風吹くしじまの湿地帯
薄く雲がかかった空は牛乳を溶かしたように白く濁り、太陽は七色の暈に取り囲まれている。青々とした湿原の草を割り緩やかに折れ曲がりながら這う木道はやや古びて傷んでいる。おまけに手すりも柵もないものだから、落ちたら大事になるわけではないとはいえ、歩くのに少々緊張する。涼しい風が吹き渡る湿原には一面に花が咲き乱れている。炎のような形をした白い花、小さな花弁をつけた円形の黄色い花。眩しいほどに鮮やかな
唐突に花の海は途切れ、ここまで続いてきた木道は濁った水を湛えた沼に張り出した渡し場へと滑らかに変わった。そばには一葉の小舟、背を丸めて蹲るような姿勢の人物がひとり、侘しげな空気を漂わせて乗っている。小舟に近づいていくと、船頭らしきその人物は掠れた声で渡し賃を告げた。言われるままに料金を支払うと、船頭は小さく手を動かして舟に乗るよう促した。小柄な船頭と向かい合うようにして舳先の方に座ると、舟はゆっくりと動き出した。
目の前にある船頭の顔を眺める。三角笠を目深に被っているためにその表情はよく見えず、年齢も定かではない。引き結んだ口元だけが笠の下から覗いている。そうだというのになぜか私はぴんときて、勘の告げるままに、やや昂揚した気持ちで尋ねた。
「もしかして、妹さんの話をしてくれた人ですか?」
船頭が顔を上げた。笠の下の目がこちらを見た。深い皺に囲まれたまぶた、その中の瞳は疲れたような色をしている。船頭は想像していたよりずっと老いていた。当然かもしれない、これほどの時が過ぎてしまったのだから。私は不意に自分の質問が残酷さに気がつき、恥入りながら、失礼なことを言ったと謝罪した。船頭は何も言わずに目を伏せた。
舟は進み、沼の風景は私の後ろから前へと流れていく。青々とした蓮の葉がいくつも立ち上がり、臓腑のような色の裏側を見せている。花はどこにもない。引き締まった涙滴のような形をした蕾がほんの数個、決して大きくはない蓮の隙間に見え隠れしているだけだ。《蓮》の花の季節にはまだ早かったようだ。
「生きすぎた」
訛りの強い大陸汎用語で、船頭がぼそりと呟いた。私は彼のほうを見る。笠の下の薄い唇が動いている。
「人が沼に、《蓮》に食われぬように渡し守になった。そうして日に何度も何度も沼を往復して妹の声を探したが、とうとう見つからなかった」
「最近、耳が遠くなった。高い音から徐々に聞こえにくくなっていく。今、妹の声がしてもうっかり聞き落としてしまうだろうな」
掠れた声でぽつりぽつりと言葉を継いでいく。私は黙ってその言葉を聞いている。
「あんたの声も少し聞き取りにくかった、だが『妹』という語だけはっきりと浮かびあがって聞こえたんだ」
そこで船頭は言葉を切った。櫂が水を叩く音だけが響いている。泥色に濁った水の上に静寂が横たわっている。瑞々しい《蓮》の葉の下、泥に隠された水底。いくつもの白骨を貫くようにして、節のある《蓮》の根が縦横無尽に張っている。ひとつの小ぶりな頭蓋骨の眼窩を細い根が貫いている。それが私の会ったこともない『妹』か、まったくの他人でしかないのかは分からない。
「潮時だ。死ぬときは沼の中に飛び込んでやろうかとも思っている。集落の奴らに葬儀の手間をかけさせるのも悪いしな」
船頭の声は静寂の一部になり、沼を撫でた風に攫われていった。《蓮》は無言のままだ。誰の声も聞こえない。聞く人の魂を吸い込むほどに深い虚をもつ花托はまだ生えていないから。
舟が対岸の渡し場に着いた。
「年寄りになるとお喋りになるからいけない、若い頃の俺はこんな話を他人にすることはなかった」
笠の頭を振って悔いるようにそう吐き捨てる老人に礼を言い、舟を降りる。そのまま木道を渡って去ろうとする私の背に声がかかった。
「あんたがまたここに来たとき、運が良ければ俺の声が聞こえるかもな」
私は振り向いた。舟はまだそこにあり、老いた船頭は再び背を丸め、無骨な木の彫像のように隅に座っていた。それを見て、もう二度と彼に会うことはないだろうと直感が告げたが、何を言うこともできなかった。
私は小さな声で別れを告げ、彼に背を向けて歩き始めた。
《蓮》咲く湿原にて 守宮 靄 @yamomomoyan
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