ある令嬢が発見した幸福への道しるべ

須崎正太郎

ある令嬢が発見した幸福への道しるべ

 本棚の裏に、扉を発見した。

 なんの扉かしら、と、十五歳の九条茜は首をかしげた。


 この屋敷には物心がついたときから住んでいる。立派な父の勇作、四十六歳。優しい母の佳代、三十八歳。それに料理裁縫洗濯掃除、なんでもござれのメイドさんが三人、いっしょに暮らしている。


 広い庭には桜の樹、それに向日葵と紫陽花と金木犀も揃っていて、どんな季節にも色とりどりの花を楽しめる。こんな素敵なところ、世界中探してもないわよね、と、茜はつねづね思っている。世界のことをなんにも知らないくせに、と我ながらおかしくなるけれど、実際にそうなのだ。


 そんな素敵なお屋敷の中に、見たこともない扉がある。


(そういえば先日、お父様が本の整理をされていたわ。それで本棚が少しずれて、この扉が出てきたのかしら? でも、この先にはなにがあるのかな。気になるわね)


 両親の許しもなしに、冒険なんてできない。それはとてもはしたないこと。母親はつねづね、言っていたではないか。


 ――あなたはいつか、本当に素敵な男性の奥さんになるの。そして妻として一生を共に過ごすのよ。そのために毎日、立派な女性となるべく、教育を受けているのですからね。


 その通りだった。

 茜は毎日、この九条屋敷の中で、家庭教師やメイドさんから、勉強に家事に、音楽や踊りまで習っているのだ。それもこれもすべては、いつか現れるという未来の夫のために。そう教えられてきたのだ。両親の言うことを聞いていれば間違いはない。そして、どんなことでも両親の許可がなくては、してはならない。


 だからこの扉を開けてはだめ。

 お父様の許しもなしに、そんなこと。それはとてもはしたないこと。


 でも、でも、少しだけ。

 ほんのちょっぴりだけ、中を見てみたい。


「少しだけなら、いいよね?」


 茜は好奇心を抑えることができなかった。

 ついに茜は、扉を押し開けてしまった。


 階段が地下に向かって伸びている。

 茜はそっと階段を下りていった。

 ひんやりとした空気の中、前へ、前へと進んでいく。


「地下道、かしら」


 壁に、小さな明かりが取りつけられている廊下だった。


「電気がきているのね」


 ということは、使われている道なのね。


(誰が使っているの? それに、こんな地下通路が、どうして本棚の裏に?)


 疑問に思いながら、さらに進む。

 三百メートルは歩いただろうか。不思議と恐怖はなかった。屋敷の中だということが、分かっているからかもしれない。


 やがて上り階段が見えてきた。茜は上った。

 また扉が出てきた。茜はそっと引いてみる。

 すると、


「あれ? 君は誰?」


 小綺麗な、ロココ調の家具で整えられた室内に、背の高い男の子が立っていた。

 年齢は自分より少し上だろう。ああ、でも――茜はそのまま立ちつくしてしまった。顔が赤くなるのが自分でも分かる。


(だって、同世代の男性と会うなんて、初めてなんだもの。どうしてこの方、わたしの屋敷にいるのかしら?)


「黙っていないで、答えてくれよ。君は誰なんだい。……ああ、ひとに名前を尋ねるのなら、自分から自己紹介をしないといけないね。これは失礼。僕は九条玲司、十八歳。九条勇作と九条佳代の一人息子だ」


「えっ、ちょっと待って。九条勇作と佳代はわたしの両親よ。それにわたしだって、一人娘……。ど、どういうこと?」


 信じられない思いだった。

 茜は子供のころから、一度だって屋敷を出たことがない。外の世界には怖い人間や怪物でいっぱい。屋敷の中で淑女として育っていれば安心だといつも父親は言っていた。


 それなのに、目の前には両親の息子がいる。

 どういうこと!?


