《蓮》咲く湿原にて

守宮 靄

朝の沼から呼ばうもの

  去りゆきぬ夜の裳裾に爪を立て

  綻ぶ糸は朝もやに溶く



 湿原は朝靄に包まれていた。大気はうっすらと紫色を帯びて夜の名残を孕み、遠くに並ぶ山々をぼかしている。紅色のうすぎぬのような雲が深い藍の空にたなびいている。ぼんやりととらえどころのないまま脳に染みついて離れないような朝の光景だった。しかし手の届かない景色にばかり見とれていると、木道もくどうを踏み外し泥濘ぬかるみに足を取られてしまうだろう。私は葦の海を割るように敷設された木製の道を進んでいた。昨晩泊まった集落の朝は早く、宿を借りた家の住民も例外ではなかった。今日のぶんの野良仕事を始めたい彼らに急かされるようにして私は薄暗いうちに辞去し、集落の端から湿原の中心へと伸ばされた木道を辿っているのだった。


 空がいくぶんか白く明るくなってきたころ、私は立ち止まった。木道は十歩ほど先でぷつんと途切れていた。群生していた葦の茂みも消え、視界が開けている。傍には小舟が一葉、風景の一部のようにして泊まっている。木道の端は、そのまま渡し場になっていた。『海と見紛うほどに広大な沼がある』と昨晩、集落で聞いたのを思い出す。ここがそうなのだろう。小舟に近づいていくと、小柄な船頭が掠れた声で渡し賃を告げた。言われただけの金を払うと、船頭は身振りで舟の前の方へ乗るように促した。素直に従う。舟はゆっくりと動き始める。


 沼は静かであった。舟のまわり以外に波など存在せず、ただ、櫂を動かす音、水のかすかに跳ねる音だけが、ぼんやりと視界を曇らせる朝靄に吸われていった。静けさを埋めるように天気の話などを船頭に振ってはみたのだが、まるで何も聞こえていないかのように目も合わせてくれない。私もまた黙り、沼を覆う静寂しじまの一部となった。

 靄のために遠くを見渡せなかったからだろうか。私が予兆に全く気がつかないうちに、景色は一変していた。


 一面に植物がある。舟の前後に続く細い隙間を除いて、視界が白くぼやけて途切れるまで同じ色が続いている。太く頑丈そうな茎が水面からすっくと立ち上がり、円形の立ち葉を広げて犇めいている。葉の表が濃い緑であるのに対して、裏は静脈血のような赤黒い色を呈しているのが印象的だ。その陰に隠れる浮き葉たちも、濃い緑で水面を埋めつくさんばかりに繁茂していた。

 葉の隙間を埋めるようにして、蓮によく似た花が咲いている。花弁の先端だけが桃色に淡く色づいた、玲瓏で可憐な白い花である。周囲にじんわりと漂い始めた、甘いながらもすっきりと爽やかで清潔な香りを発しているのもこの花だろう。散った花弁は水面に並ぶ大小さまざまの緑の円の上に乗ったり、水面に落ち半透明になって浮いたりしていた。

 この花の成れの果てがあの花托かたくなのだろう。花と同じくらいの数のひしゃげた円錐形、その平たい部分には蜂の巣のように、しかし蜂の巣よりずっといびつで不揃いな穴がぼつぼつと空いている。穴の中にはまだ青い実や、熟しかけとみえる黒い実が詰まっているものもあったが、中身など存在せず、ただただ深いうろを覗かせているものを多かった。

 気になった私は「あちらの花托の実はもう落ちてしまったのか、まだ小さくてそうは見えないが」と船頭に尋ねてみたのだが、当然のごとく無視された。笠を目深に被り首周りには手拭いを巻き、黙々と舟を漕いでいる。笠の下に覗く顎だけでは年齢が判然としない。私と同じくらいに若くも見えたし、三十くらい歳上と言われても納得してしまいそうだ。ぼそりと渡し賃を告げたときの声を思い返してみてもそれは同じだった。私は再び黙った。


 全天にうっすらと雲のかかり白く染まった朝の空、周囲の景色を覆い隠し、舟のまわりの世界だけを孤立させる靄、そして甘く爽やかな香りを振りまきながら咲く無数の《蓮》の花。幼いころに本で読んだ極楽の景色に最も近い光景だった。しかしここが極楽などではない証拠に、舟のまわりに見える水は泥色に濁り、水底のようすを窺うことはできない。水面は白い空と赤黒い葉の裏を如実に映している。


