

結果的に久遠寺の考え方は、私たちの会社に莫大な利益をもたらすことになった。

 

 これにより、田中太郎の百貨店とも取り引き口座を開く事が出来た。取り引き契約条件も私たちの会社の言い分を大方汲んでくれた。

次回の展示会の発注分から具体的な取り引きが開始される。

取り引き口座開設の際、田中太郎から「お時間があれば関西の市場を色々と案内して欲しい。」と、頼まれた。

私は『これも取り引きの一部だからなぁ…。日本の悪しき風習の【接待】って言うやつよねぇ…。公私混同よねぇ…。』とは思いつつ、引きつり気味の笑顔で了承した。


 口座開設一週間後、早速、田中太郎から市場調査の依頼があった。

まず私は、田中太郎を大阪のミナミ、アメリカ村に連れて行く事にした。

ここは関西の若者たちのメッカ。大阪のトレンドを掴むのにはうってつけである。

連絡をもらった3日後、梅田で待ち合わせて、御堂筋線で心斎橋駅へ。

この日の田中太郎はいつものスーツ姿とは打って変わって、黒のMA1に濃いブルーのデニム。『TPOをわきまえているのか、単なる移り気なのか、良く分からないなぁ…。』

黒のリーボックのハイカットを履き、黒のスタイリストバッグを肩に掛けていた。

『サンプルでも買うのだろうか…?』


 私はこの機会に、田中太郎が私の記憶の田中太郎なのか確認したくなり、咄嗟に不躾な質問をしてしまう。

「田中さん。お生まれは?」

「それは…、年齢?出身地?」

「両方。」

「昭和37年生まれ。出身は神戸なんですよ。」『やっぱり…。』

「同い年なんですね。神戸生まれだったら関西の市場なんてご存知じゃないの?」

「神戸は中学までしか居なかったもので…。」

「そうだったんですね。」『概ね間違いない…。』


 次の依頼があった時は、京都の河原町界隈を案内した。

阪急四条河原町駅で待ち合わせた。

この日の田中太郎は、アランフラッサーの白黒の大きな千鳥格子のスーツに黒のジョンスメドレーのハイネック。『カメレオンみたいな人ね…。』

靴はジョン・ロブの黒のサイドゴアのショートブーツ。『お茶屋に舞妓さんでもあげに行く気なのだろうか…?』


「京都は初めてなんですよ。一度来たかったんですよ。」『田中太郎、今日は何故か機嫌が良さそう…。』

「そうなんですね。」

「京都って、大学がいっぱい有るから、日本全国から沢山若い人が集まって来るじゃないですか。」

「ええ。」

「その彼等が、京都の古い文化と自分たちの感性を好きにミックスさせて、大阪とも神戸とも東京とも違う新しいムーブを発信しているのが格好良くって…。」

「田中さんもお若い時分じぶんから格好良かったんじゃありません?」

「いえいえ。僕はどちからって言うと…、いじめられっ子だったもので…。学生時代は嫌でしたね。」『やっぱり…。』

「嘘でしょう。信じられない。」

「本当です。僕、頭の形が悪くって、よくそれをいじられていじめられてました。」

「そんな風には全然見えないですよ。」

「ありがとうございます…。」『やっぱり、私の記憶の中の田中太郎で間違いない…。』

この後、田中太郎は余り話さなくなった。

 

