首折り男の狂詩曲(ラプソディー)1/11

流々(るる)

火曜日

 今日は朝から風が強い。三月になったばかりだというのに、四月中旬の気温になるだろうとTVの天気予報が伝えている。春一番が吹くかもしれない。

 そんなことにはお構いなしに、大藪おおやぶはボタンを外したチェック柄のダッフルコートを揺らめかせて雑踏に紛れている。羽織はかま姿の女性二人とすれ違い、その後姿を見下ろすように目で追いながらも足は止めない。

 駅前の横断歩道へたどり着くと赤い灯りに眉をひそめ、コートの袖をまくった。盤面の大きないかついデザインのダイバーウォッチをちらと見やり、すぐそばで募金をしている男へと目を移す。

 その男は手に持った紙へ視線を落としたまま、大きな声をあげていた。どうやら犬や猫を助ける目的らしい。


「こんなところに立って他人が書いた言葉を叫んでいるより、自分で働いたお金をそっと寄付したほうがいいんじゃない?」


 自分への言葉だと、募金の男が気づくまで間があった。

 顔を上げた男は助けを求めるように辺りを行き交う人を見回す。

 大藪は片笑みを浮かべた。


「自分が思ってるほど、いいことをしているなんて周りは思っていないからさ」


 そう声をかけ、信号が変わり動き出した人波に合わせて大股で歩き出した。

 ガラス張りになった駅のコンコースには白いピアノが置いてある。その隣に立っていた警備員とガラス越しに目があうと、大藪は片手を挙げてにぃっと笑った。

 隣接する駅ビルのエスカレーターに乗り二階へと向かう。流れ降りてくる他人たちの中で、今度は高校生らしい三人組の一人と目が合った。隣りに立っている灰色のパーカー姿の奴から肩を組まれている。すぐに目を伏せ、遠ざかっていく彼を大藪は肩越しに振り返り眺めていた。

 エスカレーターを降りる頃には高校生のことなどすっかり忘れたようにポケットからスマホを取り出した。表示された女性の写真を確認して、奥にある喫茶店へ向かう。


「いらっしゃいませ」

 ウエイトレスが気のない声をかけてきた。

 大藪は黙ったまま店内を見渡す。

 窓際のテーブル席に彼女はいた。



 流行りのコーヒーチェーン店と違い、ゆったりと配置されたテーブルが八脚にウエイトレスが一人。窓際の席に座った若い女性客のほかには、パソコンを広げた男性と中年の男女しかいない。

 大藪は窓際の席へ行き、女性の前に腰を下ろした。

 ワイシャツ姿の男性がパソコンから目を離し、喫茶店に入ってきた大柄な若い男をちらと見上げた。すぐに画面に視線を戻し、両手でキーを叩きはじめる。

 少し頭髪の薄くなった男性は大藪を気にすることもなく、グレーのスーツの内ポケットへ手を入れた。取り出したのはトランプが入ったケースだった。

「本当に手品が出来るの?」

「言ったでしょう。僕はマジシャンだって」

 男性がトランプを手に取り、鮮やかな手さばきでシャッフルした。

 それだけで目の前に座る女性が小さな嬌声を上げる。

 男性はたった一人の観客へ応えるように右手を上げてにっこりと微笑んだ。



 大藪が頼んだコーヒーが運ばれてくると、彼女は左手に持っていたスマホから視線を外した。ダークブラウンに染めた長めのボブを耳の上へかき上げる。中指にはめたリングのダイヤが窓から差し込む光を跳ね返す。