 そのときだ。

 部屋のドアが開き、両親が部屋に入ってきた。

 父親の九条勇作は、頭をかいている。


「お父様、お母様。これはどういうことですか。わたしは九条家の一人娘ではなかったのですか?」


「いや、すまない。茜、本当の話をしよう。君は、我々の実子ではないんだ。我々夫婦の本当の子供は、この玲司だけなのだよ。君の本当の両親は、どこにいるのか我々も知らない。君は施設にいた子供だった。その子供だった君を、我々は引き取ったんだ。……この玲司の結婚相手として、ね」


「玲司にとって理想の妻となるように、子供の頃から育てていたの。あなたが十六歳になったら、教えるつもりだったのだけれど」


「そんな……」


 勇作と佳代が、自分の両親でなかったことを知った茜は、ショックだった。思わず立ちくらみを起こし、その場に倒れそうになった。そこへ、


「おっと」


 玲司が茜を支えてくれた。

 近くで見ると、優しげな瞳が印象的な少年だ。


「事情は分かったよ。僕も子供の頃から、いつか必ず素敵な結婚相手が現れるから、そのときに備えて立派な紳士になりなさいと両親から育てられてきたんだ。その結婚相手が君だなんてね。驚いたよ。……君はこの通路の先からやってきたのかい? ふうむ」


「玲司は九条屋敷の西側で、茜は東側でそれぞれ、ずっと育ってきたのだよ。茜は養女だったが、とはいえ、待遇にはまったく差を付けずに育ててきたつもりだ」


「待遇。……待遇はそうかもしれませんが、お父様。わたし、いま、とても混乱しています。わたしがお父様たちの娘ではなかったなんて。それに、こちらの方、そう、玲司様と結婚する予定なのであれば、もっと幼いうちに顔合わせくらいしても」


「茜、それはあなたたちのことを考えた結果なの。男と女は、幼いうちはとにかくケンカしやすいもの。子供のうちに会わせて、仲違いでもしたら大変でしょう。だからお互いに、心も体も成熟してから会わせたほうがいいと思ったのよ」


「そうだったのですか。でもお母様、いえ、もう、なんとお呼びしたらいいのか分かりませんが、お母様、お父様、わたしは――」


「茜、……茜さんと呼ぶべきかな。茜さん。戸惑うのも無理はない。けれど、これが僕らの運命ならば、これから一緒に暮らしていこう。僕らは許嫁なんだから」


「そうだな。どうせ一年後には会わせる計画だったのだ。予定より早くなったが、こうなったら四人でいっしょに暮らそう」


 父――いや、これまで父だと思っていた人物、勇作は優しくそう言った。

 母――これからは義母と呼ぶべきなのか? 分からないが、佳代もうなずいた。


 茜はただ呆然としながら、とりあえず、こくりとうなずいた。




 しかし。

 茜の中に生まれた、勇作たちへの不信は、その後、消えなかった。

 両親だと思っていたひとに裏切られたというショック。急に登場した同居人であり許嫁。


 義両親は相変わらず優しく、家庭教師やメイドたちも変わらずに自分に接してくれた。玲司も綺麗な顔立ちと優しい性格をしている。なにか強烈な不満があるわけではない。ただ、なにかが嫌だ。自分の本当の両親はどこなのか。本当にいないのか。九条家に来るまでの私はどんな生活をしていたのか。そして、そして何よりも。


 九条家の外はどうなっているのか?


 知りたい。自分が育ってきた屋敷。玲司がいた屋敷。ふたつの屋敷がある九条家の敷地は実に広大だった。これまでも広いと思っていた屋敷が、もっと広いと分かり、驚く茜だったが、いくら広いといってもこの屋敷が世界のすべてではないはずだ。この屋敷には外がきっとあるはずだ。


(これまでは、考えたこともなかったけれど)


 茜は、『外』という概念を発見してしまった。


「義父様、義母様。わたしも屋敷の外に出てみたいわ。玲司様は外の学校に通っておられるのでしょう? わたしも外を見てみたいのです」


 茜は何度もそう言った。

 だが義両親たちは「外は怖いのだ」「九条家の女性は外に出ないものよ」と言って、取り合ってくれなかった。


 怖い?

 本当だろうか?


「では、お義母様も、お屋敷の外に出たことがないのですか?」


「若いころに出たことがあります。けれど、もう出たいとは思いません」


「お義母様、ずるい。お義母様が外出されたのなら、わたしも一度くらい」


「まあ、はしたない。茜はいつからそんな、母親に対して、ずるい、などという言葉を使うようになったのです。言葉遣いに気をつけなさい」


「だ、だって、だって。……そうだ、お義母様。前から尋ねたかったのです。お義母様も、子供のころからこのお屋敷で育てられたのですか?」


「ええ、そうですよ。幼いころからこのお屋敷で、勇作様の妻となるべく育てられたのです」


「それなのに、外出が許されたのですか? どうして。それに――」


「茜。私は、はしたない、と伝えましたよ」


 佳代の声が少し険しくなった。

 茜は「申し訳ございません」と頭を下げた。母に逆らってはいけない。茜はそのように育てられている。話はこれでおしまいになった。


 しかし、心の中の疑問は消えない。


(昔のお義母様はどうして外に出られたの? それにお義父様とお義母様は、八歳も年が離れている。わたしと玲司様は二歳違いなのに。子供の頃からの許嫁だったにしては、少し、年が離れすぎている気がする)


 なにかが怪しい。

 義両親たちは、なにか隠しているのではないか?