 次の依頼では、先頃開発された西宮周辺を案内して欲しいということだった。

阪急三宮駅で街合わせ、そのまま阪急電車で西宮に向かう。

今日の田中太郎は、マルベリーのリネンのダブルブレストのネイビーブレザーにセントジェームスの白✕紺のハイネックのボーダーT。『捉えどころのない人ね…。』

くるぶし丈のエルメスのチノパンに裸足でトップサイダーの焦げ茶のレザーのデッキシューズ。『これから西宮マリーナにヨットでも乗りに行くのだろうか…?』


「田中さんは引っ越されてからずっと東京なんですか?」

「いえ。今の会社に入って東京に移っただけです。」

「じゃあ、東京に就職希望だったんですね。」

「いえ。東京は偶々たまたまです。」

「それは…?」

「大学の時に何の気無しにファッションデザインのコンテストに応募した事がありまして…。偶然、それが賞を取って…。で、今の会社にスカウトされたんですよ。」

「すごいですね。」

「いえいえ。偶々たまたまです。」『そういう経歴なら…、機会があれば久遠寺にも合わせるべきね…。』

田中太郎は私の想像を超えた愉快な人物に成長していた。『また、この男を踏み台にしてステップアップさせてもらえそう…。』


 この後も、何度か関西の市場を案内した。

しかし、初取り引きの展示会には田中太郎は現れなかった。新しい担当者が来社し、発注をしていった。

その新しい担当者に「田中さんは?」と、尋ねると「退社しました。」とだけ、返事が返ってきた。

それを聞いた私の中には、驚きや心残りといった感情ではなく、愉悦を覚えていた。『ほんと、愉快な事をする人だわ…。』




 狐につままれたような摩訶不思議な時間を経験したが、ビジネスの忙しさに流されて、すっかり思い出す事もなかった。あれからいったいどれだけの時間が経過したかも定かではない。

そんな忙殺されていく日々のある日、昼休みに三宮をうろついていると不意に後ろから声をかけられた。

「失礼ですが、爪川さんじゃあ?」

「えっ?! はい、そうですが…。」

「やっばり〜。良かった。横山です。お久しぶりです。」

「横山…、先生!!」懐かしさで一瞬にして気持ちが高揚する。

「ご立派になられたわね。」

「ありがとうございます。先生、お時間ございますか?」私は何故か先生と話をしたがっていた。

「ええ、大丈夫よ。」

「なら、立ち話もなんですから、どこかでお茶でもいかがでしょうか?」

「そうしましょうか。」

過去に、この人との接点なんてたった1年半程しかない。しかし、私にとってはターニングポイントとなった良い思い出しかない期間。

それを思い出す嬉しさ、懐かしさから時を忘れるほど話込んでしまう。

 

 先生に結婚して、今は「久遠寺」姓なんですと伝えると「私の教員初年度の生徒だった爪川さんが、もう奥さんだなんて…。」と、目を潤ませておられた。

先生の「お子さんは?」の問に「今、3ヶ月なんです。」と答えると、先生はハンドバッグから木綿のハンカチーフを取り出し目頭を押えた。

「ほんと、時間の経つのは早いわね。先日迄、子供だと思っていたのに…。」

「先生、他の生徒とはお会いすることはあるのですか?」

「まだ、この町に住んでる子たちをたまに見かけるぐらいよ。」

「そう言えば、私、田中くん…。」

「田中太郎くん?」先生は、私の話が終わらないうちに口を挟んだ。

「はい…。田中太郎くん…。」先生の顔が曇る。いったいどうしたんだろう…。

「本当に、残念な事をしたわ…。」

「えっ?」先生の口から出た言葉の意味がよく分からなかった。

「私も全然知らなかったのよ…。」

「はい…?」何を知らなかったんだろう…。

「田中くん…。ずっとイジメを受けてたらしくって…。」

「えっ?」そんなはずは…。

「中学2年で不登校になって…。」

「…。」『そうだったんだ…。だからあの時、無口になったのね…。』河原町を案内した記憶が蘇る。

「15歳の誕生日の日に…。」

「…。」

「亡くなったのよね…。」先生の話の内容が咀嚼出来なかった。

「えっ…。」

「自殺だったって聞いたわ。」先生の言葉の文字がリフレインとなって頭を埋め尽くした。

私の目は色彩を失なった。目の前の風景が写真のネガを見ているようだった。

私は先生に急用を思い出したと伝え、その場を急ぎ離れた。

『この前までいた、田中太郎はいったい誰なの…?』

『単なる同姓同名の人物なだけ…?』

『それにしては、昔話に共通点が…。』

『間違いなく面影もあった…。』

私の中に、疑問と疑念が渦巻くばかりであった…。



 

 そんな奇妙奇天烈な出来事も、自身の初産が近づくにつれ、忘却の彼方に去っていた。

お腹の中の子は順調に育っていた。

初めての出産に対する恐怖感、不安感よりも、お腹の中の子がすくすくと育っている多幸感の方が私の中で優っていた。

これまでの人生でこんなにも温かさに包まれた幸福な時間を過ごした記憶が無い。

 