 性懲りもなく振り向いて船頭に何かを言いかけようとしたとき、進行方向から風が向かってきた。決して強い風ではなかったのに、引き起こした変化は大きかった。風はさざなみを立て水面の空と《蓮》を歪め、震わせ、そして。

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

 四方八方から全く違う色をした同じ言葉が聞こえてくる。物憂げな溜息、街中で知り合いと会ったときのような微かな驚きの滲んだ声、気のない相槌、言いたいことがうまく言葉にならないときの呻き、快楽に押し出された嬌声、歯を食いしばるほどではない苦しみの最中さなかの唸り、混じり気のない感嘆……。老若男女のさまざまな「ああ」が一斉に放たれ、そして終わらない。

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

「ああ」

……。

 風とともに響き渡ったそれらの声に気圧された私はしばらく固まっていたが、無数の「ああ」の底に、きらりと光る何かを見た気がした。耳を澄ます。低い声、だみ声、艶やかな吐息。違う。そうではなくて、高い声。少しだけ掠れている。私はやっとその声をはっきり聞き取ることができた。一度見つけてしまえばその声は浮かび上がり、私の耳にまっすぐ届く。声変わり前の少年か、少女か。驚きと期待に満ちた声を私は知っている。しかしどうしても顔を思い出せない。胸の内側から爪を立てられ掻き毟られるような、懐かしさともどかしさが綯い交ぜになった衝動。今は声がどの方角から聞こえてくるのかも、はっきりと分かる。駆け出していって、その顔を見ようと思った。四肢をつかって《蓮》の太い茎を掻き分け、踏み分け、指先を甘い香りに染めながら花弁を散らし、視界を覆うまるい葉を破りさったその先に、私の望むものが──。


「それは《蓮》だ。《蓮》の声だ」

「おまえさんの知り合いじゃない」

 訛りの強いが、迷いや躊躇いのない声が私を引き留めた。私は小舟から半身を乗り出し、あとほんの少しでも重心が外側へ行ってしまっていたら落下してしまいそうな、危うい姿勢でいた。いつしか風も声も止み、響く音は櫂の音だけになっている。静かに濁る水に呆けたような私の間抜け面が映っていた。急に恐ろしくなった私はすごすごと舟の中央に戻り、身を縮めた。

 船頭は想像していたより高く、そしてやっぱり掠れた声でぽつぽつと語った。

「実のない花托は《呼び蓮》だ。風が吹くと穴から空気が抜けて人間の声みたいな音を出す」

「何百じゃあ足りないくらいの《呼び蓮》があるんだ、自分の知っている声に似た音が聞こえてきても不思議じゃない」

「なんでここに木道がなくて舟があるかわかるか」

「この沼は底なしなんだ」

「舟から落ちなくて幸運だったな、この沼に落ちて再び浮かんできたやつはいない」

 私は相槌のひとつも打てずに黙っていた。先ほどまで私を呼び、強く引き寄せたあの声を、もう頭の中で再現することができなくなっていた。

「落ちた奴らはみんな沼の底だ、《蓮》はそれを吸って咲いている」

「だから集落むらのじいさんばあさんどもは『《蓮》は沼に落ちた者の魂を吸っている、あの声は彼らそのものの声だ』とかなんとか言う。だが俺はそうは思わない」

「あの声は声じゃない、ただの音だ。だって」

「俺の妹の声はいつまで待っても聞こえない」


 喋り終えた船頭は口を閉ざした。櫂が水を打つ、規則正しい音だけが鳴っている。小舟は蓮の群生地を抜け、決して極楽などではない景色は靄に沈んでいった。渡し場に着くまで私も船頭も黙ったままであったし、風が吹くこともなかった。


 渡し場に着くと船頭はうるさそうに手を振り、「早く降りろ」という合図をした。私がもたつきながらもなんとか木製の渡し場に片足をのせたとき、柔らかくぬるい風が吹いた。靄の帳に隠された向こうから、かすかに何かが聞こえた。それは落胆の色を帯びているような気がした。



  薄紅に染めし花唇かしんの吐く息の

  かおりは清いのみにあらねど

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