 疑問は消えない。外の世界への興味もなくならない。


 だからある夜、茜は。

 新月の夜。月明かりのないときを狙って、屋敷の窓を開くと、こっそりと外に出て、庭を突っ切って、走り抜けたのだ。


 やがて目の前に、巨大な壁が現れた。しかし、壁ばかりが続くはずがない。茜は右に向かって走り続けた。


 やがて小さな扉を発見した。開けてみる。古い鍵がかかっていた。何度もガチャガチャと強く動かしてみた。すると、鍵が壊れた。少しだけ、拍子抜けだった。これほど簡単に扉の鍵が開いてしまうなんて。


「わたし、運が良かったんだわ」


 そう思うことにした。

 茜は力強く、扉を押し開けた。

 すると、


「なに、これ……」


 灰色の地面。無数に立ち並ぶ、小さくて不思議な家の数々。

 地面の上をときどき走る、赤や白の小さな自動車。見たこともない格好で歩き回る人間たち。茜が初めて見る景色だった。屋敷の外は、こんなふうになっていたの? これまで絵本や写真で見てきた景色とはまるで違う。


「君、どうしたの。ずいぶん顔色が悪いけれど」


 青い服を着た男性が、声をかけてきた。

 茜はびっくりして、思わず身を引かせたが、


「ああ、そんなに警戒しないで。僕は警官だよ。本物の警察だ。分からないかな」


「警察? ……おまわりさん?」


 そう言われたら、絵本の中で見たことのある格好をしているわ。

 茜にも、警察官といえば正義の人という知識だけはあったので、


「助けてください。わたし、ずっとこの屋敷の中に閉じ込められていたんです!」


 警察官に向かって、必死に訴えた。

 夜風が吹いた。茜が着ているシルクのドレスがわずかに乱れた。




 ――十三年間に亘って、引き取った女児を屋敷の中のみで育てる!

 ――資産家・K氏の一人息子、その配偶者として長年育成か。

 ――学校にも籍のみで通わせず。K氏と教育委員会の癒着。

 ――養女となっているため誘拐にはあたらず。

 ――児童相談所は問題を把握も、K氏とのトラブルを恐れ事態に介入せず。




 茜が屋敷の中だけで育ち、外出も通学も許されていなかったことが分かると、大富豪の奇妙な育児として、日本中のメディアが報道した。


 もはや茜の心は九条家から離れてしまっていた。茜は、警察に向かって訴えた。自分は九条玲司の結婚相手としてのみ育てられ、いびつな育児を受けた。だから外の世界がまるで分からない。おまわりさんが教えてくれたテレビやインターネットというものも知らない。すべて九条家のせいだ。これからは外の世界で生きたいと訴えたのだ。


 九条家はマスコミやネットから糾弾された。

 しかし、九条家が地元の政治家とも深い繋がりがあったことや、茜に身体的虐待を行っていたわけではないことが分かったので、事件そのものは不起訴となった。


 そして茜は、他県の施設に入ることとなり、施設の近くにある公立中学校の三年生に編入されることとなったのである。


(これでわたしは自由の身。ここからがわたしの本当の人生! さようなら、お義父様、お義母様、玲司様)


 茜は天にも昇る心地で、本当の人生を歩み出そうとしていた。




「お義父様、お義母様。玲司様! 助けて、助けて。わたしです、茜です。お願い、開けて、助けて! ……本当に、本当に怖い人間や怪物っていたのね。もう出ていかないから、許して、お願い、わたしを助けて。……ああ……!」