 その時間も思いの外、早く過ぎる。

「十月十日」《とつきとおか》と、言われているように、約10ヶ月の間、私のお腹の中で大切に育んだ命との初対面が近づく。妊娠期間も36週を過ぎるといつ産気づいても不思議ではない。

臨月に入ると今までになくお腹の張りが頻繫に起きる。お腹の中の赤ちゃんが外に出ようとしている気配をより感じる。

朝、目を覚ますと下着に血液が混じったおりもののようなものがついていた。私は慌てた。お腹の中の赤ちゃんに何か不測の事態が起きているのではないかと…。

かかりつけのお医者様に電話で尋ねると「おしるしですよ。安心して。」と、なだめられた。

それから不規則な陣痛が始まる。程なく、陣痛は規則正しく起こるようになる。かかりつけのお医者様に連絡すると「出産入院の準備を。」と、言われた。その言葉を聞いて私は初めて不安を抱いた…。


本陣痛が始まり予定日迄あと数日という時間を山の手の病院の小さな一室で過ごしていた。

陣痛の痛みはあるものの、まだ余裕がある。「今のうちに、よく眠って、よく食べて、しっかり体力をつけておいて下さい。」と、かかりつけのお医者様からアドバイスを頂いた。

出産に備えた寛ぎの時間。生まれ来る新しい生命を思う至福の時間。

窓から眼下に広がる神戸市の夜景を見ながら穏やかな気持ちで安らかな眠りにつく。


 だが、翌日には陣痛の起きる周期が短くなり陣痛の痛みも増した。私は介助されながら陣痛室へ移された。ベッド以外何も無い殺風景な部屋。そこで浴衣のような服に着替えさせられ、この部屋の主役である硬いベッドに寝かせられた。


 長い痛みが表れては消える。連続する苦痛に思考が無くなる。昨夜の穏やかさが噓のように激痛に耐えるのに精一杯だった。

時間が経てば経つほど痛みが増す。強く瞼をつむり、脂汗を浮かべ、顔をしかめて必死に耐えるほか何も出来ない。

陣痛の押し寄せる間隔がどんどん短くなっていく。激痛を我慢しなければいけない時間がどんどん長くなっていく。正気を保てない。気を失いそうになる。

何もしなくとも体中に力が入る。体温が上がる。まるで業火で体を焼かれているみたいだ。


 何度も何度も気を失いそうになる。

下腹部が張り裂けそうな苦痛を味わっている最中、突然、私の目の前の空間に長さ5センチ程の一本の縦線が入った。そしてその線は少しずつ長く、少しずつ太くなっていく…。

『うぅぅぅ…。痛いのに…。お腹が痛いのに…。目の錯覚…。』

その縦線はまるで、手の平と手の平をぴったり合わせたあと、ゆっくりすぼます様に、真ん中から裂けるように割れていく…。私は耐え難い痛みに襲われているのに、この線から目が離せなかった。


