悪魔の試練
アヤメ
第1話
雲が分厚くて暗い夜空からシトシト降ってくる長雨。その雨が窓ガラスに当たり、雫となってつたう。窓ガラスに映る女性は雫を眺めている。キツネのように吊り上がった目、凛とした鼻、輪郭がはっきりしており口角が上がっている、薔薇色のマットなリップで塗られた唇、女性は美しい顔立ちをしており、頭の後ろには長い黒髪を縛った大きな赤いリボンの髪飾りが付けられている。
「ニラが欲しいわ。地下に倉庫あったわよね? あなた、取ってくれない?」
「ニラか。道具はどうだ? 少ないだろう、必要な物があれば取ってくるぞ」
女性の後ろには、細かいシワだらけのワイシャツや小さな穴が数箇所ある汚れたズボンを身に付けていて、乱れた長髪を適当に結んでいる痩せ気味の中年女性が立っている。中年の女性からの視線の先にいるのは、劣化されている霞んだ青色のジャージを上下共に来ている大柄で強面な中年男性が、地下の倉庫に繋がる扉の前に立っている。二人は夫婦として会話をしている。
「そうねぇ⋯⋯包丁が無いわ。それからまな板もね」
赤いリボンの女性は後ろを振り向いて、夫婦とみられる二人に微笑んで話しかける。
「おばさん、包丁なら手に持ってますよね? おじさんも、持ってるでしょう?」
中年女性はハッとして右手を見ると、確かに二五センチほどの包丁を持っている。中年男性も同じような包丁を持っている。赤いリボンの女性は続けて、話す。
「まな板は私の分もお願い出来ますか?」
「ああ、分かった」
中年男性はこのままドアノブを回し、扉を開けて地下へ階段で降りて行った。
女性は手を一発叩くと、中年女性の前にある台を見に行く。そこには、じゃがいもや人参など野菜が盛りだくさんに置かれているが、道具はガスコンロと鍋だけが置かれていた。周りには、もう一つ台があって、同じようにガスコンロと鍋が置かれている。しかし、野菜は無い。その台は赤いリボンの女性が使う為の台である。中年女性の台と赤いリボンの女性の台の間には、水道がある。──つまり、ここは台所。だが、天気のせいか薄暗い雰囲気をしている。天井に電気は付いていないものの、窓から照らされる空の明るさのおかげで部屋の中が見れるようになっている。台所は安いアパートの台所と同じようなもので、台も水道も新しいものとはいえなかった。
中年女性は、じゃがいもを手に取り、水道で洗う。じゃがいもにある芽を包丁で取り除いて、皮を剥く。
「凄いですね。こんなに早く、じゃがいもを綺麗に剥けるなんて」
赤いリボンの女性からハキハキとした笑顔で話しかけられた、中年女性は軽い礼で返して、じゃがいもを台の上に置いた。
「それ下さい。あと他のも、もらいます」
それを聞くと、返事する前に赤いリボンの女性は、綺麗になったじゃがいも、人参、茄子など数種類の野菜を一つずつ手に取って、自分の台に置いてしまった。中年女性は、それを見て呆気にとられたような顔をしている。
「いきなり⋯⋯取っていくのね」
中年女性は、赤いリボンの女性を下から舐めるように上まで見て、小さくため息を吐く。赤いリボンの女性は、薔薇の花びらの模様が描かれた黒色の袖なしワンピースを着ていて、その服はとても綺麗だった。中年の二人の服装とは大違いであった。
中年女性は再び、じゃがいもを手に取って、水道で洗う。すると、中年男性が戻ってくる。
「はい、まな板だ。お嬢さんも」
「あ、おじさん、ありがとうございます」
中年男性は、赤いリボンの女性にまな板を渡すと、中年女性からじゃがいもを受け取って切り始める。切る速さは中年女性と比べて遅く、じゃがいもの大きさも、均等では無い。赤いリボンの女性は、それを見ると「ふふっ」と少し笑った。
「⋯⋯どうした、お嬢さん」
「ごめんなさい、あまりにも器用さがおばさんと違いすぎて」
中年男性は、中年女性がじゃがいもを容易く、皮を剥く様子を一度見て、自分が切ったじゃがいもを見た途端、ムッとした表情を見せるも、黙って作業を続ける。
中年女性が野菜を全て洗い終えると、台に戻って、中年男性と同様、野菜を切り始める。赤いリボンの女性は水道で野菜を両手で洗い始める。すると、水が飛び散って中年女性の服が少し濡れてしまった。
「⋯⋯ちょっと? 濡れてるわよ。もうちょっと、落ち着いて洗えないかしら?」
中年女性は少しイラついた表情を、わざと赤いリボンの女性に見せつけた。
「⋯⋯あぁ、ごめんなさい! 服が汚れましたね」
赤いリボンの女性は、申し訳なさそうな顔で洗いながら中年女性に一礼をした。