 茜が外に出てから数ヶ月が経った、ある夜。

 九条家の門が激しく叩かれた。


 門が開く。

 茜は、泣き叫びながら九条家の中に飛び込んできた。

 勇作、佳代、玲司、そしてメイドたちが集まってくる。


「おかえりなさい、茜。なにがあったの。私に話してごらんなさい」


「お義母様! わたしをもう一度、ここに置いてください。ごめんなさい。申し訳ございません! わたしは間違っていたの! ……外の世界は怖い人ばかり。すぐにわたしを怒鳴りつけるし、意地悪をするし、世間知らずだ、金持ちの家で育ったんだろうって、悪口ばかり言われて。お、お友達になったと思った女の子からも、裏切られて。辛いことばかり! もう、もう嫌……。この屋敷の外は、本当に怖い人間や怪物たちばかりだったんだわ。お義父様たちの言っていることは正しかった。わたし、わたし、もうここから出ていきたくない。玲司様と結婚して、ずっとこの屋敷で暮らしたい。それがきっと、一番、わたし、幸せなの。お願いします。本当に、本当にごめんなさい……!」


「茜。いいのよ。……分かってくれたら、それでいいの……」


 泣きじゃくる茜を、佳代はそっと抱きしめた。

 勇作と玲司も、優しい瞳で彼女を見つめ、


「いいんだよ、茜。君は我々の娘だ。謝ってくれたら、ちゃんと許すとも。父さんたちの言った通りだっただろう、外の世界は怖い人ばかりだ。屋敷の中なら安心だ。さあ、中に入りなさい。温かいスープでも飲むといい。そして明日からまた、以前の暮らしに戻り、十八歳になったら玲司の妻になるんだよ、茜……」




「すべて、うまくいきました」


 その日の夜、九条勇作は、敷地内に作られた礼拝堂で、先祖に向けて祈りを捧げた。


「玲司の妻となるべく連れてきた少女、茜。彼女はもう二度と、この屋敷から外に出ようとはしないでしょう。……」


 九条家の嫁となる女性は子供のころから屋敷の中で育成する。

 そして適齢期になれば、家の跡取りと結婚させ、死ぬまで家の中で妻としての役目を持たせる。それが九条家のしきたりであった。


 しかしここ数十年、そのしきたりが破られることが増えてきた。

 屋敷の中で育った女性が、成人すると、屋敷を脱出するようになってきたのだ。

 女性たちは、どれほど九条家が豊かでも、屋敷が広くても、家の中で一生を過ごすなどまっぴらだと考えるようになってきたのだ。テレビや新聞などの情報をどれほど遮断しても、女性は逃げてしまう。戦後日本の自由な空気が、自然と九条屋敷の中にも入り込んでしまっていたのだろう。


 勇作自身も若い頃、許嫁に逃げられてしまっていた。それも二度も。佳代は三人目の、選ばれし女性だった。


 だが三人目の婚約者となると、九条家も策を講じるようになった。十代半ばまで育った女性を、あえて一度、屋敷から脱出するように仕向けるのだ。抜け道を発見させ、外という概念を持たせ、外の世界にあえて逃がす。


「だが、九条屋敷で育った女性が、それも十代半ばでまだなんの力も無い少女が、外の世界に耐えられるはずもないのだ」


 逃げ出した少女は恐らくその後、外の世界の恐ろしさを知り、帰ってくる。そして今度こそ永遠に九条家の女性となるだろうと思うはずだ。九条家はそう考え、――本当にそうなった。十五歳のときに逃げ出した佳代は、二ヶ月で屋敷に戻ってきた。その後、彼女は一度も外出せず、屋敷の中で、完璧なる勇作の妻でい続けた。


 茜も、きっとそうなるだろう。

 勇作はそう考えて、計画をたてて、実行した。

 地下道に電気が点いていたのも、外に出るための扉の鍵が驚くほど脆かったのも、勇作が手はずを整えていたからなのだ。計画は成功した。


「茜はこれから、玲司にとって理想の妻となるだろう。永遠にこの屋敷の中で、妻として嫁として母として、――九条家の女性として生きていく。茜が男児を産めばよし、産まなければ玲司に側室を作ってやり、生まれた男児の母親役をさせてやればいい。そしてその男児と、男児の婚約者を育成するのは玲司と茜だ。歴史は正しく繰り返す。亡くなるまで、家のため、両親のため、夫と子のために尽くす。だが生活の苦労をせず、誰かと争うこともなく、外の世界のおぞましさに染まることもなく、屋敷の窓から花を愛でながら暮らしていけるのだ。それはそれで、ひとつの幸せだと私は思うがね。……」

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ある令嬢が発見した幸福への道しるべ 須崎正太郎 @suzaki_shotaro

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