 線はどんどん割れてゆき、円になる。その円の中から暗い赤紫の光が漏れ出した…。『穴が開いた…。』

何もない空間に直径10センチ程の丸い穴が開いた…。丸い穴の中は鈍い赤紫の光がゆっくりと渦を巻いていた…。

空間に開いた丸い穴はまだ大きくなろうとしている。無理矢理穴を広げようとしているように見える。空間がメシメシ、メリメリと音を立てているように感じる。

大きくなっていく空間に開いた丸い穴。穴の中の赤紫の光はゆっくりと回りながら徐々に色を変えていく…。

『はっ…。はっ…。痛みから…。幻見るなんて…。女って大変ね…。』

そうは思いながらも、激痛に耐えながも、現実逃避からか興味からか空間に開いた丸い穴を凝視してしまう。


 渦を巻く重い赤紫の光の中心が黒くなっていく。

その黒は回りながらだんだん大きくなっていく。

その黒は空間に開いた丸い穴いっぱいになる。

その黒は空間に開いた丸い穴から出てこようとしてる。

その黒は空間に開いた丸い穴を押し破ろうとしてる。

その黒の圧力は丸い穴を裂けさせた。

ミシミシと丸い穴の裂けた部分から音がする。

裂け目から赤紫の光が線となって漏れ出る。

形の崩れた穴の回りから眩しい程の赤紫の光が一気に放たれた瞬間、私の目の前に黒い何かが出現した。

目のぼやけが落ち着く。目の焦点が合う。『えっ?!』

それは空間の穴から顔を出した小学生の田中太郎だった。

「ぼくの事、覚えてるよね。」

『ひぃぃぃぃ!!』驚きの余り、心臓が止まる思いをした。思わずいきんでしまった。

「ぼくが何をしたの?」小学生の田中太郎が話し始める。

「ぼくは君の心無い一言で辛い目にあったよ。」田中太郎の目が怒っている。私は視線を外したいのに、目が離せない。

「みんなに笑われた。」

「みんなにあだ名で呼ばれた。」

「みんなに頭を馬鹿にされた。」確かに私の心無い発言が田中太郎のキャラクターを決めたのは間違いない。

「みんなに頭を小突かれた。」

「教科書を隠された。」

「ノートに落書きされた。」その光景は見ていた。見ていて知らない振りをしていた。係わる気持ちはなかった。

「掃除道具入れのロッカーに押し込まれた。」

「トイレに閉じ込められた。」

「体操服を隠された。」そうね…。みんなそれを遊びみたいに楽しんでいた…。

「それなのに、見てみぬふりをしてた。」

「あの時、止めていてくれたら…。」

「止められる力はあったはず…。」

「でも、知らんぷり…。」

「毎日、毎日、学校に行きたくなかった。」

「次の日が来ない事を祈った。」

「みんなはどんどんエスカレートしていった。」

「髪にチューインガムをつけられた。」『許して…。』

「手が腫れるまでしっぺされた。」『許して…。』

「たんこぶが出来るまでコンパチされた。」『許して…。』

「椅子に押しピンが貼られていた。無理矢理座らされた。」『許して…。』

「みんなの前で下半身を露出させられた。」『許して…。』

「肋骨にひびが入るまでグーパンされた。」『許して…。』

「ちんちんにメンタムを塗られた。」『許して…。』

「背中をベルトで叩かれミミズ腫れになった。」『許して…。』

「足を思いっ切り踏まれ親指の爪が割れた。」『許して…。』

「腕の肉を、曲げた人差し指と中指で力いっぱい挟まれ内出血させられた。」『許して…。』

「尖った鉛筆で太ももを刺された。」『許して…。』

「黒板消しで顔を叩かれた。」『許して…。』

「机と机で指を挟んで血豆を作らされた。」『許して…。』私は頭の中で同じ言葉を繰り返していた。

「くる日もくる日もぼくをいたぶる事が繰り返された。」

「ぼくは生きている意味が分からなくなった。」

「生きていても何も楽しくない。」

「ぼくは生まれて来た意義が分からなくなった。」

「苦しむために生まれて来ただけだから。」

「だから、ぼくは、15の誕生日にぼくを開放してあげた。」

『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。…。』呪文を唱えるように声に出して早口で同じ言葉繰り返す。

「ありがとう。」『えっ…。何が…。』

「君のおかげでやっと、復讐出来るよ。」彼のこの言葉を聞いた瞬間、私は破水した。


 介助され分娩台に寝かされた。助産婦さんの合図に合わせていきむ。いきむ毎に私の骨盤がメキメキと音を立てる。子宮口がメリメリと裂ける。

いったいどれくらいこれが続くのだろうか…。

「産道で引っかかってる!」助産婦さんが叫ぶ。

「鉗子を。」担当医師が看護婦に指示する。

変な形の大きな鋏が私の股間に差し込まれる。

「駄目だ。引き出せない。…。緊急帝王切開手術の用意を…。」『何故、出てくる事を拒むの…。早く出てらっしゃい…。』

担当医師は私に状況を説明し、手術の許可を取り、局部麻酔を施した。

暫くすると、さっきまでの激痛は噓のように治まり、一気に脱力感が押し寄せた。

寸刻…。

「オギャー。オギャー。オギャー。オギャー。」

「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」

看護婦さんがタオルに巻かれた生まれたばかりの我が子を見せてくれた。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…。」私は気を失った。


 我が子の頭はおにぎりだった。




 「本当にありがとう。」

「やっとこの体で、復讐出来るよ…




あの先公に…。」




終わり



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七つの鉄槌 2 明日出木琴堂 @lucifershanmmer

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