「⋯⋯大体ねぇ、あなたをこの雨の中、家に入れたのよ。少しはわきまえられないの?」
中年女性の声が少し早くなり、中年男性はそれを見て、口を出す。
「まあ、いいじゃないか。お前の服、汚いし」
「はぁ!? 今着てる時点で、この服も私の一部よ? そもそも何で受け入れたのよ」
中年女性がそんな不満を口にした途端、赤いリボンの女性の眉が少し動いた。
「入れて下さり、助かりました。ありがとうございました」
ニコニコした顔で、赤いリボンの女性がそういうと、中年女性は舌打ちをした。
野菜を全て洗い終えた、赤いリボンの女性は鍋に人参とレンコン、ほうれん草を丸ごと入れて、水で浸してガスコンロで茹でる。それを待つ間に鼻歌を歌い始めた。しかし、リズム感が良いとは言えず、むしろ周りの耳を不快にするような、気持ち悪い音楽もどきの音が人から出ているだけだった。中年男性は、その鼻歌がどうしても気になり、赤いリボンの女性に話しかける。
「なあ、お嬢さん?」
「ん、何でしょう?」
「それ、悪いけどやめてくんねえか」
「え? どうしてですか?」
「ほら、鼻歌が不快だからだよ」
「⋯⋯ああ、ごめんなさい。これ、癖になるんですよね」
中年男性はこのまま、返事せずに作業を続ける。しばらくするとまた、同じような鼻歌が聞こえる。中年男性は、イラッとして舌打ちをする。しかし、赤いリボンの女性は気に留まることもしないで、鍋を前に小躍りで鼻歌を続けている。中年男性は明らかに他人に知らせているような、大きなため息を吐いてみせた。それでも赤いリボンの女性は、反応しない。中年男性はいよいよ、我慢の限界が来てしまった。台を両手で強く叩き、大きな音を出して、怒鳴る。
「お前ぇぇぇえ! 止めろよ、その下手くそな鼻歌を!!」
赤いリボンの女性は、肩をビクッと上げて、中年男性を見て、謝った。
「ご、ごめんなさい。つい⋯⋯」
赤いリボンの女性は、目を丸くしながらも、笑顔に戻して、礼をした。
中年男性は、また舌打ちをして作業に戻る。
中年女性がチラッと赤いリボンの女性を見やる。そこで中年女性は、不自然なところを発見する。
「⋯⋯あ、あなた」
中年女性は声を潜めて、話しかける。中年男性はそれに気が付く。
「ん?」
「見てよ、その人さ、包丁持ってないじゃあないの、それに体も弱そう」
「⋯⋯確かに。それなら、抵抗も難しそうだな」
「鬱憤晴らしには、丁度いいわ」
中年男性が包丁を持って、そっと赤いリボンの女性の後ろまで、行って話しかける。
「おい」
「何でしょう?」
「お前、包丁無いのか?」
「⋯⋯ああ、無いですね」
「そうか。⋯⋯後ろ向け」
「え?」
赤いリボンの女性が振り向くと、首に包丁が当てられた。
「これ以上、俺たちの気分を害するな。いいか? 忠告だ」
「⋯⋯はい」
中年男性は赤いリボンの女性の顔を見てみる。顔が強ばっているように見える。これで、二度と嫌がらせをしてくることは無いだろう。中年男性は、そう確信して作業に戻った。
中年女性がニラを細かく刻み終えて、中年男性に話す。
「地下にボウル無かった?」
中年男性は、天井を見て顔を顰めると、頷いた。
「あるな。取ってくるか?」
「ええ、お願い」
中年男性は、また地下に降りていった。それを見届けて、再びニラを見ようとしたが──まな板の上にあったはずのニラが無くなっている。中年女性は、辺りを見回すとやはり赤いリボンの女性のまな板の上に切ってあるニラが置かれていた。
「これ、貰いますね。こっち、包丁ないので」
赤いリボンの女性は悪びれもなく、笑顔で中年女性にそう言った。中年女性は、包丁を手に取り、赤いリボンの女性に近づく。それでも赤いリボンの女性は、笑顔のままだ。
「ねえ? 言ったわよね」
「⋯⋯ねえ、おばさん」
「何よ」
「お金に殺されてどうだった?」
「⋯⋯は?」
「忘れたの? アバズレ。ほら、あなたが口にした男よ」
「ふん。知らないわよ」
「⋯⋯流石、人間が終わってるわね。この詐欺師」
「は?」
赤いリボンの女性は、逆に中年女性に近づく。中年女性は、怖気付いて足を止めてしまう。
「あなたは、結婚詐欺師。色々な男性から沢山お金を奪い、その中の男性から恨みを買って、殺されたのよ」
中年女性の目が丸くなる。中年女性は思い出した。赤いリボンの女性の言うどおり、沢山の男性を騙して、その中の人に建物の屋上から突き飛ばされたこと。あの時の恐怖も思い出した。体が震えて、しゃがんでしまった。呼吸も荒くなり、赤いリボンの女性の声も聞こえなくなった。