「キミ、大谷に似てるね。顔の造りは全然違うけど、顔が小さくて肩幅があって筋肉質だし」

「誰、大谷って」

「マジで言ってるの? 大リーグで二刀流やってる大谷だよ。わたしでも知ってるのに」

「二刀流と言えば宮本武蔵だろ」

「キミ、本当に平成生まれ?」

「たぶんね」


 肩をすくめた大藪に、彼女は呆れた表情を浮かべてスマホを眺めた。

 彼の顔を見ずに言葉を続ける。


「二刀流ってさ、二つの仕事とか役割を持つこと」

「ああ、そっちか。それなら俺も二刀流かも」

「ふーん。何の仕事してるの?」

「株トレーダー」

「うそだね」


 間をおかずに彼女から短い答えが返ってきた。


「バレたか。本当は家庭教師」

「うーん、ちょっとそれっぽい。もう一つの仕事は?」

「秘密。きっと後で分かるよ」


 うれしそうにほほ笑む顔、ちょっと可愛いかも。

 もう少し話につき合ってあげようかな。

 彼女はスマホをテーブルに置いた。


「それで、なんの用?」

「だからさ、首折り男がなぜ死んでいたのかって話さ。悪徳金貸しの首を折って殺したのは間違いなく彼なのに、どうして彼まで死んでしまったか。小説では明らかになっていないんだよ」

「ナンパするなら、もう少しまともな話から始めたら? そもそも本なんて読まないし」

「それじゃ一緒に考えてくれよ」

「自業自得っていうか、罰が当たったんじゃないの」

「金貸しからひどい嫌がらせを受けていた男を彼は救ったんだ。それなのに罰が当たるわけないじゃないか」

「でも人殺しよね」

「人助けさ」

「本人が気づいていないだけで、ほかの誰かに恨まれていたかもしれないし」

「それはよくある話だな」


 彼女が頬杖をつくと、荒い網目のニットが少し下がって手首につけた金色の細いブレスレットがのぞいた。

 大藪は珈琲に口をつけて椅子の背もたれに身を預けた。


「けどさ、罰が当たることって確かにあるんだよ。神様って本当にいるらしいし」

「それも小説の話? キミ、見かけによらず読書家なんだね。本当に家庭教師やってそう」

「まぁね」

「でも神頼みなんて、当てにならないでしょ」

「神様が手を貸してくれるのは、たまたま見ていたときだけらしいよ。みんなを常に見ているわけじゃなくって、酷いことをされている人をたまたま見かけたときに助けるんだってさ」

「なにそれ。いい加減なのね」

「でもそれくらいにしておかないと、神様だって大変だろ?」


 彼女はまた左手を伸ばしてスマホを手に取った。


「そもそも首を折って殺すなんてできないでしょ」

「できるさ」

「それは映画とかドラマの世界での話だよ。そんなニュース、聞いたことないもん」

「できるんだよ」

「ま、どっちでもいいわ。わたしには関係ないから」

「そうかなぁ。きっと、伊坂幸太郎を読まなかった人生を後悔するよ」


 彼女は窓の外へ目を向けた。少し眉を寄せて口をとがらせる。

 向き直ったときにはスマホしか見ていない。


「わたしも人がいいけど、そろそろ帰ってくれないかな」

「いい人かどうかは、自分じゃなくて周りが判断することだけどね」

「キミ、失礼なこと言うね」

「ごめんごめん、最後に一つだけ」


 大藪はチノパンのポケットに右手を入れて何かを取り出して、テーブルの上に置いた。折りたたんだ紙きれと小さな葉っぱだ。紙切れを開くと数字の羅列が見える。


「あれ、違う」


 反対のポケットをまさぐり、左手を開いた。

 自転車のカギをつけたキーホルダーに銀色の指輪が通してある。


「これ、きみの指輪じゃない?」

「なにそれ。知らないわ」


 少し身を乗り出して彼女は指輪を眺めた。手に取ることはしない。


「誰かにもらったとか。覚えてない?」

「覚えてない。わたしの趣味じゃないし」

「そっかぁ。覚えてないかぁ」


 大藪は彼女の背中越しに、ワイシャツ姿の客を見た。相変わらず、こちらに背を向けてパソコンを打っている。左後ろへ顔を向けると中年の男がウエイトレスを呼んでいた。

 すっと立ち上がり、彼女の隣に立つ。

 彼女はそれを気にせずスマホに目を落としていた。

 大藪がダッフルコートの裾をさっと広げると彼女の姿が隠れた。すぐに彼女の頭を両手でつかむ。


「な――」


 彼女の言葉が続くことはなかった。


「本人が気づいていないだけで、すげぇ恨まれていたんだよ。そのリングにブレスレット、どうやって手に入れたんだ? いい人だなんて、周りは思っていなかったってことさ」


 そうつぶやき、大股でゆっくりと喫茶店の出口へ向かった。

 彼女はスマホを覗き込むようにうつむいている。

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