ラベンダーの花壇
菊池浅枝
ラベンダーの花壇
小学二年生の頃、植物辞典を開いたことがある。
項目はラベンダー。苗の植え替え方の部分を繰り返し読んだ。何度も何度も、三日間、口に出して繰り返し、完璧に暗記すると、庭へ向かった。庭の東側に、お母さんの育てているラベンダーがあった。二つのプランターにもっさりと植わっている、まだ緑の葉っぱしかないそれを、私は子供用の赤いスコップで慎重に根を掘り返し、ビニール袋に入れた。
一本じゃたりない。
五本はもらっていこう。
お母さんにばれないように、少しずつ離れたところから五本。スコップを入れる。きれいな煉瓦色のプランターは、縁が土まみれになってしまっていたけれど、私は用心して縁から土を落とし、プランターの中の土を均した。
ふぅ、と一息ついて、服の襟でペとペとと汗を拭う。春の過ごしやすい季節だったけれど、いやに陽気の良い日で、太陽の下は少し暑かった。
五本のラベンダーが入った袋を抱えて、私はそのまま庭を出て、お隣さんの家へ向かった。庭の黒い鉄柵でできた裏門をくぐって、車通りに出て、似たような鉄柵の裏門を開ければ、お隣さん家の庭だ。
私達はよくお互いの家をこうして行き来していたから、見とがめるものは誰もいなかったし、後で知っても誰も怒らなかった。
お隣の庭は、私の家の庭より少し狭い。芝生とプランターが中心のうちとは違って、花壇と畑が庭のあちこちを埋めていた。その中に、一つ、ぶっとい円柱があった。ぽつんと一本、真っ直ぐ二メートルほど伸びた幹の先に、丸く枝葉が付いている。何度見ても、電柱かマイクみたいだと思う。
ヤマボウシという名前は大きくなってから知った。その頃は私達は、それをマイクの木と呼んでいた。
お隣のあきくんが、二週間前、いいだろ、これ、と喋っていた木だ。お父さんが園芸屋さんで買ってきたらしい。
私はマイクの木の根元を掘り返した。
二週間前に木を植えられたばかりの土は、軽い子供用のスコップでも簡単に掘り返せた。少し離しながら、木の周りを半円形に五カ所。掘り返した穴に、持ってきたラベンダーを植えた。
手が土だらけになっていた。
ラベンダーの細い茎をむんずと掴んで、とさ、とさ、と落としていく。周りから土を被せて、スコップでぺしぺしと叩いた。
あきくんの声を思い出した。
いいだろ、これ、もっと高くなるんだぜ。
指さされた木を見上げて、私はええ、と思った。思わず眉を顰めていたかも知れない。どう見てもその木は、不格好だった。何でてっぺんにしか枝葉がないんだろう。幹がズドンとしていて、電柱みたいだった。てっぺんの枝葉は刈り込まれた坊主頭にも似てる。高くなったところを想像してみた。ぶっといマッチ棒が立っているように見えると思った。
首を伸ばしてじっと見上げていたその時、ぽとんと、私の肩に何かが落ちた。
「あっ」
あきくんが大きな声を上げた。私もびっくりして自分の肩に手を当てた。
白くてどろっとしたもの。とっても、とっても認めたくないけれど、それは、鳥の糞だった。木の上から、雀よりは重そうな鳥が飛び立っていく音が聞こえた。
私は大泣きした。あんまり大きな声で泣いたので、あきくんは慌てておばさん達を呼びに行った。お風呂に入るまで私は泣き続け、お風呂に入ってもずっと嫌な気持ちだった。
マイクの木には一週間近づかなかった。一週間たって、あきくんに誘われて、私はしぶしぶマイクの木の下に立った。その日は何にも起きなくて、私はようやくマイクの木に近づけるようになったのだけれど、その日の帰り際、もう一度マイクの木を見上げると、やっぱり変な木に見えた。ええ、と、私はもう一度心の中で呟いた。顔に出ていたかどうかは分からない。でも、あきくんは気付いてなかったと思う。あきくんはずっと、マイクの木に水やりをしていた。
一昨日の前の日、小学校で、先生達がおしゃべりしてるのを聞いた。あのね、うちのあの木、だめになっちゃったのよ。え、枯れたの? そうそう。周りにね、ラベンダーを植えてたのよ。そしたら、ラベンダーの根が強すぎちゃったみたい。ラベンダーは元気よく育ったんだけど、木の方はもう、すっかり。ええー、そうなんだ。
これだと思った。私のお母さんはハーブが好きで、うちの庭にもプランターが二つもある。私の庭から花の苗を分けることも、よくしていることだった。あきくんちから、野菜のお裾分けをもらう代わりだ。
植え終わったラベンダーをじっと見て、大きく息をつく。よし、これでいい。枯れろー、枯れろ-、と、あきくんにはごめんなさいだけど、念を送った。
がらりと、お隣の家の庭に面したガラス戸が開いた。驚いて顔を上げると、あきくんがいた。
「みお? なにやってんの?」
私は内心びくりとしながら口を開いた。
「えっと……その、ラベンダーのおすそわけ。マイクの木に」
「なんだよ、言ったらおれも植えるのてつだったのに」
言いながら、あきくんはサンダルを履いて庭に下りてきた。私の隣に来て、しゃがむ。
「これ? ラベンダー」
「うん、五ほんだけ」
「ふーん。いいにおいする?」
「鼻、ちかづけたらいいよ。このままでもにおいするから」
「あ、ほんとだ」
きれいに咲くかな、とあきくんは笑った。
私はものすごく悲しくなった。あきくんにごめんなさいって言って、頭を下げようかと思った。でも、このくらいのラベンダーじゃ枯れないかも知れないし。マイクの木は、どう見たって不格好だし。
あきくん、ごめんなさい。あきくんのお父さんもごめんなさい。
心の中だけで謝った。悲しくなった気持ちが、だんだんともやもやに変わって、私が口をむっすりさせていると、あきくんは、え、なんでおこってんの、とむくれた。
その日一日はもやもやが消えなかったけれど、やがてそのもやもやを私は忘れていった。
マイクの木が枯れなかったのだ。
なぁんだ、と思った私は、暫くそのことを忘れていたけれど、八年後、三メートルを超したマイクの木、もといヤマボウシをある日見上げた私は、落ちてきた鳥の糞の感触を思い出した。そして、改めてしげしげと眺めて、その枝から小鳥が飛び立つのを、眉を顰めながら見た。
十五歳の私は、迷うことなくラベンダーを植えに行った。七歳の頃に植えたラベンダーもきちんと残っていて、私はそこに増やす形でラベンダーを植えた。今度はお母さんから許可を取った。お隣さんにお裾分けに行く、とだけ伝えたら、いいわよーなんて暢気な返事をしていた。枯れろー、枯れろーと念じながら植えた。ちょっとだけ、
その、さらに十年後。
お義父さんとお義母さんの様子を見に、私は今、お隣さん家に帰省している。
庭のマイクの木は、すっかり枯れてしまっていた。そのかわり、そこはもっさりとしたラベンダー畑になっていて、煉瓦を敷いて、きれいな花壇に整えられていた。
煉瓦を敷いたのは、結婚する前の、章博だった。
章博、ごめん。
七歳の時の私は真剣だったけど、十五歳の私は多分、意地悪だった。
「父さんが剪定間違えたんだよ、あれ」
裏門の鉄柵をくぐる直前、頭を下げた私に。
章博はそう言って、呆れたように笑った。
ラベンダーの花壇 菊池浅枝 @asaeda
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