「あーあ、せっかく私がここにいる事に疑問を持ったのに、思考することを辞めちゃったら、二度と人生を過ごせなくなるじゃない。勿体ない」
赤いリボンの女性はそう呟いた。その時、扉から中年男性が出てくる。中年男性は、赤いリボンの女性と項垂れる中年女性を目にし、赤いリボンの女性を睨む。
「⋯⋯お前、妻に何した?」
赤いリボンの女性は中年男性の言葉を聞き、吹き出し笑った。大きな声でお腹を抱えて、最後にはヒィヒィ言いながら、笑った。
「お前、何を笑ってる? 何がおかしい?」
「まだその概念取れてないの? その概念、私が作っただけなんだけど。分かるよね? あなたは、このおばさんの旦那じゃないのよ」
一瞬、赤いリボンの女性が言っていることが分からなかった。しかし、中年男性もまた、死ぬ前の人生を思い出した。
「あなたは、自分のために人を殺すことも厭わないほど、立場が大事だった。自分にとって、都合が悪いことが世の中に攫われると思ったら、すぐそれを阻止するのがあなたのやり方。でもある時、いつものように阻止しようとして、何らかの手違いで味方の銃に撃たれて、あなたは死んだ」
そう、赤いリボンの女性の言う通り、中年男性は暴力団の組長だったが、抗争の際に撃たれて死亡した。
「⋯⋯お前、何者だ? 何がしたいんだ?」
「いや、仕事だから」
「俺は死んだのか?」
「そう言ったじゃない。人殺し」
「⋯⋯うるせえ」
中年男性の右瞼が痙攣し出す。
「あなたは、本当に見てて反吐が出るほど、クズね。自分のために、神が作った宝物を壊すなんて、ね」
「うるせえよ」
中年男性の体が震え出す。
「どうだった? 呆気ない人生の終わりは? 死んだ後に、自分の大事な立場が無くなっていた時の気持ちは? 教えてよ」
「あああああああ!! うるせええええ!!」
中年男性が叫ぶと、包丁を両手で握り、赤いリボンの女性の胸へ目掛けて走る。
赤いリボンの女性は、咄嗟に右手を挙げて、指をパチンと鳴らし────時は止まる。中年女性は恐怖と憎悪の感情がこもった表情で止まっており、中年男性は顔を顰めて何かを叫ぶように大きく口を開いたまま止まっている。包丁はその先から赤いリボンの女性まで、指一本ほどの至近距離で止まっている。
赤いリボンの女性はニヤリと笑うと、ただの茶色だった瞳を紅く光らせて、背中から腕より長くて、大きな漆黒色の翼を出しては一度、はためかせる。彼女は、いわゆる「悪魔」なのである。シュッとした右手の爪から、赤色の鋭い長爪を出すと、そっと包丁に触れる。その瞬間、包丁は綻ぶように、紙の燃えカスのような何かに変わり、上へ飛んで天井を通り抜けていく。
「あーあ、二人とも失格ね。⋯⋯ほんと、既に人間じゃない奴を担当するのはもうゴリゴリ。さて、最後に罰として、あなた達を業火で焼いてあげる。⋯⋯⋯⋯永遠に消せない地獄の賜物よ!!」
悪魔は手の平を上に向け両手を掲げた瞬間、碧色の猛火が中年の二人を燃やす。少し待つと、もがくような悲鳴が二人から聞こえる。しかし、二人は時が止まったままだ。さらに待てば、二人の体が先程の包丁と同様に散って、飛んで行った。その場に残されたのは、業火にもがき苦しんで転がったり走り回ったりする焦がれたような黒色をしている人の姿が二体。どっちも、さっきの中年の二人の魂だ。悪魔はそれを眺めて、笑顔でこう言う。
「苦しいでしょ? どうにかしたいでしょ? ────無駄よ。その感覚のまま、あなた達には無限に苦しんでもらうから。⋯⋯あなた達は、この私から用意したステージで試練に負けたの。もしも、料理が最後まで平和にできてたら、こんなことにはならずに転生できたわよ! 地獄に落ちた人は皆、試練を乗り越えていないなんて、本当に愚か、愚かすぎるわね。でもいいのよ、あなたの悲鳴や涙は、私の《栄養》になるんだから! フッフフッ、ハッハッハハハハハハハハハハハハハ!!」
悪魔が目と口をかっ開いて大笑いしながら、両手を上にまた挙げると、黒い人の姿二体は共に、散って天井を通り抜けて、屋根も通り抜ける。その更に上にあるのは、雲のみ。いや、《悪魔の試練》に敗れた人々の魂が散って上空で漂っているのだ。そこから、雲に見える何かからは轟々たる悲鳴が聞こえ、魂が苦しんで流した涙が、雨となって降り注いでいるのであった。
悪魔の試練 アヤメ @Ayame05250307
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